第3部 第8話
俺がコータと一緒にようやく自分の病室に戻ったのは、
それから1時間以上もしてからだった。
ベッドに寝転がると、また肩の傷がうずいた。
でも、もうそんなことも気にならない。
思うことは色々ある。
悩むべきことも落ち込むべきこともたくさんある。
でも、もういい。
「コータ」
「ん?」
「どうして組長は有を見逃したんだ?俺の女だからか?」
「おいおい。あの統矢さんが自分の命狙ってきた女を、
お前の女だからって見逃すわけないだろ」
それもそうだ。
「じゃあ、なんで?」
「さあな。多分、あの女が『ゆう』って名乗ってたからじゃないか?」
「『ゆう』・・・別れた婚約者と同じ名前だからか?」
「ああ」
だから見逃した?
それこそ納得がいかない。
たったそれだけの理由で、有を見逃したりするだろうか。
「本田有も、統矢さんが昔婚約者と別れたことくらいは調べてたはずだ。その名前も。
それでも敢えて「ゆう」と名乗ってたのは、統矢さんに注意を促してたのかもしれない」
「え?」
「本田有は本当は統矢さんを殺したくなかった。でも、松尾に弱味でも握られていたのか、
どうしても殺さなくちゃいけなかった。だから、せめて、統矢さんが好きだった女と同じ名前を名乗って、
統矢さんの注意をひき、危険を知らせてたのかもしれない。だから統矢さんも、殺さなかった」
「・・・同じ名前使って、気を引こうとしてただけじゃねーのか?」
コータはうんざりした様子で両目を細めた。
「お前、本田有のこと好きなんじゃないのか。本田有をそんなずる賢い女だと思いたいのかよ」
「ずる賢いだろ、じゅうぶん」
「はは、そうだな。ま、真相は本人に聞けよ」
・・・そっか。
そうだよな、本人に聞けばいい。
だって、有は生きてるんだから。
それでも俺は、コータが帰った後、
有がどうして「有」と名乗っていたのか考えた。
考えて答えを見つけたかったわけじゃない。
ただ、有のことを考えられるのが嬉しかった。
戸籍の無い有。
きっと色々辛い思いをしてきたのだろう。
戸籍が無いってことは、
存在を認められていないってことだ、
日本人として当然あるべき権利が何も無いということだ。
パスポートや免許証はもちろん取れない。
もしかしたら、学校にも通っていなかったのかもしれない。
だとすれば、有が並の成績で綾瀬学園の高校入試に合格したのは、凄いことだ。
有が敢えて、ユウさんとは違う「有」なんて男らしい漢字を使って名乗っていたのは、
自分の存在を示したかったからじゃないだろうか。
それは統矢さんに対してではなく・・・世間全体に対して。
自分という人間がここに「有る」。
それに気付いて欲しかったのかもしれない。
そしてそのメッセージを確実に受け取ったのは、コータただ1人だ。
俺は何も気付いてやれなかった。
でも、これからは違う。
俺は、有という人間がいることを知っている。
有は目的があって俺に近づいただけなのだから、
これからも俺と一緒にいることは望まないだろう。
望んだとしても、俺が廣野組にいる限り、それは無理だ。
それでも、俺が有の存在を知っているのといないのとでは、
俺にとっても有にとっても、大きく違うと思う。
これからも、有のことを知っている人間が増えていってほしい。
俺は、急にまた有の顔が見たくなり、病室を出た。
有が「有る」ことを、確認しておきたかったんだ。
有が目を覚ましたら、何を話そう?
有は、俺が怒っていると思ってるだろう。
こんな目にあったんだ、ちょっとくらいそんな素振りをしてやるのも悪くない。
それから「嘘だよ。怒ってない」って言うんだ。
それから「生きてて良かった」って言うんだ。
それから・・・
有が眠っている病室の扉をそっと開く。
俺の病室とは違って普通の病室だけど、日当たりが良く、
部屋の中は電気をつけてなくても明るい。
だからすぐに分かった。
ベッドが空だということが。