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白い桜

2012/11/11に修正しました。

 俺の部屋に入り、上着を脱ぐ。このときは午後の五時ごろ。すでに外は真っ暗だった。

 机の上に買った小説を置く。『白い桜』の表紙には花の色が白い一本の桜があった。そして、桜の影は一人の少女の形をしていた。月夜を背景にしたその絵は、誰かを待っているようにも見えた。

 俺は椅子に座り、すぐにその本を読み始めた。読まないといけない、そう思った。

 

  今日も朝早く起きて、ごはんを食べて、リハビリをして、小説を書いて、早く寝る日々を送っています。

  私はいまになって思うことがあります。

  もし私の代わりに犠牲になってくれる人がいるとしたら、私はどんな反応をするのだろう、と。

  でもそれは少なくとも、私がもっと涙を流すことになるだけだと思う。

  私を心配して、想っていてくれる人を、ただ手を組みながら見るだけなのはとてもやりきれない。

  ああ、不安で心配でこころが落ち着かないと言うのは、きっとこのことなんだろうなと、この日以来そう思うようになったのです。

  何としてでも運命を変えてやりたい。

  本気でそう願う人は、どれほどいるのでしょうか。

  自分のためじゃなくて、他の人のためをそう想っている人は、どれほどいるのでしょうか。

 

 時間をすぐに忘れることができた。彼女の書く文章が繊細に、明確に、俺の頭の中で映像化されていく。しかし、ページをめくるごとに文章が曖昧になっていくのが分かった。手の筋肉が硬直していて上手く書けなかったんだろう。

 病魔が彼女を蝕む。脚が全く動かない。食べ物や飲み物を飲み込む力を失う。呼吸混乱が度々起きる。言葉がうまく言えない。味覚がない。嗅覚が奪われる。耳が聞こえない。目が見えない。

 そして……、小説が書けなくなった。

 しばらく白紙が続いた。一気にページをめくることはしなかった。一枚、一枚、ゆっくりとめくった。何もない文章や文字が彼女の過ごした時間だ。何も感じられない時間を彼女は過ごした。

 最終ページがそろそろ見ることになるんじゃないかと言うところで、ようやく文章が現れた。まだ小説が十分、書けるようなときに書いたそうだ。

 再び現れた文章を読んでみて、俺は衝撃を受けた。




 真夜中に、私は自宅の近くにある公園の長椅子に座って、空から雪が降っているのを見てました。なんでこんなに自由なんだろうと思っていると、きっとこれは夢なんだとすぐに気づきました。私の中に潜む病魔は消え失せていました。

 白い息を吐きながら雪を見続けると、私と同じぐらいの年の男の子が、崖に落ちないように施された手すりの方へ歩いてました。一瞬だけ、男の子が小学生のころにいたIくんに見えました。とても優しくて勇気のあるIくんに。

 そっちに行ってはいけない。

 そう思った私は「あれ、Iくん?」と呼びかけました。

 彼の足が止まり、顔を振り向きました。案の定、男の子はIくんでした。小学校の卒業式以来、まだ会ったことのないIくんは、とても凛々しくて、もう外見が大人でした。

 夢の中の私はどう見えているかな。可愛らしい女の子であって欲しいな。

 Iくんはひどく落ち込んでいるようでした。高校ではあまり上手くいっていないみたい。

 私はIくんの悩みを聞きました。Iくんは私と同じで一人でした。でも、私とは違って、独りでした。誰とも関わりのない独りは、とても辛かったね。

 Iくんの悩みに対して、私はこう答えました。

「独りが嫌なら、私が一緒に居るわ」

 これが正しい答えかどうか分からない。でも、Iくんに私ができることは、もうこれだけだから。

「ありがとうな」

 Iくんが照れくさそうにそう言いました。

 とても嬉しかった。ありがとうと言う言葉を聞くのは久々でした。こんな小さなことでも、ありがとう、と言ってくれました。

 Iくんは話しました。本当はここで自殺をしようとここに来たんだ、と。でも、私の話を聞いて止めたみたい。

 ごめんね、Iくん。何度もたくさん私のことを守ってくれたのに、私はこれしかできないの。そして、いつしか全くできなくなる。私のこと……守って……くれたのに……。

 涙がポロポロと流れました。Iくんには見せたくないと思って、顔を隠しましたが、一層惨めになるだけでした。

 Iくんは驚いて、大丈夫か、と言いました。

 私は大丈夫よ。病気を絶対に治す。そしたら、またこうして一緒に居ようね。

 Iくんはホッとしたのか、さっきまで雪に当たっていたのに、次の雪の粒に当たると声を出しました。

「冷たっ!」

 その反応が可愛らしくて、私は自然に微笑みました。

 Iくんも、きっと、大丈夫ね。

 私はあることを伝えようとしたときに、夢から覚めました。

 夢はとても心地よかった。不自由なくいろんなことができた。でも現実は厳しい。厳しくても私は生きる、絶対に。脚が動かなくても、うまく言葉が話せなくても、できることが少なくなっていっても、私は小説を書くしかないんだ。この一冊に尽力してこの世に送り出すんだ。そして絶対に恩返しなくちゃ。

 途切れてしまった言葉の続きを、今、書きます。



 私はIくんのことが、好きでした。




「嘘だ……」

 これは嘘、幻、そして夢だと思いたかった。この本を書いていたのは、麻由美だったのか?

 Iくん。この人物は俺のことなのか?

 麻由美と会ったのは夢? もう分からなくなってきた。この際、夢だろうが、現実だろうがどうだっていい。麻由美、麻由美が無事でいてくれたら……。

 次のページをめくろうとするが、とてつもなく嫌な予感がしてなかなかめくれない。指が震える。暑くもないのに、気持ち悪い一筋の汗が背中に伝った。

 ふと、あの悲しげな表情をした店員を思い出した。なぜあの顔になったのか、今、分かった気がする。店員の余命の長さなんて、関係なかったんだ。

 駄目だ。めくってはならない。めくった先は、恐ろしい真実がある。だけど、だけど……。

 力を振り絞ってめくる。

 そして、絶望した。



 二○十二年 二月 四日

 桜木麻由美 死去

 この物語はノンフィクションです。

『白い桜のユメ』はフィクションです。ノンフィクションではありません。

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