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12

 棺桶に似た、横長のビルから脱すると、夜の帳が辺りを覆っていた。切子の散切りの髪が、陸風に巻かれ、ぱさぱさと揺れる。空を仰ぐと、星がまばらに張り付いていた。初夏の潮の匂いに鼻先をくすぐられ、一つ小さなくしゃみをする。

 無法地帯《境界》――日が暮れると、ほとんどの灯りが消え、暗闇に支配される街――。

 だが、海峡を隔てた先に見える《東京》は、まるで篝火を焚き上げてでもいるかのように、いつも煌々と輝いていた。こちら側でろくに星を見ることができないのは、きっとそのせいだ。

 切子は立ち止まり、振り返った。つい数分前までその腹中にいた、荒廃した巨大な建造物が、闇より黒い影を地面に落としていた。

 そこから、昔は車両用道路だったらしいアスファルトの舗道に出た。今は傷みが激しく、ところどころ大きな穴が空いているので、落ちないように気をつけなければならなかった。

 しばらくそうして歩き進んでいた切子だったが、背後から早足に近付いて来る、何者かの気配を感じ取った。

 全身に殺気を漲らせて振り返る。この街では、いつ命を落としても不思議はないのだ。

「待って」

 その声で、そこに誰がいるのかわかった。気を緩めることなく、刀の鞘に手を置いたまま応えた。

「何?」

「一緒に行く」

 小走りで、闇の中でも顔がわかるほどに近付いてきたのは、ナツだった。派手な赤いキャットスーツ。その曲線は同性である切子が見ても、なかなか悩ましいものだった。

「何で?」

 怪訝な視線を向ける。だが、怯む様子も無く、ナツは鮮やかな微笑みを浮かべた。自分が十分美しいということを知っている者にしかできない、自信に溢れた表情。

「だって、私は今まで、一人で生きたことが無いから。この状況に慣れるまでは、よく知っている人間の側にいた方が身のためでしょ? 私みたいなのが一人でいると、色々と面倒なことに巻き込まれると思うのよ。できれば煩わしいことは避けたいの。それに、私の世話を焼く義務が、あなたにはあると思うし」

「何でよ!?」

「だって、あなたのせいで、パパを裏切るようなことになっちゃったじゃない」

「あんた結局、犬丸を逃がしたでしょうが」

「だけど、あなたの肩を持った私は、ファミリーに戻っても裏切り者の烙印を押されてしまう。私はあなたのせいで居場所を失ったのよ」

 ぬけぬけとしたその言い分が心底腹立たしかった。だから、くるりと背中を向け、こう言い捨てた。

「勝手にすれば」

「勝手にする」

 ナツはそう呟き、後に付いてきた。

 この無法の街で誰かの世話を焼くなんて、そんな厄介なことには、できるだけ関わりたくないのが本音だ。だが、一人が二人に増えようが大した差はないと、切子は考えた。

 しばらく無言で歩き続けていると、ナツが少し不安そうな声で聞いてきた。

「どこに行くの?」

「月子さんのところ」

「月子さん?」

「ホストマザーの収容施設」

「ああ、産み女達の屠殺場か」

 ナツはそう独り言ちると、それ以上は聞こうとしなかった。

 海岸沿いの道を、しばらく無言で歩いて行く。波の音がやけに耳について、切子は右手に顔を向けた。濃縮された闇のような海原の先、向こう岸に、まるで光の洪水のような風景があった。

 剣に似た細長い、数え切れないほどの尖塔が、薄墨色の天に向かい、貫こうとでもしているかのように伸びている。それらはどれも光をまとい、瞬き、金や銀に輝いていた。あたかも神光のごとく、周囲を照らし、浮かび上がっている。

 この景色を眺めると、切子はいつも、確かに東京は、楽園のようだと思う。

「あの二人、どうした?」

 ふと立ち止まって尋ねた。あちら側からの異邦人達。

「さあ? 私が出てきた時も、まだあそこにいたから」

 ナツの答えを背中で聞きながら、切子は二人の顔を思い出した。オリジナルの方は、その内救助の手が差し伸べられるだろう。だが、戦士型クローンの方は、あのままあそこに留まれば、間違いなく殺されてしまう。

 だが切子には、無理矢理彼らをあの場所から連れ出すことはできなかった。例え、月子との賭けに負けたとしても。それは、彼ら自身が決めなければならないことなのだ。そうしなければ、体に染み付いたシステムから自由になることはできない。

 ただ、コータの目の中に見た戸惑いに、切子は小さな希望を見出していた。そして、もしかしたら本当に、コータは月子が最初に生んだ子供だったのかもしれないと思った。

 それにしても、月子には何と言い訳すればいいのか。結局自分はコータを助けることはできず、月子を収容所から連れ出す切り札を失ってしまった。気が重くなったが、また何度でも頼み続ければいいと思い直した。きっと月子は許してくれると信じて。彼女との関係は、まだ始まったばかりなのだ。

「ねえ、しばらく静かにしていたみたいだけど、また廃棄クローンの救出始めたの?」

 ナツが聞いてきた。

「別に。でも、それもいいかもね」

 切子は振り返り、少し微笑んだ。


 それから十五分ほど歩いて、ホストマザー収容所に辿り着く。壊されたままの扉を開けた。室内の空気が外気と混じり合った時、さっき来た時よりも、血の臭いが濃くなっていることに気づいた。

嫌な予感に、切子の背筋が凍る。

「おかあさんっ」

 一気に三階まで走る。収容房に辿り着き、鉄の扉を開けた。

 そこには、何も変わっていない、だが、女達の姿だけが消えてしまった空間があった。

 切子はよろよろと、つい二時間ほど前には月子がいたところまで歩き、その前にある電気の切れた黒い画面に触れた。それは硬い石のようで、微かな熱も伝えてこなかった。

 ふと、その足下に光るものを感じ、目線を下げる。白い紙の上に、銀色のペンダントが置かれていた。月子がずっと身に着けていた、三日月のペンダント――。

 切子は体を屈め、手を伸ばして、それらを拾い上げる。五センチ四方ほどの紙に、小さく一文が書かれていた。

『体を大切に』

 ただそれだけだった。

 凍っていた感情が、一気に噴出する。切子は踵を返し、房中を駆ける。

 だが、戸口を塞ぐように、ナツが立っていた。

「どけっ!」

 哀しげな目をした相手に、切子は吼えた。

「行ってどうするの、もう手遅れだよ? それに……」

「それに?」

「もう自由にしてやりなよ。彼女がそれを望んだんでしょう?」

 ナツの言葉に、激しく逆巻いていた感情が、虚無に変わる。

「自由に……」

 切子は右手と左手にそれぞれ、月子のペンダントと手紙を握り締めた。両目から生温い液体がこぼれ落ちていくのを、止めることができなかった。                     

                                           

                                                       (了)                                 


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