日常
2012/08/04に修正しました。
2012/11/11に修正しました。
過去最悪の寒さが、俺たちの住む町を襲った。
分厚い布団から抜け出したくないと願っても、時間は刻一刻と刻み、とうとう起床時間になってしまった。
覚悟を決めて布団から這い出ると、予想通りに冷気が俺の体の芯まですぐに冷やした。がたがたと体を震えるのを抑えることができない。
腕を組むような形で二の腕を摩りながら外を見ると、道路や住宅の屋根にはたくさんの雪が降り積もっていた。一目で見て、約十五センチぐらいは積もっているだろうか。歩道を歩く人々は、積もった雪に四苦八苦しているようだった。除雪し終えられた車道には、車の長蛇の列ができていた。
外出の時間まであと二十分ぐらい。早く登校しないと遅刻してしまう。
朝食を食べずに簡単な身支度を終え、玄関で革靴を履く。ふと、靴棚の上に置かれてある小さな丸い鏡を見た。
ワックスで固められた髪の毛に、整えられた眉毛、そして面積の広いマスクをした俺が映っている。
ワックスを使ったり、眉毛を剃ったりしているのは、イケメンを気取るためではない。ただ、周りからキモいと言われるのが嫌なだけだ。
マスクをそっと外す。そこにあったのは、過去にできたひどい傷が残されていた。他に見せられないほど、変色していた。小学校のころにできてしまった傷で、今の医学や治療法では治れないという。この傷さえなかったら、きっと華やかな人生を送れたに違いないと確信している。マスクをかければ――決してナルシストではないが――自分ではそれなりにかっこよく見えると思う。
その傷を見て、思わずため息がでた。
俺は単純だから、好きだった子が言った「外見より中身が大事」と言う言葉を容易く信じてしまった。しかし、俺の傷を見て、ひそひそ話す連中は絶えずいた。俺はその日以来、みんなに対して不信を抱いた。所詮、中身まで見てくれる人なんていない。俺がそうしようとすると、みんなは避ける。俺の顔にできた傷が、気持ち悪いと言う理由だけで。たった一つの欠点なのに、どうしてだろうか。
この傷がとても醜かった。
俺はまたマスクをつけ、玄関の戸を開けた。すると冷気が俺を襲いかかり、背筋にぞくっと寒気が走った。コートやマフラー、手袋、そしてホッカイロまであるというのに、それだけでは寒さを防ぐことができなかった。不思議と不安になってきたのは、この寒さのせいなのだろうか。
俺は家の前にある道路の方に目をやった。そこには俺のことを待っているあいつが立っていた。
「よう、森口。朝っぱらからこんなに積もっちゃあ、電車とか走ってないだろ」
白い息を吐きながらそう言って、笑顔を見せる彼は渋谷だった。しぶやとは読まず、しぶたにと読む。渋谷は俺が唯一信頼できる友で、中学生のころからの付き合いだ。中学校にも、高校にも、渋谷がいたからこそ、通い続けることができた。彼なしではきっと学校には行っていなかったと思う。人気者で、喧嘩に強い渋谷と居れば、いじめられることはなかった。渋谷には感謝し尽くせない。
積もった雪に足跡を残しながら、渋谷のところへ歩く。雪はズボンの裾や靴下を湿らせる。とても冷たかった。
「歩き……で来たのか」
俺は渋谷の自転車が無いことに気づいた。いつも俺と渋谷は、自転車に乗って学校まで二十分かかる道のりを走り抜ける。
「チャリで行けないこともないけど、滑って、車と激突して、はい、昇天。そんな風になるのは御免だと思ってよ。だから安全策にした。森口も歩きで駅に行こうぜ」
「そうだね」
それから俺たちは、駅に着くまで雑談した。昨日の日曜、渋谷が部活の練習試合で強豪校に勝てたことや、先週の難しい小テストで俺は満点を採れたこと。そして駅に向かう途中、サラリーマンが滑って転んだ。メガネの位置がずれていたり、雪の冷たさで顔が真っ赤になったのを見て、俺たちは必死に笑みを抑えながらそそくさとサラリーマンの傍を通り抜けた。
電車に乗っても雑談はまだ続き、気づけば学校に着いていた。
見上げてみると、校舎の屋根や窓のふちに雪が積もっていたが、普段の風景と比べるとあまり変わってはいない。しかし見渡すと、校庭は薄い茶色から真っ白に変色していた。まるで絨毯だ。その絨毯の存在が強すぎたせいで、校舎はあまり変わっていないのだと思ったのかもしれない。
校庭に数人の男子が雪玉を投げ合っているのを見ていると「なぁ。放課後でさ、何人か誘って、雪合戦しようぜ」と渋谷が言った。
「いいけど、放課後より、昼休みの方がいいんじゃないかな。天気予報だと、もっと積もるらしいよ。積もりすぎて、身動きできなかったら、雪合戦どころじゃなくなるし」
口ではそう言うが、理由はもう一つある。それは、自分の顔をなるべく多くの人に晒したくないと言う理由だ。放課後まで学校には居たくない。
確かに傷はマスクで隠されているので、見られる心配はいない。しかし、食事時や鼻をかむ時などにマスクを外し、傷が露わになったのを見た人たちが多い。その見た人たちが友人や先輩、後輩に言い広め、ついには学校全体に知られてしまった。
俺の傷はそれほど恐ろしいのだ。
「うーん。それもそうだな、うん。昼休みにするか。しかし、こんなところでも雪が降るもんなんだな」
「ほんとに。こんなところでも雪がこんなに降るもんなんだね」
俺たちは昇降口で上履きに履き替え、真っ先に教室に向かう。
いつもなら教室や廊下は生徒でにぎやかになるが、今日は閑散としていた。全く人がいない。おそらくこの天候の影響で交通網に支障を来しているにちがいない。俺たちは運良く電車に乗れたから、いつも通りの時間帯に着くことができた。
二百三教室、通称二年C組の教室には、すでに勉強を始めている人が何人か居た。俺も勉強するために、その人たちの一人になる。一方、同じクラスである渋谷は、机に荷物を置くなり急いで出て行った。おしゃべりが大好きな彼は他のクラスに向かったはずだ。
俺は教室に居る人や、席に着いている人に挨拶をすることなく、椅子に座って黙々と勉強する。見知りあい以上、友だち未満の連中には、声をかけられたら返事する程度でいつも済ましている。あまり親しくない人と話すと、どこかぎこちない話で終わってしまう。それが疲れる原因となり、俺をだめにする。だから距離を測って、なるべく話さないようにしている。
徐々に教室がにぎやかになり、もうすぐで朝のホームルームが始まろうとしていた。
俺の席は、黒板に向かって一番前で左端だ。あまり親しい友人がいないため、休憩時間になっても、あまり立ち歩くことはない。周りから見ると孤立しているように見えるのだろうか、こんな会話が聞こえる。
「アイツ、いつも一人だよね。友達いないんじゃね?」
「私、登校するときにいつも見るんだけど、渋谷くんと一緒にいるよ、彼」
顔を開いたノートに向けたまま、複数人の女子の会話に聞き耳を立てる。渋谷と一緒にいる彼とは、きっと俺のことだ。
「えー。あの渋谷が? 信じらんない。あんなキモい奴と一緒にいるなんて」
「渋谷くんに訊いたんだけど、彼とは中学からの付き合いなんだって」
「それも驚きなんですけど。どんだけ仲が良いんだよ、それ」
ゲラゲラ笑い合う二人の会話を、今度はなるべく聴かないように努める。にぎやかで、うるさい教室にいるはずなのに、彼女たちの会話が自然とまっすぐに耳に入ってしまう。他の人たちの会話を消すようにすることはできるのに、どうしても彼女たちの会話は消すことができなかった。
「キモい奴と一緒にいて、何とも思わないのかな、渋谷は」
「多分、しょうがないからって言う理由でいるだけだと思うよ」
「確かに。いつも一人だからねぇ。外見はアレだけど、性格も悪そう」
「あ、確かにそうかも……」
外見は見ての通りだから、我慢はできるし、文句は言えない。でも、内面まで簡単に見透かせるほど、俺は柔じゃない、。いや、俺だけじゃない。みんなも表と裏の顔を併せ持つ。簡単には見透かせないんだ。それなのに、雰囲気だけでそう決めつけるのはあまりにも酷くないか。
俺のイライラをなんとか抑え込みながら勉強していると、朝のホームルームが始まるチャイムがやっと鳴った。二人の女子の会話がぴたりと止むと、俺はひどく深いため息を吐いた。授業がある日いつもそんな会話を聞いていて、気が滅入る。特に女子の会話を聞くのは特に疲れる。どうして女子はこんなに攻撃的なんだろうか。そんな女子と接することができる人がどうして平然な顔で居られるのか、よく分からない。身を守る術を知っているからだろうか。
クラスメートはそれぞれの自分の席に着席する。そして、獣のように目つきが鋭い男性が威厳を振る舞いながら教室に入り、教卓まで歩いた。号令に従い、生徒に顔を向けた先生であるその男性に向かって挨拶をした。
一連の動作を終えると、先生は校内での盗難や、登下校時のマナーの悪さについて淡々と語り出した。
退屈だ。そんな話、何度も聞いた。もう理解した。他のみんなも分かっているはずだ。それなのに、休み時間のときとは違い、みんなは静かにしている。こんなに静かなのは、成績が良い人が集まる、ここの進学クラスだけだろう。つまらない話や関係のない話でもちゃんと耳を傾ける連中ばかりだ。……渋谷も聞いているのだろうか。
先生が俺を見ていない隙に、机の中から一冊の本を取り出し、読み始める。先週書店で買ったものだ。一人の女の子が不治の病に罹り、残された人生を精一杯生きていく話が書かれている。上下巻と二つに分かれているが、下巻はまだ出版されてない。上巻はそろそろ読み終えるから、早く下巻が出て欲しいと思うばかりだ。
本を読むのに没頭していると、俺の机の前に誰かが立っていた。しまった、バレてしまったか。
先生は咳払いを一回すると、今度は俺の説教が始まった。
「森口。先生が前にいるのにも関わらず、堂々と本を読んでいるとは。ここが社会だったら、間違いなくお前をクビにする」
先生の決まり台詞の「ここが社会だったら」をここで使うのか。もしここが社会だったら、そんな無駄話を聞かず、仕事してますよ。
「本は没収させてもらう」
没収されるのは想定範囲内だった。しかし、先生の次の行動は予測できなかった。
俺が先生に本を手渡すと、先生はその本を勝手に開いた。そして俺と本を侮辱した。
「……ふむ。こんな死にかけの病人を心配するより、自分の心配をしろ。時間を割く暇などない。こんな本は役に立たん」
先生は冷たい言葉で俺に言い放つと、本を教卓の上にぽんと置いた。表紙をめくり、一目して分かったということは、この人はこの本を読んだことがあるらしい。人それぞれ、意見や感想は違うものだが、こんな人は初めてだ。
こんな本は役に立たないだと?
この人は弱まっていく病人を何とも思わないのか。ただ“死”に向かうだけの恐怖を軽視しているのか。単に勉学と関係のないものだと判断しているのか。
さっきまで抑えていた怒りが爆発しそうになる。手の震えが止まらない。ちょっとの暴言でキレることは間違いないだろう。ここでキレてしまったら、また学校の噂になってしまう。それだけは避けたい。
平常心を保とうと、先生を睨まず、ごく普通に見るように心がける。ちらりとこちらを見た先生は嘲笑うかのように目を細めていた。くそ、調子に乗りやがって……!
「先生! お話があるんで、廊下に来て貰えますか!」
その声に反応して、俺を含め全員が声の主の方へ振り向くと、そこには渋谷が手を高く挙げている姿があった。ふるふると震える俺の手は徐々に落ち着いていった。
「なんだ。ここだと話せないことなのか」
「話せなくもないんですけど、廊下の方が話しやすいんで」
「分かった。では、これで朝のホームルームは終わりとする」
先生がそう言った途端、みんなはぞろぞろと席を立ち始める。また教室がうるさくなる。
再び渋谷の方へ顔を向ける。俺とは反対側で後方の席にいた渋谷は、先生の後を追いかけるように廊下に出た。廊下に居た先生と何か話しているようだった。どんな話をしているのだろうか。
俺の勝手な想像だが、もしかしたら渋谷に助けられたのかもしれない。俺のことを知っている渋谷は、きっと俺が神経質だと知っているはずだ。周りの小言を俺に聞かせないために、先生の挑発に乗らせないように気を逸らしてくれたのか?
先生の話が長かったせいで、一時限目の授業がもうすぐ始まってしまう。休む間があまりなくてしんどい。
渋谷が先生とどんな話をしたか気になるところだけど、次の休憩時間に訊いてみるか。
一時限目の開始のチャイムが鳴った。立っていた人たちは席に座り、生徒全員が先生の話を聞く。板書された文章や図をノートに書き写し、重要だと思われるものは目立つように印をつける。最初の四十分間はそんなふうに過ごした。今日は五時限の授業をカットし、さらに時間を短縮しているから、いつもより終わるのが早かった。この雪のせいで帰るころには交通が混乱するだろうと、学校側が判断したからかもしれない。
一時限目の授業が終わって休憩時間になると、突然渋谷が立ち上がり、威勢よく言った。
「五時限目のLHRは、雪合戦することになりました! 今日は体育があって、体育着を持っているはずだから、LHRのときは体育着を着て下さーい!」
先生と相談していたのはそれだったのか。五時限目のLHRに雪合戦するなら、渋谷は昼休みに雪合戦をしないつもりなのか。
渋谷の知らせに対してさまざまな反応があったものの、みんなはやる気があるようだ。ここらへんの地域では滅多に降らない雪だから、興奮している人が多くいた。
俺は窓の外を覗いてみた。登校時には止んでいたが、今は少し雪が降り始めている。実際に雪を見たのは初めてなのに、何度も何度も見ている気がする。それに少し懐かしい感じもする。どこかで見たことあるのだろうか……。
「よ。森口」
机の前に、渋谷が立っていた。考え事をしていた俺は、突然呼ばれて驚いた。
「渋谷か。驚かさないでくれよ」
「そんな大きな声で言ったつもりはなかったけどなぁ。ところで雪合戦のことなんだけど、勝手に決めちゃってゴメンな」
渋谷は手を合わせて謝っていた。
「いいよ。俺もその方が良かったりもするし」
「本当にゴメンな。じゃ、またあとで!」
そう言って、渋谷は自分の席に戻り、周辺にいた人とおしゃべりし始めた。
こうやって、声をかけてくれるのは渋谷しかいないけど、それだけでもストレスの発散になった。口では言わないけど、本当に感謝している。ありがとう。
押絵(表紙絵)
作:寿毛無