第1部 第3話
車の後部座席に座り、俺は膝の上で両手を握り締めた。
その手の中に、汗が滲む。
汗の理由の1割は、
この車がヤクザの組長の車であること、
もう1割は、
俺の隣に、その組長が座っていること。
そして残りの8割は・・・
「おお、健次郎。算数ができるようになったのか。ちょっとは賢くなったんだな」
「組長・・・」
「あんな金のかかる大学を卒業させた甲斐があるってもんだ」
大学を出てこの程度の算数しかできないようじゃ、俺もお終いだ。
いくらなんでも計算くらいもうちょっとできるぞ。
「何をそんなに緊張してるんだ。別に敵組に殴り込みに行くわけじゃあるまいし」
「そうですけど・・・」
ある意味それより緊張する。
「ま、お前に腕っ節は期待してないから、殴り込みするにしても連れていかないがな」
「はい。そう願います」
「あのな。お前、一応ヤクザなんだから、見栄くらい張れ」
組長は「やれやれ」とため息をつき、足を組み直した。
「組長」といっても、この人――廣野統矢――は、若い。
俺の一回り上だから、まだ34歳だ。
しかも組を継いだのは、29歳の時というから驚きだ。
生まれた時から、関東一大きな廣野組の跡取り息子として育てられ、
29歳で組長になり、それから5年、1人で組を引っ張ってきた。
ヤクザのサラブレッドだ。
でも、その容姿はおよそヤクザとは思えない。
スーツを着て黙って立っていれば、どこぞのエリートサラリーマンって感じだ。
生まれも育ちも普通の俺より、よっぽど「普通」っぽい。
しかも今日は、俺はスーツだが組長はジーパンという軽装。
こうなると、もはやどっかのただのアンちゃんにしか見えない。
ただ、その目を見ると、やはり凡人でないことが伺える。
隙がないっていうか、どこか冷たいっていうか。
普段は、穏やかで面白くて話しやすい人だけど、
一度火がつけば、誰にも止められない。
それもブチ切れる訳ではなく、冷静な怒りだから尚のこと恐ろしい。
昔のこととは言え、俺、よくこの人に、あんなコトやったよな・・・
「着いたぞ」
「は、はい」
組長は、運転手に「どっか遠くで待っとけ」と言って車から降りた。
近隣住民の目を気にしてるんだろう。
組長自身はヤクザだし、周りからどう見られようと、もはや気にもならないだろうけど、
「あの人」は一般人だ。
家の目の前に、いかにもヤクザです!って車が止まってたら、周りの目が気になるよな。
この組長がそんな気を使うような人なのだ、あの人は。
組長は、大きなマンションの入り口・・・には向かわず、
裏の方へ回った。
「あれ?入り口は、あっちですよ」
「ああ。あいつはペントハウスに住んでるから。専用の玄関と直通エレベーターが裏にある」
「・・・」
凄い。
いや、昔の俺なら凄いとは思わなかっただろうが、
今となっては、そんな暮らし「凄い」の一言に尽きる。
あー・・・また緊張してきた。
が。
俺の緊張は、ペントハウス専用の玄関からフラッと出てきた1人の男によって、
あっさり払拭された。
コータだ。
「あれ、統矢さん」
俺達に気付くと、コータはスタスタと近寄ってきた。
って、酒臭せえ!!
顔も足取りも全然普通だから分からなかったが、
近くに来ると、酒の匂いがすげーぞ!!
組長も気付いたのか顔をしかめる。
「飲みすぎだ」
「統矢さんに言われたくありません。
まあ、兄ちゃんが俺の卒業祝いやってくれるって言うから、つい飲み過ぎたけど」
「たく」
組長の小言など屁にも思わないのか、
コータはニヤニヤして俺を見た。
「兄ちゃんに会いに来たんだろ?」
「ああ」
「こーわーいーぞー。なんてったって統矢さんの親友だもんな。殺される覚悟で行けよ」
「・・・」
そう。そうなのだ。
今日は他でもないコータの兄貴に会いに来たのだ。
組長と何年もつるみ、組長に何でもかんでも言いたいことを言いまくると噂の、コータの兄貴。
コータも組長に対してだいぶ遠慮がないと思うが、
コータの兄貴はその比じゃないと言う。
この組長が言い負かされることもあるというのだから、恐ろしい。
何年か前、組長は婚約したらしいのだが、結局組長が外に愛人を作り、
婚約者と、婚約者との間に既にできていた子供を手放すことになった。
ヤクザ世界じゃ珍しいことじゃないし、何と言っても相手は組長だ。
誰も組長に文句を言ったり責めたりはしなかった。
本城兄弟を除いては。
コータは組長を散々罵倒した挙句、組を辞める!と言って組を飛び出した(和解したけど)。
そして、コータの兄貴は・・・組長に何を言ったのか知らないが、
婚約解消をコータの兄貴に報告した日、組長は随分落ち込んで家に帰ってきたらしい。
恐るべし、本城兄弟。
そんな話を思い出して、
俺の緊張はピークに達した。