01. 蘭子と呼んでいただいて結構よ!
「いってらっしゃいませ」
「は、はい、行って参りますわ。おほほほ…」
高級ホテルのような建物から、従業員らしい男女に見送られて1人の少女が出て来た。上品さを取り繕って微笑んではいるが、彼女、黒星沙夜の様子には違和感しかない。体に染み付いた貧乏くささが、全身から染み出ているようだ。しばらくすると、ぶつぶつと独り言を始めた。
「『初めましてよろしくお願いします!わたし…』、いや普通すぎか…、『皆様ごきげんよう。わたくしの名前は…』、キャラじゃ無いなー…」
転校生の沙夜にとって、今日ははじめての登校日。自己紹介のパターンを何度も模索してみるが、いまいちしっくりくるものが見つからない。
空は気持ちのいい秋晴れだった。少し前までの夏の暑さはどこかへ行ってしまったような過ごしやすい気温で、やさしく頬にあたる風も心地よい。いまだ緑の残る広葉樹が囲む通学路を、軽やかにスキップしてすすむ沙夜。彼女の真新しいワンピースの制服の裾も揺れる。
セントレミア学園。
それは、とある地方都市の校外にある、幼稚園、小、中、高等部、大学エスカレーター式の、女子を対象とした総合教育機関。その広大な敷地の中にはコンビニはもちろん、銀行、郵便局、ショッピングモールや映画館、鉄道の駅に至っては2つも入っている。その規模的には一つの街といってもなんら差支えがない。
その教育理念は『将来の日本を背負ってたつ、一流の淑女を育成すること』であり、そのために施設、人材、教育内容の全てが徹底的に一流のもので揃えられ、それを維持する為に惜しみなく資金が投入されていた。
もちろん入学するには厳しい条件がいくつもあり、莫大な額の費用もかかる。おのずとその学園の生徒は、巨大病院の院長や有名政治家といった上流階級の令嬢、いわゆる『お嬢様』だった。だから、ただの労働者階級の家の、根っからの小市民に過ぎない、黒星沙夜風情が、そんな学園の高等部2年に転入できることになったのは奇跡としか言いようがなかったし、実際、様々な手違いの結果偶然生まれた学園システムのほころびを、沙夜とその両親がずうずうしく利用したようなものだった。学園は既に夏休みが終わり、2学期が始まってから既に2週間が経過しているような中途半端な時期だったが、そんな事情の沙夜が何か文句を言えるはずも無かった。
さっき沙夜がでてきた高級ホテルのような建物は、正しくは学園付属の学生寮だ。外見だけでなく、建物の中も、部屋の内装も、そのサービスも、高級ホテルのそれと遜色ないほど超一流。にもかかわらず学園の生徒であれば家賃、光熱費等の費用が全て無料で利用ができるという、まるで一般庶民の沙夜のために有るような寮だった。実際、そんな破格の高待遇にも関わらず、その学園の生徒で寮を利用している者はほとんどいない。寮に常駐している従業員からその理由、『大抵のお嬢様たちは高級ホテルの一室でも狭くて耐えられなくて、学園の近くに別荘を建ててしまう』という話しを聞いて、引っ越してきた初日から沙夜は度肝を抜かれてしまったのだった。
だがもちろんそんなものは、沙夜が思い知らされることになる一流学園の『一流さ』の、片鱗ですらなかった。
数時間後。
放課後、沙夜は教室の自席で抜け殻のように放心していた。初日にして、自分はなんて場違いな存在なのかと思い知らされ、転校してきたことを、いやむしろ生まれてきたことを後悔した。
学園は高等部の校舎の中だけでも広すぎて遭難しかけた、授業は高度過ぎて全然ついていけず全てが外国語のように聞こえた、住む世界が違うクラスメイトたちとはまったく話しが合わない、etc、etc…。
そうだ明日から長い旅にでよう…どこか海の見える場所へ…、と沙夜が現実逃避を始めたところで、教室内によく通る甲高い声が響いた。
「黒星さん!」
完全に油断していた沙夜は驚いて飛び上がりそうになりながらも、なんとかその声の方を振り向く。振り向いた先、教室の入り口のところで、金髪縦ロールの少女が高圧的な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。
「えっと…」
外国人の血が流れているのだろうか、ブルーの瞳にしみひとつない真っ白な肌とブロンドの髪。その鮮やかなコントラストが美しい。ワンピースの制服は、他の生徒が着ているものよりずっと滑らかで上品な光沢のある材質で、フリルのようなものが随所で自己主張する、彼女の特注デザインのようだ。他を圧倒するような自信に満ちていながら、たおやかな女性らしさがアンバランスにならずに同居している彼女。髪も肌も制服も、彼女にまつわる全てのものがきらきらと輝いているようで、誰もが抱く『お嬢様』というイメージそのままの容姿は、典型的、理想的、絶対的『お嬢様』という感じだった。放心状態の沙夜がおぼろげな記憶を参照しても、今朝HRで自分に自己紹介をしてくれたクラスメイトたちの中に彼女のような『お嬢様』がいた記憶はない。沙夜は戸惑いのあまり、ただただその『お嬢様』に見とれる事しかできなかった。
「鳳蘭子。蘭子と呼んでいただいて結構よ!」
目の前にきて、まぶしいくらいの笑顔でそう言い切ると、蘭子は強引に沙夜の手を握る。一瞬で沙夜の手のひらに彼女の手の柔らかい感触が伝わり、同時に蘭子の揺れる髪からジャスミンのようないい香りが届いて、沙夜は思わずドキッとした。蘭子の吸い込まれるような瞳と沙夜の目が合う。ニコっと微笑んだ蘭子につられて、沙夜も笑顔を作ろうとした瞬間、急に沙夜の手が強く引かれた。
「えっ?!ちょ!ちょっ、えーっ!」
蘭子は手を握ったまま、何の説明もなくずんずんと教室の外へと沙夜を連れ出す。
「おーほっほっほっほー」
あんまりにもあんまりな蘭子の笑い方につっこむ余裕もないまま、廊下を抜け、階段を上り、校舎の外に出たと思ったらまた別の建物に入って…。なすがままに沙夜は引っ張られて連れられていく。
駆け抜けるような速度で、沙夜はそれから10分近くは引き回されただろうか。やっと蘭子が止まったのは小さな扉の前だった。その頃には完全に息が上がっていた沙夜は、蘭子の手が離れるなりその場にしゃがみこんでしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ…鳳さん…?はぁ、はぁ、どうしたの、はぁ、ここ、は…?」
「ワタクシの所属する演劇部にようこそ!歓迎いたしますわ!」
「え…っと…?」
なんの変哲もないその扉を手のひらで示しながら、蘭子は満面の笑みを浮かべている。何のことだかまったくわからない沙夜はきょとんだ。こちらこそわからない、という風に怪訝な顔をした蘭子は、人差し指を顎にあてて考えるようなポーズをとった。
「確認させていただきますけれど、あなた…黒星沙夜さんよね?」
「あ…はい」
「本日、この学園に転校していらっしゃった、黒星沙夜さん?」
「そー…ですね」
「あなた…もう、入る倶楽部はお決めになって?」
「えっと…、それって部活のこと?私まだ…」
蘭子はそこで大きくうなづき、自分は何も間違っていなかった、という風な満足げな顔を作る。
「ワタクシの所属する演劇部にようこそ!歓迎いたしますわ!」
あれ、戻った?
ちょっと、というかだいぶ強引な目の前の少女は、転校生の自分に演劇部に入ることを勧めてくれているようだ、という事がわかってきた沙夜は、一度大きく深呼吸をして気を落ち着ける。良く見ると扉には『演劇部』と書かれた、プラスティックのプレートがついている。ここは、この学園の演劇部の部室だった。
この学園の高等部の各部活は、教室がある校舎とは別の建物となる部室棟に、それぞれの部室が用意されている。5階建ての建物の中に、電算部用サーバールーム、文学部専用図書館など、各部が必要とする施設が全て入っており、それだけで普通の高校の数倍の規模がある。演劇部の部室はそんな部室棟最上階の端にあたるので、沙夜はとんでもない距離を蘭子に引きずられてきたのだった。
怖いもの知らずで、天性の楽観主義でもある沙夜は、状況が飲み込めてくるとだんだん普段の調子を取り戻した。
「あっ、鳳さん演劇部なんだねぇー?わたしまだ部活入るかどうかも決めてないんだけどぉ、せっかくだから見学させてもらっちゃおっかなぁ?」
「演劇部にようこそ!歓迎いたしますわ!」
この人さっきからコレばっかり…。
このままだと一向に話が進まなそうだったので、一応ノックをしてから、「失礼しまぁす」と沙夜は部室の扉をあけた。