第4部 第1話
俺は、廣野家の門を出たところで足を止めると、
振り返って苦笑した。
家の中からはまだ、ドンちゃん騒ぎが聞こえてきている。
本当に酒の好きな連中だ。
人のこと言えないけど。
視線を家から門に移す。
門番をしている5人が、俺に深々とお辞儀してくれた。
ここのところ、俺も若い奴らにはこういうことをしてもらえる立場になったが、
今日のお辞儀が一段と丁寧に見えるのは、気のせいじゃないだろう。
5人の中に、大成の姿はない。
2年ほど前までは大成も毎日のように門の前に立っていたけど、
今はもう、それも卒業した。
本当はもっと早くに卒業できたのだが、自ら「もう少し門番をしたい」と、
組長に申し出たのだ。
理由は、今から4年前のあの日。
有に不意をつかれて銃を取られ、組長を危険な目にあわせたことを悔いていたからだ。
そして今は、組長の護衛役の1人をしている。
俺は門番達に軽く会釈を返すと、再び歩き始めた。
もう二度と、この門をくぐることもないだろう。
「健次郎!」
「コータ?」
振り返ると、コータが夜道を走ってくるのが見えた。
コータは「駅まで送るよ」と言って、俺と並んで歩き始めた。
今日は俺の送別会だった。
まあ、みんな、送別会にかこつけて飲みたいだけなんだろうけど。
その証拠に俺が抜けても、構うことなく宴会は続けられている。
廣野組らしい。
コータが前を見たまま俺に訊ねた。
「岡部村に行くのか?」
「取りあえず、な」
「・・・いるかどうか、わかんねーぞ?」
「ああ」
4年前、病院から消えた有が再び俺達の前に現れることはなかった。
行き先もわからない。
有は、俺とコータの会話を聞いていたはずだ。
だから自分が、廣野組からも松尾組からも追われることを知っていた。
姿を消して当然かもしれない。
そして、簡単に見つけられてしまうであろう故郷の岡部村になんて、
帰っていない可能性が高い。
それでもあの時俺は、唯一の手がかりである岡部村に飛んでいきたかった。
それをしなかったのは、組長への恩があったからだ。
組長は俺に、学費と生活費を4年間無償で出してくれて、仕事も与えてくれた。
それなのに、1年も働かずに組を去ることは、俺にはできなかった。
せめて、4年。
4年間は働かないと、組長に申し訳ない。
だから俺はこの4年間、必死で働いた。
何かにこんなにも夢中になったのは初めてだ。
そしてこの3月、
俺は無事4年間の仕事を終えた。
「ふざけんな。全然、『無事』じゃねー」
せっかく感傷に浸っていたのに、
コータの一言で全ては台無しだ。
「たく。一番面倒な仕事、押し付けやがって」
「まーまー。頑張れ、間宮理事長」
「ふざけんな」
俺の後任に関しては、満場一致でコータに決まった。
ちなみ「満場」ってのは、組長と俺、2人のことだ。
コータは不満タラタラだったが、
俺にできてコータにできない訳がない。
まあ、ちょっと、俺の時より仕事は増えるがな。
「ちょっとどころじゃねー!」
「・・・」
俺はこの4年間、ある目標に向かって頑張っていた。
それは、綾瀬学園に大学を作ることだ。
元々は、「学歴なんて高校まででじゅうぶんだ。大学行きたい奴は、勝手に勉強しろ」という、
組長の考えで、綾瀬学園には大学がなかった。
でもやっぱり、大学まである学校と高校までしかない学校では、人気に差がある。
だから俺は4年間で、大学を始められる準備を全て整えた。
そしていよいよ、来月4月に開校を迎える。
「大学なんて、金さえありゃ作れるだろ!大変なのは軌道に乗せることだ!」
「コータはなんでもできるから、大丈夫だ」
「・・・こんな時だけ持ち上げやがって」
その時、文句を言っていたコータが不意に足を止めた。
俺もつれて立ち止まる。
なんてことはない。
駅に着いたのだ。
それにしても、あっという間だったな。
廣野家と駅ってこんなに近かったっけ?
・・・コータとこうやって歩くのも最後だと思うから、早く感じられただけなのかな。
「じゃーな、健次郎」
「ああ、元気でな。・・・世話になったな」
そんなことないさ、とは、コータは言わない。
「ほんとだぜ。お前にはガキの頃から迷惑かけられっぱなしだ」
「・・・」
「発つ鳥跡を濁しまくり、だし」
「・・・」
「ほらよ」
コータが、ズボンの後ろポケットから、何かを取り出した。
封筒だ。
「なんだよ、餞別か?それにしちゃ薄っぺらいな。あ、1千万円の小切手とか?」
もちろん冗談のつもりで言ったのだが、コータは肩をすくめた。
「お前、金は持ってるだろ。まあ、そっちの方がいいなら、そうするけど」
「は?」
なんだよ。
じゃあ、この封筒の中には、1千万円よりすげーものが入ってるってのか?
まさか、1億円の小切手じゃねーだろーな、と思いながら、
恐る恐る封筒の中を覗いてみる。
中には折りたたまれた少し分厚い紙が一枚、入っていた。
・・・え?
「コータ、これ・・・」
「お前の役に立つかは、わかんねーけどな」
「・・・」
それは、戸籍謄本だった。
氏名欄には「野波花」と記されてある。
コータはムスッとして言った。
「それ、作るのすげー大変だったんだぞ!本人がいても大変なのに、
どこにいるのかもわからないまま戸籍を作るなんて、普通できないんだぞ!」
「コータ・・・」
「統矢さんが、あちこちのお偉いさんに口利きしてくれたから、なんとかできたようなものの」
「・・・」
俺は、手の中の書類をジッと見つめた。
廣野組に入るとき、俺は名前もそれまでの身分も全て捨てた。
戸籍なんて、どうでもいいと思ってた。
だけど・・・この有の、いや、野波花の戸籍謄本は、まるで宝石のように輝いて見える。
まるで野波花の存在そのものみたいだ。
1億円にもかえられない。
「やっぱ、日本で日本人として生きていくには、戸籍があったほうがいいからな。
これで免許証や保険証も作れるし、結婚もできる」
結婚・・・そうか。
有は、今まで結婚もできなかったんだ。
有は今も1人でいるんだろうか。
結婚はしていなくても、誰かと一緒なんだろうか。
「・・・ありがとう。組長にも、礼言っといてくれな」
「ああ」
コータは、戸籍謄本を指差した。
「それ作る時、兄の野波雅人と連絡を取ったんだ」
「え?」
「本籍と現住所は岡部村にしていいか、とか、名前は野波花でいいか、とか聞きたくて。
ついでに『本人は今、岡部村にいるのか?』って聞いたら、」
「・・・」
「いない、って」
だよな。
だけどコータは、確信に満ちた声で言った。
「でも、嘘だと思う」
「嘘?どうして?」
「野波雅人は、俺が廣野組の人間だってことも、野波花が廣野組から逃げてるってことも知っている。
だから、『いる』とは言えないんだ。でも俺のことは信用してくれてるらしい。
言葉では『いない』って言ってたけど、わざと含みのある言い方をしてた」
「じゃあ・・・」
コータは上着のポケットに手を突っ込むと、
いつもの人懐っこい笑顔になった。
「よろしく言っといてくれよな」