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すべての猫は愉快犯だと熊は言った

作者: 短篇工房

        一


 エレベーターは私を十四階へと運んだ。

 ちーんという電子レンジのような音がしてドアが開くと、そこは総務課の部屋で、待ち構えていた上司が私を見るなり「社長がお呼びだ」とぶっきらぼうに告げた。

「社長が私に? いったい何のご用です?」と私は聞いた。

 上司は、知ったことかという感じに肩をすくめると、背中で手を振って部屋を出て行った。

 総務課の奥は秘書課になっていて、その先にいかめしいドアがある。ドアの向こうは社長室なのだが、入社して十年、そこに足を踏み入れたことはただの一度もなかった。

 私は重い足どりで秘書課を横切り、突き当たりの重そうなドアと向きあった。からだ中から、いやな汗がじわっと吹き出した。

 ドアの手前には秘書のみどりちゃんが、映画館の切符をもぎる係員みたいに机を構えている。彼女とは同期入社で、たまに一緒に飲みに行ったりもする仲だった。

 みどりちゃんは気の毒そうに私の顔をちらっと見てから、ひどく事務的な声で「社長がお待ちです、どうぞ」と言った。

 私はドアをノックした。

「入りたまえ」

 なまりのような声がドアを貫通して聞こえた。「失礼します」と言って私はドアを開けた。

 社長室はちょっとしたテニスコートぐらいの広さがあって、中央に大きな机が鎮座していた。

 社長は机に向かって新聞を読んでいた。右目に虫眼鏡のようなモノクル(単眼鏡)をかけ、左手には年季の入ったパイプが握られている。

 新聞は、保守派で知られる阿蘇一郎首相が、憲法改正を国会に提起するよう与党に指示したことを大々的に報じていた。社長はその記事を、成長した孫の写真でも見るように眺めていた。

 私はしばらくドアの前に立っていた。その時間はたぶん十五秒足らずだったのだろうが、私には十五分ぐらいに感じられた。

「何をしとるんだ。座らんのか」

 社長が顔を上げ、モノクルごしに私をにらんだ。慌てて周りを見渡したが、そこには椅子は一つもなかった。

「おう、そうか。椅子がないんだったな。すまん、すまん」社長は立ち上がり、手招きをして私を窓際に誘った。私の肩になれなれしく手を回し「君を呼んだのは、ほかでもない」と言った。

「ここ最近、わが社に対する誹謗中傷がなされているのだよ」

「誹謗……中傷ですか」

「さよう。それも極めて悪質な誹謗中傷なのだ。組織的な攻撃と考えていいだろう。無論、こういうご時世だから、インターネットには他人の悪口や根拠のないデマがあふれておる。中には本当のこともあるにはあるがね」

 社長はかすかに笑ったように見えた。

「したがってわが社としても、多くの場合その種の風評のたぐいは黙殺してきたところだ。しかしだ。今回の件に関しては、断じて見過ごすわけにはいかんのだ。何しろ国家の安全保障が脅かされているのだからね」

「国家の……安全保障?」

 社長はウインストン・チャーチルのような鋭い眼光で私を一瞥いちべつし、外の景色へ目をやった。窓の向こうには皇居の森がよく見渡せた。社長はパイプをくわえ、話を続けた。

「わが社が長年にわたりネット社会の言論を善導し、わが国の美しき秩序の維持発展に貢献してきたことは、君も知っての通りだ。無論、表向きは政府の委嘱を受けた世論調査機関としてだが……」

 そこまで言うと社長は途端に顔を赤らめ、語気を強めた。

「しかるに数日前から、わが社の活動の実態を暴露し、喧伝せんとする勢力が現れたのだ」

「それは……誹謗中傷なんでしょうか」

 チャーチルがじろりとこちらをにらんだ。私は自分の軽率さを後悔した。

「それが根拠のないデマであるならば、われわれも相手にせん。問題なのは彼らの流すウワサに根拠のある情報が含まれておることなのだよ。敵の目的が何であろうと、わが社としてはもはやこれ以上、彼らの横暴を看過するわけにはいかんのだ」

「よく分かります」と私は同意してみせた。

「そこで、君に調査をしてもらいたいのだ」と社長は言った。「われわれの正体を暴こうとしている連中がいったい何者であるのか突き止めてくれたまえ。そして断固阻止してもらいたいのだ。この、卑劣きわまる、悪質かつ反国家的な破壊活動を!」

 そこまで言うと社長は激しく咳き込んだ。ドアが開いて屈強な黒服の男が二人、社長に駆け寄った。からだを支えようとする男たちを制止しながら、社長は懇願するような目で私を見て、「やってくれるね」と聞いた。

「分かりました。やってみます」と私は答えた。


        二


 社長室を出て、エレベーターで地下四階へ向かった。このビルに地下四階があることは初めて知った。社長の話では、私の新しい職場はそこにあるということだった。

 エレベーターは三十秒ほどで地下四階に着いた。ちーんというホテルのロビーのチャイムのような音がしてドアが開くと、目の前は廊下になっていた。

 案内表示に従って廊下を進む。突き当たりを右に曲がり、さらに右に折れた先に小さなドアがあって、「総務部調査室第三班」と書かれた古い看板がかけられていた。

 私はドアをノックした。

 反応はない。

 もう一度、今度は強めにノックしてみた。

 すると中から「どうぞ」という男性の声が聞こえた。

 ドアを開けると、そこは暗く、狭い部屋だった。パソコンが一台置かれており、その前に赤いTシャツを着た熊が座っている。熊がこちらを見た。

 慌てて私はドアを閉めた。

 何かが間違っている気がした。私は疲れているのだ。無理もない。朝から社長室に呼び出されて、思いもよらない新しい任務を命じられたら、どんなにタフなビジネスマンだって疲弊して当然だ。

 気を取り直して、もう一度ドアを開けた。

 そこにはやはり赤いTシャツを着た熊がいた。パソコン画面に照らされた青白い顔をこちらに向けて「どうしたんですか。早くお入りなさい」と熊は言った。

 私はドアを閉めて部屋に入った。

「あなたは……」と私が聞こうとするのをさえぎって、熊は「私はここの班長です。よろしく」と頭を下げた。「安心してください。あなたのことはちゃんと上司から聞いています。どうぞ中に入って、座ってください。さあ」

 そう促されて、私は熊の前に置かれた、背もたれのない丸い椅子に腰かけた。熊のTシャツには白い文字で「ナンバーワン・インターネット」とプリントされていた。

「班長は……」と私が口を開くと、熊はまた遮って「私のことはセオドア、またはテッドと呼んでもらって結構です」と断ってから、「どうぞ」と質問を促した。

「この部署は長いんですか」

「そうですねえ。この会社にネット部門が出来て以来ですから、もうそろそろ丸十年といったところでしょうか」と言いながら、熊は指折り数える仕草をした。指先に黒くて鋭いツメが光った。

「あなたもご存じの通り、この会社はネットの世界では世論操作の……」と言いかけて、熊は慌てて訂正した。「失礼、世論調査、ですな。つまり、その、世論調査の先駆者なのです」

 熊は明らかに狼狽していた。小さな両目が、盗聴器でも探すみたいにキョロキョロと泳いだ。

「あのう……」と、私は熊に声をかけた。「私はここでどんな仕事をすればいいのでしょうか」

「ああ、そうでした、そうでした」熊は少し落ち着きを取り戻した様子で、「2ちゃんねるはご存じですか。巨大掲示板の」と私に尋ねた。私はもちろん知っている、と答えた。

「そうですか。それなら話が早い。あそこに書き込んでいるユーザーの四分の三が猫だという事実も知っていますね」

「猫?」

「そうです。猫です」

「猫がパソコンを使って書き込んでるというんですか?」

 そんな馬鹿な、と笑いたくなったが、熊の目は真剣だった。彼はうなずいて話を続けた。

「2ちゃんねるには芸能スポーツから政治、事件、会社の不祥事に至るまで、ありとあらゆる情報が書き込まれています。あのすべてを人間が書いていると思ってはいけません。人間というのはそんなにひまじゃないんです。何しろ彼らは働いて収入を得なくては食べていけませんからね。川でシャケを捕まえることすらできないんだから」

 熊はちらりと私の目を見ると、ふおふおふおと得意げに笑った。きっと彼なりのジョークだったのだろう。あるいは単にシャケを捕獲する能力を自慢したかったのかもしれない。

「とにかく」と熊は言った。「朝から晩までパソコンの前に座っていられる人間というのは、ごくひと握りにすぎないのです。それに比べて猫というのは自由な生き物です。普段はおとなしく昼寝していますが、飼い主が眠りについたり、仕事に出ていったりすると彼らは活動を開始します。パソコンを起動し、ネットに接続して、ありとあらゆる情報を流して人間たちをかく乱するのです」

「彼らの目的は何ですか」

「目的などありません。しいて言えば、ひまつぶしですよ。すべての猫は愉快犯なのです」

「それで実際、どんな実害があるのです?」

「多くの場合、実害はありません。彼らはネット上のあらゆる場所に出没しては、善良なユーザーをからかったり、煽ったり、怒らせたりして感情をもてあそぶんです。法律の範囲内でね。そうやって人間社会に険悪な空気と相互不信をもたらすのが彼らの狙いなんです」

「実害がないなら、ほうっておけばいいじゃないですか」

「ええ、それはそうなんです。だけれど、放置するとわれわれの業務には実害があるのです……。当社が世論調査業務を請け負うようになったきっかけはご存じですよね?」

「二年前だったか、阿蘇首相が初めて保守党総裁選に出馬したときが最初だと聞きましたけど」

「だいたいはそんなところです。そのとき阿蘇代議士は落選しましたが、ネットの世界では大変な阿蘇ブームが起きました。覚えておいでですか」

「そう言えば、何となく」

「当時、ネットでの異常な阿蘇ブームが社会現象として新聞やテレビに取り上げられ、のちに阿蘇代議士が首相の椅子を手にする原動力になるのですが、あのブームをつくったのが当社だったのです」

 そこまで言うと熊は少し声を落として「いいえ、正確には、そんなブームなど存在しなかったのです」と付け足した。「あのブームは、私どもがつくりだした虚構でした。文字通り、猫の手を借りてね」

 それでようやく私にも事態がのみこめた。

「つまり、そのときの世論工作に関与した猫たちの一部が、今はこの会社に反旗をひるがえして、阿蘇ブームの実態を暴露しようとしている、というわけですか」

「確認はできていませんが、その可能性が高いと思われます。数日前から2ちゃんねるを中心に当社と政府の契約や、当社の世論調査会社としての実体を疑問視する書き込みが急速に増えているというデータがあるのです。これを見てください」

 熊が指さしたパソコン画面には書き込み件数の増加を示す、右肩上がりの棒グラフが表示されていた。

「それで、私はここで何をすればいいんでしょう」と、私は改めて質問した。

「猫のしっぽをつかむのです。それがわれわれの任務です。そのためにインターネットを監視するのです」 

「われわれ、ということはほかにもスタッフがいるんですか」と私は聞いた。

 熊は首を振って、「ユー、アンド・ミー」と英語で答えた。


        三


 それから数日間、私と熊のテッドは地下四階の調査室でインターネットの監視を続けた。私にも専用のパソコンがあてがわれ、それを使ってアトランダムに、ありとあらゆる情報系サイトを巡回した。

 政治や芸能スポーツを扱った掲示板では、もめごとが日常茶飯事だった。誰かの書き込みを、ほかの誰かが冷やかしたり、ちゃかしたりしては、紛争が勃発している。

 本当にこれらのすべてが猫たちの仕業なのだろうか。私はまだ、テッド班長の言った話を信じることができないでいた。


 監視を始めて一週間が経過したころ、気になる書き込みを見つけた。


 【ヤラセ?】阿蘇首相誕生の秘密【自作自演?】

 〔阿蘇財閥の御曹司が大金つかって世論操作していた件について〕

 〔しょーもなー〕

 〔阿蘇閣下をおとしめることしか知らない暇人サヨクは逝ってよし〕

 〔阿蘇ブームの仕掛人だけど何か質問ある?〕

 〔キターーーーーー!〕

 〔小作人乙〕

 〔阿蘇ブームなんて2ちゃんのデッチアゲだろ〕

 〔大量のニート雇って書き込みさせてたって噂だぜ〕

 〔ニート? ニャートだろw〕


「班長、ちょっとこれを見てください」

 私はテッドを呼んだ。熊は私に近寄り、パソコン画面をのぞき込んだ。

「ふうむ」と彼は言って考え込んだ。「ここまで露骨な書き込みは、めずらしいです。いよいよ猫たちが本格的に動き始めましたね」

「社長に知らせますか」

「いや、その前に手掛かりをつかみましょう。まずはこの板に書き込んで、相手の反応を探ってみます」彼はそう言うと、自分のパソコンに戻り、2ちゃんねるを開いた。なれた手つきでカチャカチャとボードを叩き、何やら書き込んでいるようだ。

 私は自分の画面に視線を戻した。テッドが入力したとみられる書き込みが表示された。


 〔阿蘇ブームやらせ説の証拠キボンヌ〕


 瞬時にいくつかの反応が寄せられた。大半が「自分で調べろ」だの「ググれカス!」だのといった罵声だったが、その中に一つだけ、外部サイトへのリンクを貼ったものがあった。

「罠かもしれませんね……」テッドがぼそりつぶやいた。「注意深く調べてみる必要があります」


 翌日の早朝、私が自宅で寝ているとベッド脇の電話が鳴った。

「おはようございます。きのうのリンク先URLを調べてみましたが、どうも地図のようです」電話の向こうで、テッドが興奮気味に言った。

「地図?」

「はい。東京の中野の住宅地図です。それから、別ルートで新たな手掛かりが分かりました。ちょっと電話では話しにくいことなので、至急こちらに出てきていただけませんか。調査室でお待ちしてます」

 そこまで言うと熊は一方的に電話を切ってしまった。

 私は磁石みたいに吸い付く背中をベッドから引きはがし、服を着て、家を出た。


 職場のビルに着くと、エレベーターに乗り、地下四階のボタンを押した。ごとんと揺れてゆっくり動き出す。

 試合開始を告げるゴングのように、ちーんという音が響いてドアが開くと、目の前にトレンチコートの男が立っていた。男はすれ違いざまに深く会釈し、エレベーターに乗り込んだ。

 この階でテッド以外の人(正確には彼は熊だが)に会うのは初めてだった。ひょっとすると調査室の人員を増強することになったのかもしれない。そんなことを考えながら、第三班の部屋へ向かった。

 ドアを開け、部屋に入る。いつもと同じように室内は暗かった。パソコンが一台起動している。班長の端末だ。しかしそこに彼の姿はなかった。

「班長」と呼んでみたが、反応はない。いやな予感がした。奥へ進むと、足先に何かがぶつかった。テッドだった。

「班長! テッドさん! どうしたんですか」

 私は、うつぶせになった熊のからだを抱き起こしながら、何度か揺すった。ううう、というかすかなうなり声をあげて、テッドは少しだけ目を開いた。

「ああ……来てくれたんですね……」

「しっかりしてください。何があったんですか」

「……不覚でした……われわれの調査活動が……敵に知られてしまったようです」

「すぐに救急車を呼んできます」と私は告げて、部屋を出ようとした。

「待ってください……私はもう長くないでしょう。あなたには調査を……調査を引き継いでやっていただきたい。これを……」

 熊はそう言いながら、私の手にプリントアウトした地図と写真を握らせた。

「この写真は?」と私は尋ねた。そこには小学六年生ぐらいの男の子が写っていた。

「……ショータ君という少年です……彼がカギを握っています。彼ならすべてを証言できるはずです……彼を探し出してください……お願いです……早く行かないと……彼も……」

 そこまで言ってテッドは息絶えた。

 私は職場のビルを離れ、電車に乗って中野へ向かった。


        四


 そこは早稲田通りから狭い路地に入って二十分ほど歩いた場所だった。テッドから受け取った地図は、中野区にある古いアパートを指し示していた。

 アパートは典型的なモルタル造りの三階建てで、つたがはい、ところどころヒビが入っていた。おそらく築四十年はたっているだろう。エアコン室外機が外壁に取り付けられているが、使われているようには見えない。

 その外観は、住む人をくした廃墟のようだった。

 私は住所表記を確認し、階段の脇の郵便受けを調べた。三〇一号室に「半沢」という名前が書かれてある以外、人が住んでいる形跡は見当たらなかった。とりあえず階段で三階へ上がり、アパートの裏側にある通路を通って、いちばん奥の三〇一号室を目指した。

 部屋には「半沢」という表札が出ていた。呼び鈴を押す。室内に誰かがいる気配がするものの、ドアは開かない。私はドアに向かって「半沢さん」と呼び掛けてみた。

 ドアのすき間から狸が面倒臭そうに顔を出し、「新聞なら間に合ってるよ」とおばさん声で言った。

「突然お邪魔してすみません、人を探しているんです」

「人探し?」

 興味を持ったのか、少しだけすき間が広がり、台所用エプロンをした狸の全身が見えた。ふさふさした太いしっぽが見え隠れしている。

「あんた、探偵さん?」

「ええ、まあ、そんなところです」

「ふーん」と言って、狸おばさんは頭のてっぺんからつま先まで私をじろじろと観察した。

 私は上着の内ポケットから、ショータ君の写真をひっぱり出して「こんな少年を見たことはありませんか」と尋ねた。

 狸おばさんは写真に顔を近づけて少年の顔を見つめたあと、首をひねった。「さあ、知らないねえ」

「ショータ君というんです。この辺に住んでいるんじゃないかと思って」

「聞いたことのない名前だね」と、狸おばさんは興味なさそうに答えた。


 彼女の言うことをに受けていいものかどうか、私は判断に迷った。本当に知らないようにも見えるし、とぼけているように見えなくもない。何しろ相手は、狸なのだ。


「半沢さんは、この部屋にはどのくらい……」

 私が質問しようとすると、狸はいきなりドアを閉めた。

「悪いけどさ、あたしゃ忙しいんだよ。ほかを当たっておくれ」

 ドアの向こうから声だけ聞こえた。微かにテレビの音声も漏れてくる。お笑い番組を観ているようだ。

 私はあきらめて、ドアの前を離れた。

 さっき来た経路をたどって階段を降り、表の通りに出たところで、背中に拳銃らしきものが突き付けられるのを感じた。私は両手を挙げた。

「おじさん、誰?」

 背後から聞こえる脅迫者の声は、私が予測したよりも低い位置から発せられていた。

「ショータ君か」と私は聞いた。

「ああ、そうだ。確かにオレの名前は半沢ショータだけど、何の用?」

「振り向いてもいいかい」

「ゆっくりとだぜ」と声は答え、私は指示通りにゆっくりと振り返った。

 少年は、写真に比べて三歳ほど成長していた。スワローズの野球帽をかぶり、手にはプラスチックの拳銃を握りしめている。

「言っとくけど、オレの母親は狸じゃないからね」とショータは言った。「あいつらは、勝手にオレんちに住み着いているだけなんだ」

「君に聞きたいことがあって来たんだ。インターネットのことで」と私は言った。

 ショータは顔を上げて、私の目を見ると「分かった。話は聞こう。だけど、ここじゃちょっと危険だな。オレの隠れに来るかい」と言った。


        五


 ショータの「隠れ家」は、練馬の自衛隊駐とん地のすぐそばにあった。廃校になった小学校の用務員室にノートパソコンを持ち込み、彼は手際よくインターネットに接続した。

「遠慮なく、その辺に座ってよ」とショータは言って、床に座った。「いいだろ、ここ。ときどき作戦会議に使うんだ」

「作戦会議?」ショータの近くに腰を下ろしながら、私は聞き返した。

「うんそう。と言ってもネットでの話だけどね。日本中、世界中に仲間がいるんだよ」

「地下組織か何か?」

「組織とかそういうんじゃないんだ。それぞれが自分たちの国でネットを使って権力を監視してる。ただ、こういう活動って時に危険を冒すこともあるから、お互いに助けあってるんだ……」話しすぎたと思ったのか、ショータはそこでいったん言葉を切り、警戒する目で私を見た。

「で、オレに用って何?」

「その、2ちゃんねるのことなんだけど……」

「知ってる。猫の話だろ。……そうか、おじさんは例の会社の人だね。猫を使って悪いことをしたでしょう?」

「うん、まあ、そうだね」と私は答えた。「その結果、今とても困っているんだ」

「メルトロン星人って知ってる?」とショータはパソコンをいじりながら質問した。

「メルトロン星人?」

「ウルトマセボン第八話に登場するイカとカエルの中間みたいな格好の宇宙人なんだけどさ、そいつがセボンに言うんだ。地球を侵略するのに暴力は必要ない、人間同士の信頼関係を壊すだけで人類は自滅するだろうって」

「ふーん」

「ふーんじゃなくてさ。これチョー有名なシーンなんだぜ。そんでさ、四畳半のアパートの部屋でメルトロン星人は正座してセボンを説得しようとするわけ」

 ショータは少しずつ興奮してきていた。きっとウルトマセボンが好きなんだろう。宇宙人の口調を真似るために、自分ののどを片手で叩きながら、彼は続けた。

「キミはなぜ地球人を救おうとするのかね? この星の人間たちは環境を壊し、人間同士で殺しあい、いずれ自滅する。私はそれを早めるためにちょっとした手助けをしてあげているにすぎない。セボンよ、私の邪魔をせずに黙って見ていなさい。キミのやっていることは無駄なことなのだ」

 なるほど、と私は言った。

「オレの見たところ、おじさんの会社も、2ちゃんねるの猫たちも、やってることにたいした違いはないね」とショータは言ったあと、「もっとも……」と付け足した。「あんたは、話の分かる人みたいだけど」

 その瞬間、用務員室の外で物音がした。

 ショータが敏感にそちらを見て、「隠れて」と私に言った。私はロッカーの影にからだを寄せた。

 廊下から、ぱん、ぱんと紙風船が破裂するような音が二、三回続いて部屋の壁に同じ数だけ穴があいた。それから、今度は道路を舗装する機械のようなダダダダダという大きな音が聞こえた。用務員室の壁にカシオペア座が描き出された。

 ショータが小声で「来て」と言って走り出した。私もあとを追った。


 用務員室には裏口があった。われわれはそこから抜けだし、校庭に出た。校舎の影に隠れるようにしながら、急ぎ足で門をくぐり、敷地の外に出た。振り向くと、三人の男があとをつけてきていた。トレンチコートを着た男が、屈強な黒服の男二人にあれこれ指示を出している。

 ショータは振り返らずに、どんどん歩いていく。「さすがに住宅街に出れば彼らも派手なことはできないだろう」と私が言うと、ショータは「中野からずっと、つけられていたんだ」と悔しそうにつぶやいた。

 行く手に駐とん地の門が見えてきた。

「これからどうする?」と私はショータに聞いた。

「逃げるのさ」と彼は答えて、門へ進んだ。

 門の前まで来ると、自動小銃を携えた自衛隊員が敬礼し「どちらへ」と聞いてきた。ショータは「見学したいんです」と子どもらしく答えた。

「見学なら別の入り口だね。係の人に誘導してもらえるか聞いてみましょう」

 隊員がそう言って無線に話しているすきに、ショータは走り出した。まいったな、と思いながら私も走った。

「おいこら、待ちなさい」背後で隊員が叫んだ。「待て!」

 走りながら振り返った。尾行していた三人の男は、門の外でなすすべもなく突っ立っていた。

 駐とん地中にサイレンが鳴り響いて、ざわざわと自衛官や職員が建物から出てきた。

 走る私と少年の視界に、ちょうど訓練飛行に出ようとしていた軍用ヘリコプターが飛び込んできた。パイロットが驚いて機体から降りてくる。

 ショータはプラスチックの拳銃を私に握らせて、自分のこめかみに当てた。耳元で「脅迫して」とささやく。

 私が「ヘ、ヘリを貸してもらいます。あ、あなたも、こ、こどもを見殺しにしたくはないでしょう」とパイロットに言うと、彼はヘルメットを操縦席に置き、ヘリから離れていった。

 ショータは操縦席に座った。すでにエンジンは作動していて、ローターが回転を始めている。

「操縦できるのか」と私が聞くと、ショータは無言のまま、脇のレバーを引き上げた。機体がふわりと宙に浮かんだ。そのまま徐々に上昇する。ショータが操縦桿を前に倒すと、ヘリは飛行を開始した。

 地上の喧噪がウソのように、練馬上空は静かだった。

「楽勝だわ」と言って少年は楽しそうに笑った。「どこで操縦を覚えたんだい」と聞くと、彼は「マニュアルを読んだことがあるんだ。ウィキリークスでね」と言ってウインクをした。


 ヘリは都心へ向かって飛び続けた。

 新宿を通り過ぎ、皇居の緑が見えてきたころ、後ろに光るものが近づいてくるのを感じて、私は振り向いた。小型ヘリが三機、われわれを追いかけてくる。どうやら自衛隊ではなさそうだ。

 そう思った矢先、何かにぶつかったような衝撃を感じ、機体がぐらぐらと揺れた。ショータが必死に操縦桿を握りしめ、何とか持ちこたえている。

 三機のうちの二機が、われわれのヘリを追い越していった。操縦しているのは猫のようだ。旋回して真正面から再び攻撃を仕掛けてくる。二機の機関砲がタタタタと連続して光を放った。

 しかし、ショータは絶妙のタイミングで操縦桿を左へ右へ倒し、機体を弾丸からよけた。

「さて、そろそろこっちが反撃する番だぜ」

 東京湾上空まで来たのを見計らって、ショータは操縦桿のボタンを押した。

 機体の両脇から発射されたミサイルが直線を描いて飛んで行き、そのうちの一発が正面のヘリに命中した。ふらふらと横移動して隣のヘリに衝突し、二機とも炎上しながら青い海に吸い込まれていった。

「もう一機はどこだ」と私は言った。ショータも左右を見回すが、見つからない。

 そのとき、頭上から黒い影が目の前に降下してきた。

「しつこいなあ、もう」

 少年がめずらしく弱音をはいた。

 最後の一機を操縦しているのは人間だった。正面で向き合うとパイロットの顔がよく見えた。狐に似たその顔には見覚えがあった。

 あいつだ。

 トレンチコート男だ。

 ショータが機関砲の引き金をひく。空気を叩くタタタタタタという連続音が聞こえた。

 しかし、トレンチコートのヘリは微動だにしない。

 もう一度引き金をひく。タタタタタタ、タタタタタタ、タタタタタタ。かちかち。

 弾切れだった。

 きっと自衛隊だって、訓練用ヘリに余分な弾を積んでおくほどの余裕はないんだろう。

 こちらが万策尽きたのをあざけるように、狐顔の男が操縦席でにやりと笑った。

 瞬間、敵のヘリが光ったと思うと、近くで破裂音がした。こちらの機体が今までにないほど大きく揺れて、ぐるぐると回転しながら急降下を始めた。

 テールローターが煙を吐いている。

 異常を知らせる警報音がけたたましく鳴り響く。

「駄目だ……」ショータは操縦桿に振り回されている。

 窓の外で、空と海と東京がめまぐるしく回転する。そら、うみ、とうきょう、そら、うみ、とうきょう、そら、うみ……


 ――ちーん。


 仏壇のりんのような音が響いて、ドアが開いた。

 まぶしい。私は反射的に顔の前に手をかざした。

 そこは真っ白い世界だった。


 自分は今まで何をしていたんだっけ……。社長室に呼ばれて、地下室でインターネットの調査をして、仲間を失った。中野の古アパート、少年、自衛隊……。

 そうだ、ヘリコプターで敵と戦って、撃墜されたんだった。

 それで、どうなったんだろう。

 あの少年は無事だろうか。

 からだに痛みは感じない。

 ここはどこ?

 天国?

 

「ここは、インターネットです」


 女性の声が聞こえた。洞窟の奥から聞こえてくるような、幻想的で美しい声だ。姿は見えない。

「あなたは誰だ」と私は聞いた。

「私はインターネットの女神です」と声は無表情に答えた。「あなたを待っていました」

「待っていた?」と私は聞き返した。私がこうなる運命だと分かっていたのか。

「そうです。私があなたをここへ導きました。あなたは、ここへ来ることを運命づけられていたのです」と女神は言った。まるで私の心を見通しているようだ。

「その通りです。私には、あなたの考えていることが分かります」

 熊のテッドに、地図やショータの存在を示唆したのもあなただね。と私は心の中で質問した。

「そうです。あなたが自分の力でここにたどり着くには、そうするほかありませんでした」

 私をどうするつもりだ。

「あなたに危害を加えるつもりはありません。ただ、あなたに知ってもらいたかったのです」

 何を。

「インターネットの世界を、です」

 不気味な猫たちに乗っ取られ、悪意であふれてしまった世界のことかね。

「猫たちに悪意はないのです。彼らはただ、人間たちに知ってもらいたいのです。人間自身の心の奥底にひそむ憎悪を。そして、それらと向き合ってもらいたいのです」

 そんな勝手な理由で、インターネットを使って人の心をもてあそんでいるというのか。

「それは人間も同じことじゃありませんか。あなたの組織も、そうやってインターネットを利用してきたのでしょう」

 それは……。だけど……。


「オレの見たところ、おじさんの会社も、2ちゃんねるの猫たちも、やってることにたいした違いはないね」突然、ショータの声が聞こえた。


「すべての猫は愉快犯なのです」今度はテッドの声だ。


「ある意味で、猫たちはあなた方の心の中にいるのです。どんな人の心の中にも、必ず猫はひそんでいます」と女神は言った。

 猫は、人間自身の心の中にいる――。

「そうです。あなたはなぜ、あなたの組織を助けようとするのですか。彼らはインターネットを使って人々の憎しみを煽り、ののしりあい、そしていつかは自滅する運命です。猫たちはそれをほんのちょっと早める手助けをしてあげているにすぎないのに……」

 声はしだいに小さくなっていった。


        六


 ちーん、という電子レンジのような音がして、エレベーターは十四階に停まった。

 ドアが開くと、そこは総務課の部屋だった。待ち構えていた上司が何か話しかけようとしたが、私はそれを制止して奥へ進んだ。

 秘書課を横切り、突き当たりの重そうなドアと向きあう。秘書のみどりちゃんが事務的な声で「社長がお待ちです、どうぞ」と言った。

 私はドアをノックした。

「入りたまえ」と社長の声が聞こえた。

「失礼します」私はドアを開けた。

 社長はこちらに背を向け、窓の前に立っていた。外は暮れかけていて、赤い夕陽が西の空に消え去ろうとしているところだった。

「それで」と社長は低い声で言った。「何か、手掛かりはつかめたのかね?」

「はい、いろんなことが分かりました」と私は答えた。

「そうかね」社長は私のほうへ振り返ろうとはせず、暗くなっていく皇居の森をじっと眺めている。重たい沈黙が部屋中を支配していた。暗黙の圧力に屈することなく、私は口を開いた。

「今回の調査で、私は多くを学びました」

 社長はようやく振り向いて、モノクルの奥から私をにらみつけた。

「能書きはいい。結論だけ言いたまえ」

「今回の一連の騒動は、あなたの自作自演ですね?」

「どういうことかね」

「あなたは最初から半沢ショータ君を捜し出すことが目的だった。そうですね?」

 社長はぴくりとも動かず、黙って聞いている。

「ショータ君はインターネットを駆使して国際的に活動していた。少年でありながら世界中に大きな影響力を持っていた。そして当然ながら、あなたとこの国の政府の謀略についても熟知していた。もし彼がそのすべてを公表したら、たちまち現政権の基盤は不安定になり、阿蘇首相は失脚し、あなた自身の地位も危うくなるでしょう。だから、あなたは何としても少年を捜し出して、それを未然に阻止しなくてはならなかった。そのために2ちゃんねるの情報を操作して、猫たちの反乱が起きているかのように見せかけ、私に調査を命じたんです」

 ふん、と社長は鼻で笑った。

 私は続けた。

「ショータの居所をつかんだ時点で、あなたにとって私やテッド班長はもう用済みだったわけですね。だから殺し屋を雇ってテッドを消し去り、私とショータも消そうとした。違いますか?」

 社長はそこまで聞いて、ぱちぱちと手を叩いた。それから声を出して笑った。

「その通りだよ。よく調べたじゃないか。褒めてやろう。何が欲しい? カネか? 地位か? 名誉か? 何でも欲しいものを与えてやるぞ」

 私は何も言わずに首を振り、中央に置かれた大きな机に歩み寄った。そして上着のポケットから辞表を取り出し、その上に置いた。

「もう手遅れですよ、社長」と私は言った。「ショータ君は今も元気です」

 社長は一瞬たじろいだように見えた。

「おそらく今ごろは、全世界に向けて発信しているところでしょう。あなたと、あなたの政府が企んできた事をね」

 私はそう言って、哀れな老人を見つめた。

 屈辱が、老人の顔面をリチャード・ニクソンのようにゆがめ、憎悪にみちた視線が私を刺した。

 私は彼に背を向け、ドアまで歩いて部屋を出た。


 社長室のドアを閉めると、秘書のみどりちゃんが私のほうを見て微笑んでいた。

「今度、食事にでも行こうか」と私は彼女に声をかけた。

「ええ、喜んで」と彼女は答えた。「なんなら、今からでもよくってよ」

 そう言った瞬間に電話が鳴ったので、みどりちゃんは渋い顔をして受話器をとった。

「社長室でございます」

 電話口から興奮した男の声が漏れ聞こえる。

「少々お待ちくださいませ」

 電話の相手に丁寧な口調でそう告げると、インターホンのボタンを押して、彼女は言った。


「社長、総理官邸からお電話です」



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