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8


「わかった」

 切子は承諾した。

 コータは意外だった。ただの気紛れなら、ナツの挑戦を受ける必要はない。けれど彼女はその提案を受けた。

 切子は犬丸の喉元から刀を離し、がたがたと震えている体を前方に突き飛ばした。

 つんのめって数歩先に倒れ込んだその男に、ハルとアキが駆け寄った。二人は床に膝を突いて屈み、両脇から支える。立ち上がった犬丸の顔は放心状態で、目の焦点が合っていなかった。

「許さない!」

「パパになにを!」

 猛り狂ったハルとアキが吼える。足がぐらついている犬丸がいなければ、今にも飛びかかっていきそうだった。

「やめなっ!」

 ナツが峻烈な声を上げた。一瞬、ハルとアキが、毒気の抜かれた顔をする。

「切子とは私がやるって言ったはずよ。手を出したら許さない」

 ナツが圧倒的な気勢で断じた。

「なんだと!?」

「ふざけるな!」

 ハルとアキはそれぞれ悪態を吐いたが、その声には張りが無い。

「雑魚は黙って見ていればいいのよ」

 ナツのふくよかな唇から、ひやりとする言葉が投げつけられる。さっきまで仲間に対して一歩引いている様子だったのに、同一人物とは思えないほど尊大な態度に変わっていた。

「そいつには、フユだってかなわなかったんだ。あんた達二人じゃ、共闘したって勝てない。まして、自分がパパに誉められることしか考えてないようじゃね」

 ナツは顎を上げて切子を示す。

 彼女の組織内でのポジションは、元々はかなり高位にあったのだということを、コータは理解した。二人に貶められていたのは、切子のせいで仲間内に不協和音が生じたからなのだろう。

 首に突きつけられている危険物のことも忘れて、そんなことを考えていると、ふいに耳元で囁かれた。

「悪かったわね」

 はっとして振り返ろうとする。しかし、加減の無い力で背中を押され、不意を突かれた体は頼りなく、よろよろと前につんのめった。

 すると思いがけず、逞しい腕にがっしりと受け止められた。リュウの腕だ。

 気付いたコータは、すぐにその中から逃げ出し相手を睨みつけた。

「無事でよかったな」

 真剣な顔で言われ、調子が狂う。さっきからリュウの態度がいつもと違う気がして、何かしっくりこなかった。

 だが今は、そんなことに気を取られている場合ではないのだ。コータはすぐに切子とナツを注視した。

 整然とコンクリートの柱が並ぶ、広い通路の真ん中で、ナツと切子が互いの顔を見つめ合い、対峙している。コータ達の近くにはナツがいて、切子の背後には犬丸達三人が、数メートル距離を取ってその背中を睨んでいる。ハルとアキに寄り添われた犬丸の手には、さっき落とした小型カメラが握られて、すでに切子達に向けられていた。懲りない男だとコータは思った。

 二人は互いにそれぞれの敵方に背中を向けている。だが、どうやらそんなことはまったく気になっていないらしい。彼女達の目には、今は互い以外入っていないのかもしれない。そう思わせるほど、二人の間には、他の者を寄せ付けない気配が立ち昇っていた。

「フユのことを覚えているかしら?」

 視線が火花を散らすような沈黙の中で、先に口を開いたのはナツの方だった。

 切子が頷く。

「なかなか骨のある相手だった」

「私は彼女が負けるのを初めて見たわ。彼女と私の力はほぼ互角――彼女を倒せるのは、私しかいないと思っていた。残念だわ」

 コータには、ナツの背中しか見えない。

「で、仇を討つって?」

「まさか」

 ナツは笑い声を上げた。

「私達は、そういう間柄じゃないわ。ラブ・ファクトリーではみんな、パパのことしか見ていないの。そういう風に育てられたのよ。でも、彼女があなたに負けるのを見て、私の中で何かが変わった。もしかしたら私達――私は、井の中の蛙なのかもしれないと、初めて自分の境遇に疑問を持った。あなたにはある意味感謝しているわ、切子。それまでの私は、パパに誉められること、それだけが生き甲斐だったの。私の中に別の願いが生まれたのは、初めてなのよ」

「どんな願いよ?」

「自分の力を試したくなった。果たして私はどれほど強いのか。だから、フユを倒したあなたと戦いたくなった」

 切子が歯を見せて笑う。

「自分の力を試すなんて、そんなのパパには誉められないよ?」

「そうね。だけどこの望みは、パパにも止められないわ」

 その会話は、気心の知れた親友同士が交わしているようだった。

「本気を出すのは久し振りだわ」

 そう呟いたナツの体が小刻みに震え出した。彼女の表皮のすぐ下で何か這う虫のようなものが蠢いているように、コータには見えた。

 輪郭がざわざわと波打ち、肩がむくむくと膨れ上がり始めた。そして瞬く間に、腕も足も背中も腰も、風船のように膨張した。

 信じ難い光景に、コータは目を見張る。ナツの体は三倍ほど大きくなっていた。さっきまでしなやかな曲線を描いていた美しいラインは見る影もなく、ごつごつとした瘤のような筋肉の鎧で覆われ、重量級の闘士と言っていい屈強な姿に変わっていた。

 その凄まじい変わり様に、自分が見ているものが現実だと、コータは俄かには理解できなかった。あまりに吃驚したので、裂けないコスチュームの驚異的なストレッチ性なんて、どうでもいいことに感心してしまった。

 ナツは、その姿にふさわしい獣のような咆哮を上げ、目前でじっとその変身を見守っていた切子に向かい、凄まじい勢いで突進していった。

 ひらりと軽く身をかわして、切子は背後に回る。ナツはすぐに勢いを殺し、振り返った。どうやらそのウェイトに似合わず、機敏さも備えているようだ。

 二人は位置を変え、再び対面した。

 正面からナツの顔を見て、コータは息を飲んだ。さっきまでの、グラマラスな表情を浮かべた薔薇のように美しい顔立ちは、見る影も無かった。額が肉瘤のごとく前に迫り出し、鼻から口元、頬骨、顎の辺りも、ぼこぼこと出っ張っていた。まるで石垣のような顔だとコータは思った。体だけではなく、顔の筋肉も隆起した結果なのだろう。

 だが、落ち窪んだ目から、鋭い光が放たれている。真横に広がった唇の隙間から鋭い牙がのぞき、美しく揃っていた長い髪がばらばらに乱れて、悪鬼のような恐ろしい姿になっていた。

「本性を現したわね」

「そんな姿で、よくパパの前に出られるわね」

 ハルとアキが囃し立てる。

 ナツがグルグルと唸った。もしかしたらこの姿では、言語を発音することができないのかもしれない。

 腰に巻き付けたベルトに何本も差している手斧の内、二本を引き抜いて、ナツは両手に持った。応えるように、切子も腰の刀を鞘から抜き、中段に構える。

 二人は互いの間合いを測っているのか、その場で静止して睨み合った。ハルとアキの野次も、まったく耳に入っていない様子だ。

 今彼女達は二人だけの世界に没頭し、多分、コータ達のことも犬丸達のことも、どうでもいいことになっている。この戦いの行方が自分の命運を決めるというのに、命を懸けて向き合える相手がいる二人を、コータは羨ましく感じた。

 今度は先に切子が動いた。摺り足でじりじりと前進する。同じくナツも間合いを詰める。

 互いの攻撃が届く距離に二人が近付いた瞬間、決戦の火蓋が切って落とされた。

 ナツは空気を切り裂くような音を立て、手斧を振り回した。切子はそれを何度も刀で受け、素早い足運びで切り返す。金属がぶつかり合う音が壁や天井に反響する。

 猪の突進のごとき勢いで、直線的な攻め方をするナツと、ボールのように軽々と弾み動く切子は、正反対のファイターだった。パワーと思わぬ機敏さを兼ね備えているナツは、スピードが本領の切子にとって、そう易々と倒すことのできる相手ではなさそうだ。

 遂にナツの体当たりが切子を吹き飛ばした。

 背中からコンクリートの柱に激突した切子は、しかしすぐに体勢を立て直し、追い打ちをかけてきたナツの振り下ろした斧をひらりとかわした。

 斧が柱を砕き、コンクリートに突き刺さった。ナツはすぐにそれから手を離すと、新しい斧を腰から引き抜く。振り向きざまに振り下ろされた切子の刀を、柄で受け止める。

 一進一退の息を飲む攻防が続いた。相手のわずかな隙を突いて繰り出される刀と斧。二人は完全に互角に見えた。コータはこの戦いが、永遠に終わらないような気さえしてきた。

 しかしその終幕は、意外なほど早く、そして、思わぬ形で訪れた。

 均衡を崩したのは、ラブ・ファクトリーの連中だった。犬丸という男は、先んずるためなら、どんな手でも使う卑劣な男だった。この互角の戦いを、その場でただじっと見守るなんて有り得ないことだった。

 それは、戦いが始まった時と同じく、切子が犬丸達に背を向けている時に起きた。彼女は、骨のある相手との戦いに熱中し過ぎていたのだ。

「危ない!」

 唐突にナツが叫ぶ。

 その一言で異変に気付いたのだろう、一瞬、切子が静止する。

 それからの動きは、コータの目にスローモーション画像のように焼き付いた。

 ナツは手にしていた斧を放り、切子に飛びかかった。一つの塊になった二人が空間に弧を描いて床に倒れ込んでいく。

 コータが見ることができたのはそこまでだった。何故なら、彼も床に転ばされていたから。

 背中がコンクリートにぶつかる衝撃と痛みで思わず閉じた瞼を上げると、そこには見慣れた男の顔があった。

「大丈夫か」

 驚いて見上げていると、覆い被さったまま、リュウが聞いてきた。訳がわからないコータは悪態を吐く。

「何が大丈夫か、だ。何で突然、お前は俺の上に伸しかかってくるんだ? これで何度目だ?」

 リュウはにやりと笑う。

「向こうの小さい女が切子に向かって針剣を投げた。それがこっちにも飛んできたんでな」

「ああ?」

 それを聞いたコータは決まりが悪くなった。これで、この男に助けられるのは三度目になる。

「それは……ありがとう……」

 視線を逸らし、縮こまる喉を必死で開いてようやく呟く。

 しばしの間の後、吹き出すリュウの声が耳に入った。途端にかっと顔が熱くなる。

「人がわざわざ感謝を述べているのに、何で笑う?」

 睨み付けて突っかかる。リュウは楽しそうだった。

「いや、悪かったよ。まさかお前が礼を言うとは思わなかったんで」

 言いながらコータの上から退き、手を差し伸べてくる。

 一瞬の戸惑いの後、コータはその手を握った。リュウが腕に力を入れ、コータを引っ張り上げる。

「こっちだ」

 リュウに導かれるがまま、コータは柱の影へと隠れた。

 そこから少しだけ顔を出して切子達に視線を向ける。すでに二人は立ち上がり、肩を並べて犬丸達に向き合っていた。

「お前達は、ほんの少し待つこともできないのか!?」

 切子が吼える。

「ナツは、子供の頃から一緒にいた仲間なんだろう!? そいつが私と戦うことを望んだのに、何で終わるのを待ってやらなっ……」

 真摯な叫びが不意に途切れた。

 切子が振り返り、コータ達の方へ数歩歩く。その顔が、苦しげに歪んでいた。そしてコータは、彼女の瞳の中に、初めて焦燥の色が浮かぶのを見た。

「やばい、動き過ぎた」

 そう呟いた次の瞬間、切子は崩れ落ちた。床の上にだらしなく投げ出された力のない手足、虚ろに落ちた刀。弛緩した顔の中で、瞼だけがぴくぴくと痙攣している。

 コータには何が起こったのかわからなかった。つい数秒前まで、切子は圧倒的な力を見せつけていたはずだ。ダメージを受けている様子など、微塵も感じさせなかったのに――。

「何だ? どうした?」

 事態の急変に戸惑っていたのは、敵側も同じだったようだ。アキが間の抜けた声を上げた。

「そういえば聞いたことがある。こいつは、薬物の過剰摂取のせいで、ブラックアウト状態になることがあるって」

 ほくそ笑むハル。

 それを聞き、コータは衝撃を受けた。切子の異常なほどの強さが、そんな危うい均衡の上で成り立っているものだったとは。それでは、彼女が今まで生き延びることができたのは、ただ運が良かっただけとも言える。

 そして今まさに、その運が尽きようとしているのだ。切子は、彼女を八つ裂きにすることに執心している奴らの前で、為す術もなく、木偶のように無防備に、その四肢を放り出してしまっている。

「パパ、どんな風に殺してやるのがお好み? これまでパパに酷いことを言ってきたこんな女、この世で一番惨めな死に様がお似合いだわ」

 ハルは、これから自分が行おうとしている残虐行為への期待に恍惚としているのか、舌なめずりせんばかりの表情だ。アキは、足を一歩前に踏み出し、犬丸の指示を待つように身構えている。

「そうだな、こういう生意気な娘は、簡単に殺してしまうには大きすぎる罪を負っている。それなりにふさわしい罰を与えねばならないだろう。自分がどれほど罪深く、惨めな存在であるか、きっちりと理解させてから地獄に落としてやらなければいけない。娘達よ、この女に、できるだけ長く耐え難い苦しみを味わわせてやりなさい。簡単に殺してはいけないよ」

 犬丸が冷酷な宣言をする。ハルとアキは、解き放たれた猛獣のように、その瞳をこれから行われる凄惨なリンチへの期待に輝かせ、切子に近付いていった。


 切子の意識は、底の無い真っ黒い沼にはまり込んでいくように、ずぶずぶと沈んでいった。頭上で揺れる微かな光は遠く霞み、二度と戻ることはできないように思われた。物心ついた時から慣れ親しんだ、重く汚れた闇。いともたやすく自分以外の命を屠ることのできる身には、明るいところよりもずっとふさわしい場所だった。

 これまで振り返ることもなかった過去の出来事が、沈んでいく切子の横を通り過ぎていく。そして、彼女の代わりに浮上する。舌打ちをした。終わってしまった時間のことで感傷に浸るなど、真っ平なのだ。それなのに、無数の泡のごとく、後から後から思い出したくもない過去が形を成し、姿を見せつけていく。

――はじめまして。

 初めて会った時、自分そっくりの顔をしたその女は、厚いガラスの向こう側からそう言って、照れたように笑った。それから、当惑している切子に向かい、名前を告げた。

――妹の崇子たかこです。

――妹?

 切子は目を細めて彼女を見た。面白いことを言う女だと思った。今の日本で、わざわざ血縁関係を表す言葉を口にする者などほとんどいない。それに、もしそれが本当なら、彼女は実体も知らないまま憎み続けてきた、切子の敵ということになる。

 何不自由なく守られて育ったように見える崇子に、切子は間もなく死刑に処されるテロリストとして、これ以上なく凄んだ顔を見せた。だが、刑務所の薄暗い面会室で向かい合う犯罪者に対して、さほど恐れる様子もなく、崇子は笑顔を崩すことはなかった。

――あなたは私が憎いのでしょうね。出自を同じにする私達が、ほとんど根拠のない気紛れな選択によって、まったく違う人生を歩まされることになるのだもの。

 崇子は寂しげに呟く。

――でも、もうすぐあなたは自由になれます。多分それが、私のように何の力も持たない者が選ぶことができる、最善の方法なの。

 切子にはその言葉の意味はわからなかった。崇子が無力だというのなら、この世界で、いったい誰のところに力が存在しているのか。お前達は、無数の犠牲を踏みにじって生き続けているのに。大声で、そう叫びたい衝動にかられていた。けれど実際は、何も言葉にしなかった。一言でも口をきけば、無様にすべての感情を吐露してしまいそうだったから。そして、泣いてしまいそうだったから。崇子の前で、それだけは避けたかったのだ。

 数日後、崇子が自分自身で命を絶ったことを聞かされた。そして、それからしばらくして、近々死刑に処されるはずだった身が拘束を解かれ、境界へと放逐された。

 その時に覚えた遣り切れなさと共に、場面が切り替わった。初めてナツと会った時だ。

 悪名高いテロリストの切子が舞い込んできたことは、境界に瞬く間に広がっていった。到着当時、切子はほとんど毎日、見知らぬ無法者達から勝負を挑まれた。切子を倒せば、己の名を上げるのに役立つということらしい。

 その頃の切子は、際限なく生き血を啜りたいと飢える魔剣のようで、我ながら呆れてしまうほど始末に負えなかった。だから、情のかけらもなく、挑戦者達を片っ端から血祭りに上げていった。

 犬丸達が現れたのはそんな時だ。奴らは、東京でもそれなりに知られているファミリーだった。そのアブノーマルさが、多くの者達に吐き気と共に戦かれていた。

 ヒトと他の生物の遺伝子を掛け合わせたキメラを造ることは、その特殊性ゆえに、政府から許可を得なければできない研究だ。だが犬丸は、その規制を無視し、ほとんど化け物とも見えるような異形の者達を作り続けていた。結果として、ファミリーごと境界に追放されることとなったのだ。

 そのことに、切子は政府側の本意を感じ、寒々しい気持ちになる。犬丸ほど大胆な遺伝子の掛け合わせを行う研究者はそういない。真っ当な者なら、タブーに踏み込むことには本能的な恐れを抱くからだ。政府はおそらく、犬丸を追放することで自由にし、そのおぞましい研究成果を掬い取ろうとしているのだ。

 犬丸ファミリーが切子の前に立ちふさがった時、その先頭に立っていたのは、フユという女だった。彼女は犬丸の長女だと名乗り、その背後に異形のキメラ達を従えていた。

 向こうが透けて見えそうなほどに青白い頬をしたフユは、切子と戦うことを犬丸に命じられ、暗い目をして挑んできた。

 フユは、スピードで相手を圧倒する、切子と同じ戦闘スタイルだった。存在全部をぶつけてくるように戦う彼女に、切子は初めて脅威というものを覚えたのだ。

 だが思いがけず、勝負は呆気なく終わる。フユは、間もなく消える最後の炎を燃やし、切子に挑んできたのだ。元々、無理な遺伝子の掛け合わせを行うキメラは短命だ。クローン自体、それほど寿命は長くないが、それ以上に短く、ほとんど三十まで生きられない。互角の相手との戦いに耐え切れるほど、フユの命は残っていなかったのだ。

 力尽き倒れたフユを嘲弄する犬丸達ファミリーが、切子は心底不快だった。また同時に、自分は何をしているのかと思った。境界には、自分の敵はいないはずなのだ。

 その時一人だけ、フユに憐憫の眼差しを向けている女がいた。それがナツだった。

 血への渇望が消えた切子は、崇子の言葉を思い出した。彼女は境界の施設に、自分達を生んだホストマザーが収容されていると言っていた。そうして、受け継いだ特権を利用し、切子は月子を見つけ出した。

 自分達を生んだ女――それは母と呼ぶべき存在なのか。切子はその言葉を、文字通りの意味でしか知らない。自分の子宮に生殖細胞を着床させ、その中で新生児にまで育て上げる者。人工子宮は研究途中にあり、未だヒトはヒトの中から生まれる。

 だから切子は、月子に会ってみたくなった。そして、母という言葉の意味を、確かめてみたくなったのだ。


 コータは、どうにかこの局面を脱する方法を必死で考えていた。だが、名案は欠片も浮かばず、ひたひたと近寄って来る絶望を前にして、体を強張らせることしかできなかった。

 切子を見詰める彼の視線の上に、素早く一つの影が重なった。

 ナツが、切子を庇うように立ち塞がり、叫んだ。その姿はすでに岩女ではなく、グラマラス美女に戻っている。

「よせ!」

 二人のキメラがぎょっとした顔で足を止める。

「パパの命令に逆らう気か?」

 アキが唸る。

「こんなやり方、パパの名を傷つけるだけだわ!」

「何言ってんの? パパが望んだことを行うのが、私達の使命よ。あんたごときがパパの名誉の心配だなんて、どこまで思い上がった女なの!?」

 憎々しげにハルが吐き捨てる。

「でも!」

 ナツが声を張る。

「パパは切子と私達の戦いの映像を売るつもりなんでしょう? 最後がこんな結末で、ラブ・ファクトリーの名が上がるのかしら? アクシデントに便乗するんじゃなく、この女を力でねじ伏せてこそ、パパの名にふさわしいのじゃない?」

 その言い分は、コータが聞いても道理にかなっているように思えた。この集団が、名を上げるために切子を倒そうとしているのなら、意識を失くした彼女を切り裂いても、大きな効果を望むことはできないだろう。

 心なしか、犬丸の顔色も変わったように見えた。

 ナツがなおも畳みかける。

「パパにふさわしいのは、世界中に讃えられ、崇め奉られることよ。私達のような、卑しい生まれの娘に敬愛されるだけでは足りない。この映像を世に出すのなら、中途半端な結末では、世間の賞賛を得ることができないわ。ことによっては、卑怯者の謗りを受けることになるかもしれない。ハル、アキ!」

 突然ナツは恫喝した。

「あんた達は、パパにそんな屈辱を味わわせたいの!?」

 名指しされた女達が一瞬怯む。

「私は、私に意見するような、生意気な娘は嫌いなのだよ……」

「パパ!」

 その言葉に、ナツは喘ぎのような声を発する。犬丸のような卑劣な男には、正論は耳に届かないのか。

 コータは、これでとうとう全てが終わりなのだと悟った。唯一の希望の光だった切子が殺され、そして、リュウも自分もキメラ達に切り裂かれ、悲惨な最期を遂げることになるのだ。

 奈落に落ちるような絶望に囚われた時、しかしコータの体の奥から、これまで一度も感じたことのない、強かな力が涌き出してきた。彼は、正気を失くしてしまいそうな恐怖と戦いながら、決意した。このままおめおめと、ただ黙って殺されたりするものかと。例え敵わなくても、抵抗してやるのだ。

 コータは手にしていた銃のグリップを握り直し、胸まで持ち上げた。

「それでも、今回ばかりは、お前の言い分にも一理あると言わざるを得まい」

 だが思いがけず、犬丸がそう呟いた。

 事態の変化を察し、コータは銃を構えたまま成り行きを見守る。

「パパ!?」

 ハルが声を上げる。アキはコータと同じく、成り行きををじっと見つめている。

「言っておくが、お前の考えを受け入れるというわけではない。ただ私が、当初の目的を思い出したというだけのことだ。この仕事は、新しいキメラ達の宣伝のため、ひいてはファミリーの名を上げるために受けたものであり、その目的は果たされなければならない。世間に名の売れているその女は、私達の未来のために、効果的に利用するべきだ」

 犬丸は、さっきナツが述べたこととほとんど同じ御託を繰り返している。ナツの話を聞いて、今の状態の切子を殺しても、自分達には何の得も無い、むしろ不利益さえ被るかもしれないと気付いたようだった。なのに、娘に丸め込まれたではプライドが許さないらしく、ごちゃごちゃ言い募っているのに、コータはうんざりした。

「わかっています。パパは私なんかより、ずっと頭がいいもの」

 ナツは従順に同意する。そして素早く体を屈め、卒倒している切子の腰のバックを開けた。中から何か引っ張り出している。見るとそれは、透明な袋に入った注射器だった。

「では早く目を覚まさせないと。パパの名声に、この女を利用するために」

 ナツは犬丸に口出しする隙を与えず、迅速に袋を裂くと、針部分のカバーを外し、注射器を切子の腕に刺した。それを見る犬丸は、今一つ合点がいかないような、釈然としない顔をしていた。

 十秒もしない内に、切子が目を開ける。どうやら正気に戻ったようで、コータは胸を撫で下ろした。

「じゃ、さっきの続きを始めましょう。私とあなたの戦い」

 ナツが、慌てて立ち上がった切子に言った。

「何で生きてる!?」

 自分が無傷でいるのに驚く切子。

「パパに感謝して。パパが寛大な人じゃなかったら、あなたはお仕舞いだったわ」

 冷やかすように笑うナツ。

「待てっ」

 鼓膜に響く金切り声が割って入る。ハルの声だ。

「今度はあたしの番よ!」

「先に私がやるって、さっき言ったはずよ」

 ナツが素気無く言い渡す。

「あんた、私達を出し抜く気でしょ? パパにいいところ見せたくて」

「そうだ、この映像がパパの名を上げるのに役に立つなら、私もこんなところで引っ込んでいるのは嫌だね」

 黙っていたアキも口を挟む。

「パパ、この子に言ってやって。フユが勝てなかったのに、あんた達じゃ、切子に勝てるわけがないって」

 呆れたような様子で、ナツが犬丸に訴える。

「なんですって!?」

「ふざけるな!」

 ハルとアキが喚く。

「パパ、この子達じゃ、切子にやられるのが目に見えてる。はっきり言ってやって。これ以上、無駄な血が流れないように……」

「無駄な血……私は、私の為に娘達が流す血を、無駄だとは思わない。お前がそんな風に思っていたとは、些か残念だ」

 犬丸は不満げに言った。

「待って、パパ! 私達はパパの愛する娘よね? パパがいつも言っているように。だったらお願い、これ以上私達の血を流すようなことはやめて」

 ナツの必死な望みが聞こえても、犬丸は下卑た笑みを浮かべるだけだった。

「ナツ、もちろん私はおまえ達を愛しているよ。だが、おまえはどうなんだい? 私のために命を投げ出してくれた、フユや猫娘達のように、私を愛してくれているのかい? いや、お前はきっと、私より自分のことが大切なんだろう? 私に意見を言うくらいだからね。お前はわかってない。お前達は私の分身。私が創り出した存在。だから、私のために生きることが使命なのだよ」

 コータは気持ちが悪くなった。この男は、娘達を愛していると言いながら、その実、自分のことしか愛していないのだ。この男にとって娘達は、好き勝手に造ったり壊したりできる玩具でしかないのに、愛という言葉で彼女達を縛りつけている。

 肩を落としたナツの背中に、絶望の影が浮かんでいた。

「あんた達全員まとめて相手にしてやるよ。だから私の前で、そのげんなりする会話はよせ」

 切子が我慢の限界といった様子で割り込んできた。

「随分と自信過剰だ」

 犬丸が蛇のような目を細める。ハルとアキが一歩前に出た。

「ナツ、そこをどけ。それとも、さっきの続きを始めようか? 三人とも相手にしてやるよ」

 切子は強気なことを言っているが、互角に近かったナツと、猫娘達よりもずっと使えそうなハルとアキ、三人同時にかかってこられたら、苦戦するのは目に見えている。それに、さっきまで気を失っていたのだ。

 もしかしたらここは、こちらも総力戦でやらなければいけないのではないかと、コータは思案した。リュウは戦力になるだろうが、自分は心許ない。それでも、気持ちを奮い起こす為、銃のグリップを強く握った。

 その時だった。ハルが数本の針剣を投じた。彼女は隙を突くのがお好きらしい。

 前方にいたナツが右、切子は左に飛び退った。

「何をする!」

 憤怒の声を上げるナツ。

「さっさとそこを退かないからよ」悪びれないハル。「戦わないなら隠れていれば、邪魔」

 アキも三節棍を振り回し、摺り足で前進してくる。

 切子は刀を構え直した。ナツは困惑し、立ち尽くしている。

 犬丸は、自分のために血を流すことを厭わない娘達を尻目に、早速柱の影に隠れていた。救いようのない奴だと、コータは胸がむかついた。そして、少なくとも自分はもう少しましな男だということを証明するために、いつでも切子の加勢をしようと腹をくくる。

 だが、そんなコータの覚悟は誰に知られることもなく、勝負は一瞬でついた。

 ハルとアキが、勢い込んで攻めかかる。それをいなし、切子は高く跳ぶ。放たれた針剣が虚しく床に落ちる。突き出されたアキの三節棍を踏み台にし、宙で一回転すると、刀が閃いた。

 次の瞬間、アキの首が飛んだ。真っ赤な血が、首を失くしてしまった胴体から噴き出した。

 床に着地し、振り返る。突然の動きに付いて来られず、体勢を崩したハルの背を、後ろから突き刺した。引き抜いたと同時に、傷口から血が流れる。

 アキの胴とハルの穴の開いた体が、ほぼ同時に床に倒れた。少し離れたところで、目を見開いたアキの頭が天井を向いて転がっている。

 それは、切子とその二人との圧倒的な力の差を見せつけた、呆気ない終わり方だった。切り捨てられた二人にも予想外だったはずだ。血で染まった彼女達の顔は、自分の命の火がもう消えてしまったことを、理解できていないように見えた。

 何が起きたのかわかっていないのは、柱の影で一部始終を見ていた男も同じようで、犬丸はカメラを手にしたまま棒立ちしていた。

 切子が、刀をゆっくりと振り上げながら、犬丸に近付いて行く。たった一人で敵前に晒されることになった男は、恐怖のあまりか、その場で石のように固まっていた。

 冷酷な刃が振り下ろされる、コータがそう思った時、

「待って!」

 ナツが叫んだ。

 切子の刀が止まる。

 犬丸に走り寄ったナツが、庇うように前に立ち塞がった。

「止めて、パパを斬らないで」必死に懇願する。

「どけ。そいつを斬る」

 切子が宣告する。

 腰を抜かしたのか、犬丸がその場でへたり込んだ。

 ナツは両手を広げ、首を横に振った。

「お願い、パパのことは見逃して。代わりに私を斬っていいから」

 ナツは動かない。何があっても、どんなに足蹴にされても、犬丸を思う彼女の気持ちは変わらないのだろうか。

 しばしの睨み合いの後、切子が溜息を吐いたのが聞こえた。それは、人の愚かしさを嘆く声のようだった。

 遣り切れなくなって、コータは叫んだ。

「何でだよ!? ナツ、お前が庇っている男は、お前のことなんか全然大事になんか思ってやしないぞ。本当に大切なら、自分のために命を投げ出せなんて言わない! お前の姉妹達は、その男の身勝手のせいで死んだんだ!」

「それでも、私にはパパを憎めない」

 ナツの顔は、苦しげに歪んでいる。

 コータには彼女の気持ちがわからなかった。何故、自分を塵のように扱う人間を、命を懸けて庇うようなことができるのだろうか。

 不意に肩をつかまれ、振り返る。

「人は、持って生まれたしがらみからは、一生解放されないものだ」

 独り言のように呟くリュウ。その瞳は、何も棲むことができない洞のようだった。

「好きにしなよ。これで貸し借りなしだ」

 声が聞こえ、コータは視線を戻す。切子は掲げていた刀を下げた。

「逃げて!」ナツが叫ぶ。

 背後の男は、何を言われたのかわからないようで、その場に崩折れたままだ。

「早く!!」

 急かされて、ようやく言葉の意味が耳に入ってきたらしい。犬丸はふらふらと立ち上がる。そして、酒に酔ってでもいるようなよたよたした足取りで、出口に向かって動き出した。

「待て!」

 突然切子が引き留めた。

 逃げようとしていた男が、激しく身を震わせ、凍り付く。ナツが身構える。

「カメラは置いていけ」

 犬丸は、持っていたカメラを慌てて床に放り出した。そして、もつれる足を必死で回転させ、少しずつ遠退いていった。おそらく、本人はこれ以上ないほどの全力疾走をしているのだろうが、傍から見ると、幼児がよちよちと歩いているような心許なさだった。娘達の上に君臨していた、さっきまでの不遜な気配は、その背中には微塵も感じられなかった。それは、卑屈で矮小な男の惨めな後ろ姿だった。

 犬丸の姿が見えなくなって、切子が口を開く。

「満足?」

 質された相手は横に首を振り、言った。

「約束通り、私を斬ってよ、切子」

 ナツは、背中に負った重い荷物をやっと下ろすことができたような、清々した顔をしていた。

 切子は刀を振り上げる。その切っ先をナツの額に定めた。細い糸を張りめぐらしたような空気が辺りに漂い、コータは息を飲んだ。

「アホか」

 溜息と共にそう言って、切子は刀を腰の鞘に納めた。

「そんな約束はした覚えがない。それに、私はそこまで優しくないんだ」


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