救い
2012/08/04に修正しました。
2012/11/11に修正しました。
ゆっくり目を開くと、すでに日は沈んでいて、外は真っ暗だった。時計を見ると、今は夜の一時半だった。十二時間も寝ていたなんて、よほど疲れていたのだろうか。
外を見るために、カーテンを開ける。暗くて分からないが、まだ雪が降っているようだった。
俺は着ている制服を私服に着替え、傘を持って出掛けた。別に着替える必要はないが、これからの行動をするのに邪魔くさかったし、俺の居場所ではない学校の制服を着て実行するのは相応しくないと思ったからだ。
着替えが終わり、玄関でスニーカーを履く。そして登校するときと同じように小さな丸い鏡を見た。口元にある傷口は晒されていた。マスクを取りに部屋に戻るのも面倒だし、もう真夜中だから人通りも少ないし、気づきにくいはずだ。このまま出かけよう。
傘を手に取って玄関の戸を開けると弱々しい風が入ってきた。俺は構わず傘を開いてすたすたと歩き始めた。外の空気は冷たいはずなのに何にも感じない。歩いているはずなのに雪に足跡を作っていないように感じる。でも、そんなことはどうでもよかった。目的さえ成し遂げれば、全てがどうなってもいい。
風は体の芯まで凍えさせようと躍起になって吹いているが、まったく動じない俺に飽き飽きしたのか、次第に弱くなった。電信柱によって照らされているはずである道はとても薄暗く、俺を路頭に迷わせようといざなうが、ただ一心に歩き続けた。
二十分ぐらい歩いただろうか、ようやく目的地に着いた。ここは国立公園だ。十本ぐらいの幹が太い木がまばらに植えられている。それぞれその木の周りを囲むように長椅子が並べてある。絶壁の上に位置するところで、街並みがよく見える。街並の中で所々光を照らしていたが、別に何とも思わなかった。
みんなからの小言や暴言にはもう耐えきれない。渋谷との縁が切れた以上、いじめられるかもしれない。小学校で経験したあの痛み、感情を、また味わいたくない。思い出すだけで、吐き気がこみ上げてくる。再び味わう前に命を絶とう。誰も悲しまずに、きっと清々とした顔であざ笑うだろう。
俺は誰もいないことを確認し、手すりの方に向かう。手すりの向こうは崖で、崖の向こうには天国がある。もうすぐで楽になれる、そう思っていた。
「あれ、勇くん?」
手すりに向かう脚が、勝手に止まった。家族以外で、他の人から俺の下の名前で呼ばれたのは、何年ぶりだろうか。胸の辺りがとても暖かく感じた。
後ろへ振り向く。すると、一人の女の子が椅子に座っていた。顔立ちや体つきから見て、俺と同じ高校生ぐらいの子だろうか。髪が肩ぐらいまでまっすぐ伸びていて、薄いピンクのワンピースがとても似合っていた。
一体、誰なんだろうか。
「そう……だけど。あなたは……?」
「久しぶりね。私よ。桜木 麻由美。最後に会ったのは、小学校の卒業式だから……五年ぶりだね」
「あはは……。ひさし……ぶり」
明るく振る舞う麻由美に対して、俺はぎこちない返事をした。
麻由美は小学校のころの友人で、よく一緒に遊んでいた。しかし、中学校に進学するときにそれぞれ違う学校になり、それ以来会っていない。
「勇くんはここで何してるの?」
「えっと……。気分転換……かな」
自殺しに、なんて言えるはずもなく、とっさに嘘をついて誤魔化した。昔よく話していたから、麻由美には俺の嘘をすぐ見破るだろうと思った。しかし、麻由美は追及しなかった。
「まぁ、立ち話すると疲れると思うし、こっちに来て座ってよ。ちょうど一人分、空いているし」
そう言って、麻由美は椅子に敷かれたビニールシートに積もった雪を払った。さっきから傘も差さずに座っているのは、何か理由があるのだろうか。
「傘……要る?」
「いらない。滅多に見られない雪を、この目に焼き付けたいのよ」
「そっか……」
俺は傘を閉じ、麻由美の隣に座った。とにかく早く自殺したかった俺だったが、麻由美と別れた後でも悪くないと思った。最後に、神様は俺にこんな用意をしてくれるなんて、正直、驚いた。だって、俺が初めて好きになった女子である麻由美と、また逢えることができたから。それでも俺の気分は上向きにはならなかった。
静かに降っている雪を見ていると、麻由美が突然言った。
「ねぇ。私、雪は初めて見るけど、なんだかそんな気がしないの。どうしてだと思う?」
「さぁ……」
教室から外の風景を眺めていて、そんな風に思っていたような気がする。
「私はね、こう思ったの。小学校のころ、毎年一緒に花見してたでしょ? 多分、そのせいかなって思ったの」
「雪と花見のどこに関係が……?」
「白い雪が、白い花びらに見えるの。花見のときはピンク色なのにね。こうして雪を見ると、小学校の頃を思い出すね」
「……思い出したくもない」
頭の中で、小学校のころの記憶が一瞬、よぎる。
「え?」
その記憶が突然暴れ出した。
「思い出したくない! あの冷ややかな笑い声、体を傷つける音なんか、聞きたくない! 俺を見てあざ笑う奴らの顔なんか、見たくない! 体が痛い! こっちに来るな! みんな死んじまえ!」
「勇くん!」
麻由美の声で、暴れ出した記憶がスッと消えた。同時に、麻由美にこんなことを言ってしまった恥、後悔、謝罪、自責の念で気持ちがいっぱいになる。
「……ごめん。麻由美は、何も悪くないのに」
「ううん。なにか……辛いことがあったんだね」
「……実は今日も俺の傷の小言を聞いたんだ。いつものことだから、耐えることができた。でも……唯一の友人が俺から離れた。きっと、明日からいじめられる」
自然に口から言葉がスラスラと出てくる。きっと、聞いている人が麻由美だからこそ、こんな話を話せることができたんだと思う。
「他には?」
「先週から少しずつ読んでいる本があるんだけど、最後まで読み切ったとき、思ったことがある。俺って今までずっと、人を好きになれなかったなって。支えたくなかったなって。そして、周りが俺を押しつぶして、独りで死んじゃうのかなって」
麻由美は静かに俺の話を聞きながら、なにか一生懸命に言葉を探しているようだった。
「無理に答えようとしなくていい。俺の問題だから……」
「別に……好きじゃなくても、いいんじゃない? 人、全員を好きになるなんて、難しいことよ。」
予想だもしない返事だった。麻由美のその返事のおかげで重荷が少しだけ軽くなった気がする。でも、まだまだ重い。
「でも、俺……」
「優しくて守れる勇くんなら、一人くらい、好きになれる人が現れるわ」
重荷がまた軽くなる。
「でも、人を支えることなんて……」
「勇くんなら無意識に支えてきたと思う。逆に意識していると、失敗することもあるわ」
「俺……ずっと独りで、みんなからいじめられるかな」
「独りが嫌なら、私が一緒に居るわ。そうすれば、いじめなんてへっちゃらよ」
心に積もった重荷がついになくなり、身軽になった。人に対する憎しみや、嫌いと言う感情がほとんど消えた。麻由美からくれた優しさと愛情、好きと言う感情でいっぱいだ。
「はは……そうだな。……ありがとう」
「いえいえ。友人として、当然のことをしただけよ」
そう言った麻由美の微笑む顔を見ると、自然と俺の口元が緩み、口の端がわずかに上がっているに気がついた。
勘違いしていた。俺は全員が醜い訳じゃない。隣にいる麻由美も、渋谷も、好きだ。俺のことに気を使ってくれる、良い人たちだ。一度や二度の裏切り程度で、勝手に決めつけていた俺は、なんて馬鹿なことをしたんだろう。
それに、俺を軽蔑したり、見下している人なんていなかった。ただ傷が珍しかっただけなんだ。仮にそんな人がいても、傷の物語る恐ろしさを話せば、きっと理解してくれる。
俺は遠くの景色を見る。街並みから発する光が点々としていてとてもきれいだ。
俺は麻由美に本当のことを打ち明けた。
「本当は俺、自殺しにここに来たんだ。でも、麻由美と話しているうちに考えが変わった。やっぱり止めることにする」
「うん……」
隣から泣き声が漏れて聞こえる。麻由美の方へ振り向くと、驚くことに、麻由美が手で顔を覆いながら泣いていた。俺は困惑した。
「ど、どうしたんだ?」
「ううん……何でもないの。よかった……」
俺が死ぬことを止めたことに対して、ホッとしたのだろうか。麻由美は手の甲で涙を拭った。
「冷たっ!」
雪の粒が顔に当たり、あまりにも冷たくて思わず声が出た。
麻由美は涙を拭きながら雪の粒がついた俺の顔を見て、また微笑んだ。そして、麻由美の頭が俺の肩に乗っかってきた。麻由美の髪の匂いがする。とても甘い匂いだった。麻由美の温もりが俺の体半分に伝わってくる。緊張して、頭が前しか向けない。
「勇くん……私……」
重くなった肩が妙に軽くなった。甘い匂いが無くなった。麻由美の温もりが消えた。
「え……?」
隣を見ると、麻由美は居なかった。




