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「じゃ、行くか」

 犬丸が残したカメラを足で踏みつけ壊した後に、切子はコータとリュウを促し、踵を返した。ナツは未だ、呆然と立ち尽くしている。

「後はあんたの好きにしな」

 ナツに一言残し、交差する白い線の上を、切子は歩いて行く。

 コータは慌てて追い縋る。これまでと同じように、その後にリュウが従った。

 小さな背中を見つめながら、コータは、さっきまでとは違う不安が胸に浮かび上がってきているのを感じていた。

 猫女達に襲われてからずっと、生か死か、細いロープの上で綱渡りしているような、切羽詰まった恐怖を感じていた。そして同時に、死にたくないと、生きたいと願った。それは、これまで一度も経験したことがない、大きな感情のうねりだった。

 しかし、外の世界へ脱出しようとしている今、まったく違う怖さが広がり始めていた。

 生を切望する感情は明快で強烈だ。しかし、じわじわと体を侵食していくこの感情は、陰気で重苦しかった。

 コータには、小さな繭の中のことしかわからない。切子が自分を連れて行こうとしているのは、未知の世界だった。一体それはどんなところなのか? 自分はそこで生きていけるのか? 視程ゼロの濃霧に、自ら飛び込んで行こうとしているような気がして、コータはどうしようもない不安に襲われていた。

「危ない!」

 不意に、誰かの尖った声が灰色のコンクリートに反響した。

 雑念に囚われていたコータに、それがナツの声だと認識できた時、どさりと、何かが倒れ込む鈍い音が聞こえた。

 振り向くと、リュウが腕を押さえ、床に膝を突いていた。

 状況が把握できないまま、

「伏せろ!」と、

 どこからか聞こえてきた声に無意識に従い、コータはコンクリートの床に腹を付け、周りを見回した。いつの間にか切子が、リュウの側に駆け寄っている。

「立てるか!?」

「ああ……」

 切子の問いにリュウは頷いた。だが、彼が酷い痛手を受けていることは、コータにも一目でわかった。

 リュウのシャツは真っ赤に染まっていた。左肩の上部が吹っ飛び、赤い肉と白い骨が剥き出しになっている。

 リュウが気丈に立ち上がろうとする脇で、切子は辺りに注意を払っていた。少し離れたところに立っているナツが、しきりに手を動かし、何か言っている。どうやら向かって左側、十メートルほど離れた柱を指差しているようだ。

 そこから、ナツを狙った光線が飛んだ。

 彼女は素早く体を反転させ、柱の影に隠れた。

 その間に、切子はよろよろと立ち上がったリュウと動転しているコータを庇い、近くの柱まで走り、身を寄せた。

 切子は端から顔を出し、敵の姿を見定めようとしていた。その後ろに隠れたコータは、隣で片膝を突き荒い息を吐いているリュウを間近に見て、傷の深さに愕然とした。左肩に腕がかろうじてぶらさがっているような状態だった。右手で押さえなければ、ちぎれて落ちてしまいそうだ。

「誰だ!?」

 切子が叫んだ。

 しかし、何の反応も無かった。がらんどうのフロアに不気味な沈黙が漂う。

 だが少しして、

「あっ」と、

 小さな驚きの声を切子が漏らすのを聞き、コータは思わず切子の肩越しに通路を見た。

 そこに、誰か立っていた。

 右手にレールガンを下げているので、それがリュウを撃った張本人だとすぐにわかった。そいつは服の印象から若い男に見える。大胆にも身を隠すものが無い通路の真ん中に、一人で立っていた。

 その男の顔に視線を移した時、コータは雷に撃たれたような衝撃を感じた。

「あいつ……」

 無意識に声が漏れた。

「俺……!?」

 真っ直ぐこちらに顔を向け、堂々と立っていたのは、コータと瓜二つの男だった。いや、その体つき、表情の作り方、立ち姿まで、まったく同じと言ってもいいほどで、着ている服が違っていなければ、コータも自分がそこに立っていると思ったであろうほどだった。

「お遊びは終わりです」

 生き写しが口を開いた。声質まで全く同じだ。だが、コータよりずっと丁寧な言葉遣いで、銃を向けてくるような敵意は感じられない。

「神太様、今回のトラベルで許可された移動範囲は、この建物内だけです」

 コータはびくりと体を震わせた。生き写しの男が、今確かに自分の名を呼んだ。だが、何を言われたのか、その意味はわからなかった。

「トラベルだって……?」

 切子はそう呟いた後、振り返ってコータを凝視した。

「切子さん、こんなところでまさか御高名なあなたにお会いできるとは思わなかった。でもそれは私の失態です。あなたがこの街にいることは知っていたのに。しかし近頃は、政府の危険人物リストから外れたものと聞いておりましたので」

 男に、切子は再び顔を向ける。

「そうか、お前ガイドか。それじゃあ、こいつはオリジナルか。迂闊だった……」

 切子はコータを指差した。コータには、何が何だかわからなかった。

「そうです。神太様もそろそろ暗示と薬の効果が薄れ、記憶を取り戻し、本来の状態に戻られる頃です。もう、夕食の時間をかなり過ぎていますからね。薬を採らないと、暗示の効果はすぐに消えてしまいます。オリジナルにはそれほど強い薬物を使うわけにはいきませんから。クローンと違って」

「これは……ただの余興か……?」

 切子が唸る。

「そうではありません、すべて本物です。神太様は、本当にここの住人になられたのです。彼が望まれたのは、恐怖と嘆き。オリジナルの方々の静かで恵まれた暮らしには無い、激しい慟哭――。ですから神太様は、壊れたクローンと少しも変わらない待遇で、殺戮イベントへの参加を望まれたのです。事情を知る視聴者、神太様と同じオリジナルの方々は、神太様がどうなるか、きっとはらはらして見守っていたことでしょうね。随分感情移入されたに違いありません」

 コータは、生き写しの語る声を聞いているうちに、脳味噌がどくどくと脈打つような異様な感覚に襲われた。ずっと頭中にもやっていた霧が強制的に払われ、隠していたかったものまで、陽の下に晒されてしまうような気がした。

「もちろん、オリジナルの方を危険な目に合わすわけにはいきませんから、ちゃんと手は打ってありましたが。しかし切子様、あなたが参入してきたことは、本当にまったく予想外の出来事でした。神太様のご希望に添えず、途中で切り上げなければならないかと危惧しておりました。私の役目は神太様のお望みを叶えることですが、それよりもまず身の安全を図らなければなりませんから」

「私は茶番に付き合ってしまったわけか」

 切子が吐き捨てるように言った。

「ナツ、あんたも知ってたの!?」

 二つ隣の柱に隠れているナツに向かって声を張る。

「私達も知らなかった……」

 ナツが戸惑った様子で返事をした。

「彼女達は知りませんよ。最初から敵に知らせてしまったら、臨場感が無くなってしまいます。それではご希望に添うことができません。神太様は生々しい感情を御所望なのですから。もちろん、ラブ・ファクトリーの実力を踏まえた上で、こちらは計画を立てたわけですが」

「そうか……こいつ……」

 切子は振り返り、床にうずくまっている男に視線を向けた。

「彼……そこにいるリュウは――私はファーストと呼んでおりましたが――その気になればラブ・ファクトリーくらいの集団なら一人で潰しますよ。彼は世界の戦場で働くよう開発された人間兵器です。きっとあなた以上に、人を殺すことには長けています。ファーストがいたからこそ、このトラベルに許可が下りたのです」

「人間兵器だって? 何だってそんな奴が……!?」

 切子は驚きの声を上げる。

「不良品になれば行く末は同じですよ。彼もクローンであることには変わりがありませんから」

 クローン――コータと瓜二つの男が発音するその言葉には、明らかに蔑みの意味が含まれていた。

「散々酷い目に合わせといて、規格外となれば、物みたいに処分するわけか」

「仕方ありません。日本という資源の乏しい国が、諸外国と競いながら国内の平穏を維持していかなければならないのですから。私達は生き抜くために、今のシステムを生み出したのです。それに、あなたもそのシステムの恩恵を受けた一人のはず。B級市民だったあなたが死刑を免れたのは、A級の特権をお持ちだったあなたの姉妹が亡くなったからではありませんか」

「死刑になった方が、色々と後腐れは無かったと思うけどね」

「まあそう言わず。せっかく境界への追放だけで許されたのですから。それに、私のような者には、あなたの境遇は羨ましいのです。私は神太様のガイドですから、他のクローンよりは多くの権利を認められている立場ではあります。ですが、クローンとして生まれたことに代わりありません。例え今、不慮の事故で神太様がいなくなられても、私がその後窯に座ることはない、あなたと違って……。さあ、そろそろ皆様、その柱の影から出ていらしてはどうでしょうか? 私があなた方に危害を加えることがないことは理解していただけましたでしょう? ガイドである私のできることは限定されています。お願いです、私に仕事を終えさせてください」

 切子が鼻を鳴らして通路に出た。コータが覗き見ると、すでにナツも同じように身を晒していた。それでもコータは、そこから動く気にはならなかった。だが、後ろでうずくまっていたリュウまでもが、血を流したまま立ち上がり、通路へと出て行った。

「おいっ」

 コータは慌てて呼び止める。

 するとリュウは、一度立ち止まって振り返り、何もかもを受け止めているような、一度も見たことのない穏やかな微笑みを浮かべた。

 胸の奥に、これまで抱いたことのない感情が涌き上がるのを、コータは感じた。やるせなくて、泣き出してしまいたくなるような、そんな気持ちだった。

 リュウは、生き写しの男の正面に立つ切子と、その斜め後ろに控えるナツより、数歩下がったところで止まった。

 確かに男は、切子達を目の当たりにしても、レールガンを構えようとはしない。だがコータはまだ、その男の前に進み出る気にはならない。黒い凝りのような不安が胸の真ん中に居座り、足を引き止めるのだ。

 男が苛立った声を出した。

「神太様、いつまでもそのようなところに隠れていないで、お顔をお見せください。そろそろあなたもご自分が何者なのか、思い出しているはずです」

 恭しい言葉遣いとは裏腹に、男の態度には有無を言わせない強引さがあった。

 次第に男の言葉を理解できているように感じられてくる。だが、怖かった。コータは、自分の心の底を覗き込みたくなかった。

「いい加減出てきなよ。これがとんだ茶番だってことがわかってしまった以上、そんなところにいつまでも隠れていても意味がない」

 痺れを切らしたのか、切子が促した。その声には怒りが感じられ、コータは震える。恐る恐る柱から離れ、通路へ足を踏み出す。

 白い照明の光が、身を隠すものを失ったコータの姿を浮かび上がらせた。魂まで見透かされているような気がして、足が竦んだ。

「神太様、今回のトラベルはこれで終了です」

 男が頭を下げる。

「ガイド……」

 その単語を口にした時、それがキーワードだったのか、朝靄が光に掻き消されるように、コータの頭の中がはっきりした。

 ずっと手にしていた銃を取り落とす。それは、耳障りな音を立てて床に転がっていった。結局、一度も使うことは無かった武器――。

「ああ……」

 コータは呻いた。自分が何者なのか、何故ここにいるのか、全て思い出していた。

「もう大丈夫ですね? 神太様」

 男は、コータそっくりの顔に、そっくりの笑顔を浮かべて尋ねた。

「ガイド」

 今度はコータは、はっきりとその言葉の意味を理解し、男に呼びかけた。

 目の前にいる瓜二つの男は、自分のために存在するガイド――平和で退屈なA級オリジナルの暮らしに、少しでも刺激を与えるために存在している。ガイドはクローンだが、オリジナルに一番近い存在として、権利を多く保有している。

「本物の死の恐怖はいかがだったでしょうか?」

 平板な口調で聞いてくる。

 今コータは、自分が何者であるのか、はっきりと自覚してそこに立っていた。

 榊神太――それが、オリジナルである彼の本当の名前だった。

 コータは、卵細胞と精子が結合した受精卵からこの世に生を成した。姓名を持つのは、そういった生まれの者だけだった。オリジナルと呼ばれ、特権階級である彼らは、労働はしない。例外は、齢三十を越えた時に得られる参政権によって国会議員として立候補し、選出された時のみ。その時は為政者として、日本の統治を行うことになる。

 政治に参加できるのはオリジナルだけであり、それ以外の者には、選挙権は与えられていない。

 だが、労働し、実際に社会のシステムを動かすのは、オリジナル以外の存在だった。彼らはその出自によって、割り当てられた権利を得られるか、もしくはヒト資源として使い捨てにされる存在になるのかが決まる。

 ある時代、日本人の遺伝子に突然変異が生じ、多くの国民が生殖能力を失った。その原因は、宇宙線被曝や他国の化学兵器の可能性を噂されているが、未だ特定されていない。これ以降日本は、二つの政策を以って人口減を食い止めようとした。

 一つは、生殖能力を保持している者を保護すること。そしてもう一つは、ヒトクローンを育てることを推奨し、彼らによって、社会のポテンシャルを保つこと。

 この時代、世界の情勢は非常に不安定で、国力が削がれることは、そのまま亡国にも繋がりかねなかったのである。

 生き延びることのみが重要視された時代において、クローン達の人権は疎かにされた。

 国民として認められるのは、遺伝子を残す可能性を持つ者のみという差別、そしてクローンの厳しい境遇は、人道にもとるとして、過去には幾度も論争を巻き起こした。しかし、日本の置かれる苛烈な社会状況を鑑み、そのような思想は歴史の趨勢の中に紛れてしまうこととなった。

 時代は移り、現代ではすでに、ヒトクローンを人間として認識する者はほとんどいない。彼らは飽く迄、日本社会を維持するための道具であり、また彼らも、自分自身をそういう存在だと信じていた。

 それでも、今でも過去の思想を根拠にして活動する者達がいないわけではなかった。クローン解放を掲げる団体は、穏健派から過激派までいくつかあり、その中でもとりわけ過激で、テロリストとして認識されていたグループに、切子は所属していた。

 薬物の力を借りて異様な戦闘力を発揮する闘士として、切子の名前はよく知られていた。だが数年前に、切子も囚われの身となった。死刑となるはずだった彼女の命を救ったのは、彼女の出自だった。

 オリジナルが誕生する時、多くの場合血筋を絶やさないため、人工的な処置によって一卵生多胎児として誕生させる。より優秀と定められた新生児をA級オリジナルと定め、以下はB級C級と、階級が下がる。

 切子はこのB級であった。だが、捕らえられて後、A級市民だった妹が自殺した。この瞬間、切子の身分はA級市民へと繰り上がった。何人であれ、A級オリジナルを処刑することは認められない。妹の死の代わりに、切子は生きることになったのだ。

 そしてガイドとは、A級オリジナルの生活全てをサポートすることを使命として存在する者である。A級とより近しい者が適任とされるため、ほとんどの場合、彼ら彼女らのクローンがその任に付くことになる。オリジナルは、多数のクローン作成を義務付けられているが、ガイドはその中から選出されている。

 全てを思い出したコータは言葉を無くし、ただ立ち尽くすしかなかった。

 これまでの残酷な出来事は、彼自身が望んだものだった。コータは感じてみたかったのだ、悲しみを。平穏で単調な生活の中では、決して得られない激しい感情を。

 しばらくコータの顔色を窺っていたガイドが、とうとう痺れを切らしたらしく、口を切った。

「では、私は最後の仕事をやり遂げ、この任務を終了いたします」

 手にしていたガンを上向けた。銃口が蛇のように鎌首をもたげる。それが何を狙っているのかは、はっきりしていた。ガイドは、リュウに照準を定めていた。側にいる切子もナツも、その視界には入っていなかった。

 コータには、これから何が行われようとしているのかわかっていた。だが、足はその場に固定されてしまったかのように重く、口は鉛を飲み込んだかのように痺れ、言葉を発することができなかった。ただ呆然と、成り行きを見つめることしかできなかった。

 リュウが歩き出した。切子とナツの間を抜け、ガイドが構える銃の前に、その傷ついた体をさらけ出した。

「これで終わりです」

 ガイドはトリガーにかけている指に力を入れた。

 その瞬間、コータの頭は沸騰した。何か叫ぼうとして口を開いた。けれどそれは言葉にはならず、喉の奥から低い呻きが漏れただけだった。

 そして、コータは見た。稲妻のごときスピードで、切子が走るのを――。

 彼女の刀が星のようにきらめく。一瞬のうちにその体は、ガイドの前へ移動する。

 硬いコンクリートで囲われた空間に、刀を鞘に納める音が響く。コータの瞳に、信じ難いものとの邂逅に驚き、目を見開いているガイドが映った。

 次に視界に入ったのは、首から血を吹き出し、前のめりに倒れ込むガイドの姿だった。その傍らで、無表情な切子が自分を見据えているのに気付く。

「あんた達の都合は、私には関係ない」

 その時はっきり、コータは思い知った。切子は、自分の味方なんかではないのだということを――。



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