04. …お怪我はありませんか?お嬢様
「映画までまだちょっとあるよね。蘭子お腹空いてる?このビルのクレープ屋さんおいしいらしんだ。行ってみない?」
「くれえぷ…?」
時間は午後2時半。昼食を抜いていた上、駅まで自転車で来た沙夜は、実はお腹の音を抑えるのに必死だった。
「うんクレープ。わたし大好きなんだぁ。蘭子も好き?なんかぁ、すりおろしりんごクレープとか、はちみつぜんざいクレープとかあるんだって。やっぱ気になるよねぇ!」
本当に大好きらしく、沙夜はテンション高くまくし立てる。
「りんご…?はちみつ…?……カレー…ぷ…?」
「そうクレープ。わたし、変り種クレープとか見るとぉ、どんなにたくさんあっても全種類コンプリートしちゃうの!蘭子もそういう事ない?あ、でも好きなのは甘いの限定ね!おかずクレープとかわたし絶対認めないから!あ、あとその店の場合、やっぱり最初はベーシックなバナナクリームとかいちごクリームがいいみたい。クリームが他とぜんぜん違うんだって!使ってる牛乳が特別らしくてね!」
「牛乳…?あ、クリープ!?」
「ねーいいよねークレープ!考えただけでちょっとにやけるぅ、えへへへ…。あ、やばい!人気店過ぎて3時にはもう完売になっちゃうんだよ!急がないと!」
沙夜はしっかりと蘭子の手を取り、勢いよく走り出した。蘭子を引っ張りながら、近くにあった上りのエスカレーターを階段のように駆け上る。ちょうどエスカレーターを利用する他の客がいなかったので、二人は立ち止まることなくどんどん進んでいく。階を上がるごとに、2人の痛いくらいにぎゅうっと握られた手が熱を帯びて汗ばんでいく。蘭子の手を引いてエスカレーターを上っていく沙夜の姿は、まるで悪者に捕らわれたヒロインを連れ出していく正義の味方のようだった。
「…まったく、たかがクリープのためにこんな必死になるとは、庶民の、いえ沙夜の意地汚さには驚かされますわ。今度ワタクシの家のバリスタの淹れるエスプレッソをお飲みなさい。クリープなんて邪道であるとすぐわかりますわよ?本物の味というのを知らない人間はコーヒーと見ればすぐにクリープと砂糖を入れたがるから、本当に困ったものですわ。…ただ、まあ、沙夜がそんなにもクリープが好きということでしたら、ワタクシも沙夜に合わせてあげないこともなくってよ。おーほっほっほ。おーほっほ…きゃっ!」
クレープ屋のある5階と、4階のちょうど中間というところで、2人の繋いでいた手が滑って離れた。引っ張られるまま沙夜の後ろについてきていた蘭子は、大きく背を沿らせて後ろにのけぞる高笑いの姿勢だったために完全に不意をつかれる。突然のハプニングに対応する事ができずに、なすすべなくそのまま背中から倒れていった。支えるものが何も無いエスカレーターを、蘭子はそのまま4階まで頭から落ちていく。
手が離れたことに気付いて振り向いた沙夜。意識がスローモーションになる。「蘭子…」急いで蘭子に手を伸ばす。だが届かない。「蘭子…」だんだん遠く離れていく蘭子。何か言うように彼女の口が開いているが、沙夜にはわからない。「蘭子…!」
沙夜は、エスカレーターの手すりを左手で力強く押して、倒れていく蘭子にすばやく体ごと近づく。蘭子の腰に右手を回しながら、一度手すりから離れた左手で、今度は押したのとは反対側の手すりをつかむ。ずしっ、と2人分の体重が沙夜の左手に掛かる。ざざーと、30cm近く滑って摩擦熱を発生させた左手は、最後はなんとか手すりを放さずに止まった。
沙夜が動くのがあと一瞬でも遅れていたら、右手は蘭子には届かなかったかもしれない。顔は蘭子の方を向いていたため、左手を手すりに伸ばしたのは完全に勘が頼りだった。それは、抜群のタイミングと、絶妙な幸運が重なった奇跡のようなものだった。
沙夜が蘭子の腰に手を回し、蘭子はのけぞって体重をその手に預けている。それでも沙夜の体は前のめりになっているので、2人の顔はくっつきそうなほど近い。2人は丁度ダンスでもしているような体勢になっていた。
「…お怪我はありませんか?お嬢様」
沙夜は無意識にそんな言葉を口走っていた。はぃ…。蘭子の返事は声にならない。驚きや恐怖や安堵の気持ちで顔を真っ赤にした2人を乗せたまま、エスカレーターはゆっくりと5階に向かって上っていく。その数秒間は2人には無限にも思えた。
沙夜と蘭子が手を繋いでエスカレーターへ走っていくのを、後続する3人も追いかけていた。何故か2人は一心不乱にエスカレーターを上っていくので立ち止まったり振り返ったりする心配はなさそうだったが、きいなとしとねは忍者のように機敏に身を隠しながら一定の距離を保って追跡した。2人に比べると体力がない衿花は、つらそうに少し遅れてついてくる。
「ん?止まったー……あ、あぶない!!」
エスカレーターの上の方で蘭子がバランスを崩したのに気付いて、きいなが急いで駆け寄ろうとする。そもそも駆け寄って間に合うような距離ではなかったのだが、沙夜が蘭子の腰に手を回して支えたおかげで蘭子は倒れずにすんだ。その光景は、後から遅れてやってきた衿花にはエスカレーターで沙夜が蘭子を押し倒したようにも見えた。
「え?え?えええ…」
きいなとしとねは、衿花の口を押さえて4階のエスカレーター入り口の陰に隠れる。
沙夜と蘭子は顔を近づけて抱きかかえる姿勢のまま、エスカレーターでゆっくりと5階に上がっていく。
「いいぞ、上りきる前にそこでキスだ」
「うー、2人が重なってるからよくみえないなー。もーしてるんじゃない、キスー?」
きいなとしとねは完全に面白がっている。衿花はショックのあまり真っ白になって硬直していた。
 




