挿話 七
【六十日目・夜】
事態が、抜き差しならないところまで来ていることを悟ったのは、その日の夜のことだった。
朝の食堂での騒ぎはただの幻でしかなかったと思わせるほど、その日もいつものように静かに過ぎていった。時折些か白々しい空気が漂ったりもしたが、彼らは努めて平生と同じように振る舞っていた。
彼も、朝のことなど忘れてしまったかのように見え、普段通りによく喋った。セカンドが無口なことは、いつもと同じだった。
ゲームセンターブースの六人はいつも、一つところに固まって眠る。睡眠は誰とも共有できないものなのに、何故寄り集まって眠るのだろうと、時々疑問に感じられたほどだ。
その夜も変わりなく、皆大型筐体の並ぶブース奥のフロアの一角に溜まっていた。彼が、あそこまで腹を立てた男の側で眠っていることは奇妙に感じられたが、一つの場所に閉じ込められていると、中にいる者にしかわからない連帯感のようなものが生まれるのかもしれない。
対戦型カーレースゲーム機前の通路の辺りが、今日の寝床だった。十席並んでいるシートの一つに身を寄せ、彼は赤い床材の上で体を丸くして寝転がっていた。その通路は、ブースの中央を縦に貫く一番広い通路で、最奥から出口まで真っ直ぐ結んでいる。
二席離れた床の上には、フォースが大の字に手足を投げ出して眠っていた。通路を挟んだ向かいのサーフィンゲームの前では、セブンスとエイツが、身を寄せ合うようにして寝息を立てている。リュウはカーレースゲーム機の中辺りのシートに身を沈め、セカンドもそこから数台置いたシートで眠っていた。
――いや、そのように見えた。いつものように何の変化も無く、平穏に過ぎて行くべき一夜だった。
だが、深更、誘導灯だけが点されている闇の中、ゆらりと動く影があった。
それは、異常な事態の発生を明示するものだった。就寝の時間を過ぎて、ブースの中で動くものなど、有り得ないはずなのだ。だが、確かに今、暗がりの中で、人影が動いている。
私は急いで通路を移動するそれに注目した。それは、ゲーム機の座席で眠っていると思っていたセカンドだった。
その男は人形のように空虚な顔をして、しかしその足取りは迷うこと無く一つの場所に向かっていた。セカンドは、硬い床の上で、すっかり熟睡している彼の元へ歩み寄っていた。
白状すると、私はこの時パニックに陥っていた。私のそう長くもない人生において、不慮の事態に遭遇することなど、一度も無かったからだ。私はどう対処すればいいのかわからず、次に起こることをただ待っているしかなかった。
両足を折り曲げ胎児のように丸くなって眠っている彼の上に、セカンドが馬乗りになった。そして、両手でその首を掴み、人形の顔をしたまま、絞めつけた。
私にとって、それはあまりに衝撃的な場面だった。こんなことはあってはならない。あってはならないことなのだ。私は混乱し、ひたすら彼らを注視した。
唐突に安眠を奪われた彼が苦しげに眉を寄せ、自分を押さえつける何者かの下で身を捩り、むなしい抵抗を試みていた。しかし、薬のせいもあって、完全に眠りに落ちている彼は、未曾有の危機の前でも目覚めることができず、息をしようと苦しみもがいていた。
私がどうにか冷静さを取り戻し、この事態に対処する方法を考えようとした時――
もう一つの影が、闇を裂く獣のように素早く動いた。
それは、凍り付いた顔で首を絞め続けるセカンドの背後に近付き、後ろから手を回した。彼を押さえている両手首をつかみ、引き剥がそうとする。だが、一見非力そうに見える腕なのに、簡単に外すことができなかった。
「やめろ!」
声を上げた影はファーストだった。私は成り行きを見守る。
セカンドのまったく躊躇していない態度には、彼を縊り殺そうとするはっきりとした意志が見て取れた。だが、それを阻止しようとしているファーストに対して、特に抗おうとはしていない。なのに、首を圧迫する力を緩めようとはしなかった。
だが、力勝負でどちらが勝つかは火を見るより明らかだった。時間が経つにつれ、首の手は次第に剥がされていった。
とうとうファーストは、セカンドの体を床に叩きつけた。
彼は、ようやく解放された気管に急激に酸素が流れ込んできたのか、激しく咳込んだ。それでも目を覚ましたりはしなかった。
それは、すぐ近くで眠っているフォース、セブンス、エイツも同様で、大きな物音がしているにもかかわらず、皆ぴくりともしない。
「何をしている!」
ファーストが血走った目で倒れた男を見下ろす。セカンドは、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「お前今日、薬を隠したから、おかしいと思っていたんだ」
「気づいてたんだ?」
ファーストが頷く。
「ここの食事は最悪だよ。薬臭くて」
その声には妙な明るさがあった。
どうやらセカンドは、配布された薬を飲まなかったようだ。服に隠して、トイレにでも流したのだろうか。ここの住人で、そのようなことを企てる者がいたとは驚きだったが、ここが吹き溜まりのような場所であるからこそ、そういった者が紛れ込むこともあるのかもしれない。
「何でこんなこと……」
ひどく辛そうに、ファーストが質した。
「何でだって?」
セカンドは皮肉めいた形に唇を歪める。
「お前は何とも思わないのか? こんな、家畜みたいな扱い……」
「俺達はそういう存在だ」
ファーストの答えに、セカンドは美しい双眸に深い絶望の色を浮かべた。
「お前は、何を期待していたんだ? 俺達には嘆くことさえ許されていないのに。そうだろう?」
突き放すような言葉の響きとは裏腹に、ファーストの瞳の奥には憐情が宿っている。
「夢を見るな。そうすれば楽になる」
「楽に? 無理だよ」
セカンドは苦く笑う。
「僕には昔、大切にされた思い出がある。だから現状を受け入れられないんだ。どうしても、恨んでしまう」
「だからといって、こいつに八つ当たりしても仕方ないだろう。次のイベントが俺達の番なのは、こいつのせいじゃない」
ファーストが指差した先では、彼が、ついさっき自分の身の上に起こった危機に頓着することなく、安らかな寝息を立てていた。
「そうだろうか?」
セカンドが挑発的に言った。
「僕は、こいつが何者だか知っているんだ。僕がまだ幸せだった頃、会ったことがある。僕のことなんか、すっかり忘れているようだけどね」
「お前……!?」
途端に、ファーストの顔が青褪める。
「最初はなんとかやり過ごそうと思ったんだ、素知らぬ顔で。僕だって自分の運命はわかってるつもりだった。納得していると……。でも、無理だった……憎しみが、日に日に募っていって……どうしても許せなくなったんだ」
「お前それ、誰かに言ったか?」
威圧的な声。
「いや……。こんなこと、あいつらには言えない。苦しむのは、自分一人で十分だ」
「そうか、よかった」
ファーストが安堵感を滲ませる。
「だが」
その顔が冷徹に変わった。
「俺は、お前をこのままにしておくわけにはいかなくなった」
ナイフのような言葉が向けられ、セカンドは目を見張る。だがすぐにまた、全てを悟ったような苦い笑みを口元に浮かべた。
「そうか、そういうことか。だから、彼より少し前にやってきた君がリーダーになったわけだ」
「ああ、そうだ」
「僕は、君のことは気に入っていたよ。君達と過ごした時間は、割と楽しかった。そうだな、その男が来る前だったら僕は、自分の運命を受け入れることができたのかもしれない」
セカンドは泥のように眠る彼を指差した。
「俺の願いはたった一つだった。終わりが来るまで、お前達と、何事もない時間を過ごすこと――このコクーンの中で。俺には、ここでさえ楽園のように感じる。例え、短い時間しか許されてなくても……」
ファーストが言う。
「君は……」
何もかもを受け入れたような哀しげな瞳で、セカンドはファーストを見た。
「すまなかった。君の願いを叶えてあげられなくて」
セカンドは瞼を伏せる。長い睫はうっすらと濡れていた。
そして――
ファーストはゆっくりと、共に過ごした仲間の一人であるセカンドに、近付いて行った。