雨の中、野良ネコはニャアと鳴く
「ニャア」
それは小さな声だった。
この雨の中では消えてしまいそうなほどの、小さな声。
仕事からの帰り道、いつもなら素通りしてしまいそうなその声の主を確かめたくなった。それはただの気まぐれだったのかもしれない。
(呼ばれた)
その時は何故か、そう思ってしまった。
声がしたのは建物と建物の隙間にある細い路地、室外機の裏にソレはいた。
ソレは子猫だった。捨て猫のように段ボールに入っているわけでもなく、かと言って親猫が傍にいるわけでもなくただそこに蹲っていた。体はびしょ濡れで震えていた。
「ニィ……」
子猫はアタシに気が付いたのか、弱弱しく鳴いた。首輪もないし野良ネコであろうその子猫に警戒の色はなく、ただじっとこちらを見ていた。
何故だか目が離せなかった。
暫く見つめ合っていると、子猫の方が視線を落とした。その感じは「もう疲れた」とでもいうような弱弱しいものだった。
「うち、来る?」
自然と言葉がこぼれた。
子猫は此方の言葉が分かっているのか、一瞬目を見開きすぐ「ニャア」と鳴いた。
アタシはそれを同意と捉えて、静かに子猫に手を伸ばす。子猫はその手を不思議そうに眺めているだけで、威嚇も何もしてこなかった。子猫の体に触れてもその態度は変わらず、持ち上げようと手に力を入れても、むしろその身を委ねるようにアタシの腕の中に収まった。
その体は雨に濡れたアタシの腕よりは温かいが、普通の猫よりは格段に低いと思われた。あまりよくない状態だと思ったので、アタシはいつもより早足でアパートに帰った。
家に帰ってからはすぐに子猫の体をしっかりと拭き、毛布でくるんだ。本当はお湯にでも浸からせたいところだが、猫は基本水が苦手だし急激な体温上昇は弱ったこの子には耐えられないだろう。
毛布にくるんだ辺りで子猫は安心してしまったのか、目を閉じてしまった。一瞬焦ったが、すぐにプーと鼻息が聞こえるので多分寝たのだろう。
一安心したところでブルっと自分の体が震えた。人間の生理現象で、アタシの体も冷えていたことを思いだした。
さっさと風呂入って飯を食おう。
「はー」
お風呂でしっかりと温まり、適当な夕食を済ませてやっと一息ついた。
部屋の隅に即席で作った猫用ベッド(毛布を丸めただけ)を見ると、子猫は目を開けて此方を見ていた。
「起きたか」
「ニャ」
「ミルクでも飲むか?」
「ニャア!」
子猫は本当に言葉が分かっているのか、ミルクという言葉に目を輝かせていた。
とりあえず冷蔵庫から牛乳を取り出したが、深めの皿に注ぐ前に動きを止める。このままだとちと冷たいかとか、せっかく体も温まったのに冷たい飲み物を入れるのはよくないなと思い、牛乳をマグカップに入れて少しだけ電子レンジで温めた。目安は人肌くらい、猫舌に熱いものは御法度だ。
ちょうどいい温度になったので、先ほどの深めの皿に注いで子猫の目の前に置く。子猫は飛び出しはしなかったものの、待ってましたと言わんばかりにチロチロと舐め始めた。
「おいしい?」
「フミャ」
「そっか」
一心不乱にミルクを飲んでいる子猫を見ていると、自然とアタシの口角が上がってくるのが分かった。猫動画を見て癒されている人の気持ちが今分かった気がする。
「ニャア」
「おっと、もう飲み終わったのか?」
「ナウ」
「もう少し飲むか?」
「ンナゥ」
子猫は首を横に振って、もういらないと意思表示してきた。
マジで言葉分かってんじゃねぇか?…………まあ、そういう猫もいるか。
「じゃあ、寝るか」
「ニィ」
「あ、明日一応病院行くからな」
「ニ゛ッ!?」
背後にガーンという文字が見えそうなほど引いている。何とも表情豊かな猫だ。そして今日一の声が出たな。
「大丈夫だ。お医者さんに診てもらうだけ、痛いことはない」
「ミィ?」
本当?といいだけな声で鳴く。
多分、恐らく、メイビー、ないと思う。
「本当だ」
「フミ」
子猫はそれならいいという感じで、体を丸めて寝る態勢に入った。
アタシはその様子に安心しつつも、他の事を心配していた。
(動物病院行く前に金下ろしてこよう)
そんなことを思いながら、その日は眠りについた。
翌日、子猫は特に嫌がる様子もなく動物病院に連れていくことができた。因みに途中でお金を下ろして、猫用のケージも買った。
動物病院に着いてから保護猫であることとその経緯を話して、待合室で待っていると名前を呼ばれたので診察室に入った。
「よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。猫ちゃん、この台に上げますね」
「ニャ」
「あっ」
ケージの扉を開けると、自ら診察台の上に乗り大人しくしていた。これには獣医さんや看護師さんも驚いていた。アタシも驚いた。そして、何故この子はこんなにもドヤっているのだろうか。
「すごいねこの子。本当に野良?」
「首輪がないから恐らくは………」
「首輪が無くてもある程度人馴れしてるので、飼い猫の可能性はありますね。耳のカットはないので地域猫ではないですね。うちの患者ではなさそうですが、迷い猫として情報出しておきますね」
首輪が無くても飼い猫の可能性がある、か。まあ飼い主がいるならそちらの方がいいだろうが、あの状況は仮に飼い主が名乗り出たとしても、簡単に渡したくはないな。飼い主の所に戻るとしても、せめてあんな状態になるような経緯を話してほしい。
「ニャア」
「っと、待たせてごめんね。早速診察始めるよ。大人しいけど、保定お願いします」
「はい」
看護師さんが子猫を押さえて、獣医師さんが聴診器を当てたり、関節を動かしたりとテキパキと身体検査を行っていく。その間も子猫は大人しく診察を受けていた。
「終わりました。念のため採血もしたいのですが」
「ニ゛ッ」
「あーした方がいいですよね。お願いします」
「ニ゛!?」
採血という言葉に過剰に反応し、嘘つき!という感じで此方を睨んでいる。
このままでは暴れかねないと思ったので、アタシが説得(猫に説得というのも変な感じだが)することにした。
「君に病気がないか調べるために、ちょっとだけ血を貰うんだ」
「シャーッ」
「嫌なのは分かるけど、もしも君が病気でこのまま放置して元気なくなっちゃうのはアタシ悲しいな」
「ニ………」
「だから君の元気のために、血をちょっとだけとらせてもらえないかな?」
「…………ニィ」
すんごく渋々と言った感じで了承してくれた。
大人しくなった子猫を看護師さんがまた保定しようとすると、急に台の上から降りてアタシ目掛けて飛び込んできた。
「わっと!」
「大丈夫ですか!?」
「は、はい」
きちっと受け止めたので特に問題はないが、今度はアタシから全く離れようとしなくなった。
「さん、そのまま抱えててもらえますか?そのうちに採血しますので」
「いいんですか?」
「私だとイヤみたいですし、さんの方がその子も安心だと思うのでいいですよ」
そんなもんか。
子猫がアタシに抱かれたまま、獣医師さんは慣れた手つきで採血をする。針が刺さったとき一瞬子猫の体が震えたが、頭を撫でるとすぐに大人しくなった。
「はい、終わりました。結果は明日には出ていますので、明日以降また来てください」
「よく頑張りましたね」
「ニャー」
「ありがとうございました」
その後の検査は何事もなく終わり、会計の時。
「やっぱり高いですね………」
「人間みたいに保険効きませんからね。それで保護だけして支払いはしない、て言う方もいらっしゃいますし」
「酷い話ですね」
「皆さんお金にはシビアですので………」
そう話す事務さんには、かなり疲労の色が見えた。苦労してるんですね。
アタシはお金がかかることは事前に知っていたし、病院に来た時も受付で説明を受けた。最近であれば少し調べればそういった情報はゴロゴロと出てくるのに、碌に調べもせず同情だけで保護しようとするのはどうかと思う。保護は悪い事ではないが、するならちゃんと責任を持ってほしい。
事務さんと会話しながら支払いを済ませ、ついでに受診予約もした。会計の詳細は言わないが少なくとも渋沢さんが飛んだ、とだけは言っておこう。
検査の結果、栄養失調ということ以外は問題なかった。因みに体の小ささから子猫だと思っていたが、被毛や歯の状態から3~4歳程度の成猫であることが分かった。妙に落ち着いていたり、人に馴れていたのはこのせいかと納得した。
とりあえず飼い主が見つかるまではうちにおいて、療養することになった。
「とりあえず、君はうちで保護することになったから。アタシは鈴、よろしく」
「ニャ!」
「ただ、アタシも日中は仕事があるからその間は君に留守番を頼みたい。できるか?」
「ミャ~、ニャ!」
「よし、いいこだ!」
こうしてこの子がうちで暮らすことになった。
事前に猫を飼っても大丈夫かと大家さんに確認して、角部屋だし入居者も少ないからよっぽど五月蠅くしなければ大丈夫、と許可をもらってる。そしてその話をしに行ったとき、何故かケージや猫砂なども大家さんからもらうことができた。大家さんも昔猫を飼っていたが、老衰で亡くなってしまったらしい。捨てるにも捨てられず取っておいてよかったと、快く譲ってくれた。
キャットフードは看護師さんからお勧めされたもので、最安値よりは高いがこの子の栄養状態を考えれば必要経費と割り切って購入したものだ。買ったばかりのエサ入れにザラザラと、まずは少量入れて様子を見る。
「ご飯だ」
「ミャ」
猫の前にエサ入れを置くと、すぐに食べ始めた。カリカリといい音をさせて、あっという間になくなってしまった。
「気にいった?」
「ニャ」
「よかった。じゃあもう少し食べるか?」
「ニャー!」
今度はカレースプーン2杯分くらいを掬っていれる。猫はすぐに食べ始めて、あっという間に皿は空っぽになった。
「ミィ」
「今はこれで終わり。後は帰ってきたら」
「ミャ」
大変聞き分けがよろしい事で。
さて、そろそろ出勤しないといけない時間だ。
「いい子で待ってるんだよ」
「ナーウ」
「行ってきます」
「ニャン」
この子のためにも少し早く帰れるよう、努力しますか。
「ほーれほれ」
「…………フニャ!」
「残念」
今は猫と遊んでいる真っ最中。
猫じゃらしを振ると、それに合わせて目と顔がせわしなく動く。時折、獲物を捕まえるかの如く飛び掛かるけど、捕らえる前にさっと動すせいでなかなか捕まえられていない。
「ふー、ちょっと休憩」
「ニャ〰〰〰〰」
暫く遊んでいたら少し疲れたので、猫と一緒に一息つく。
アタシはマグカップに入ったお茶を、猫はケージの中の水を飲む。飲み終わって少し寝っ転がっていると、アタシのお腹の上にケージから戻ってきた猫が乗っかってきた。
「ンナゥ」
「撫でてほしいって?」
「ミィ」
どうやら撫での催促に来たらしい。
頭から背中にかけてゆっくり撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。出会った頃よりも毛並みが良くなり、心なしか艶々してきた。
そろそろ保護して1か月が経ったが、飼い主からの連絡はない。動物病院の方も、この子は野良で確定だろうと言っていた。そうなれば、後は引き取ってくれる人を探すだけ。
(SNSは………なんか信用ならいないし、譲渡会か保護猫団体か)
ここは賃貸だし、大家さんから許可を取っているとはいえ元々ペットOKと謳っている所ではない。それに金銭面でも、ずっとここにおいて置ける保証はない。だからこそ、保護した時に名前を付けなかった。名前を付けてしまえば、今よりも愛着が湧いて手放せなくなってしまうから。
「ミャア」
「お、どした?」
スマホをいじりながら撫でていた猫が、急に頭をお腹に擦り付けてきた。猫が頭を擦り付けるのは、信頼や愛情、甘えを表現するものらしい。何回か擦り付けたあと、じっとこちらを見つめてきた。まるで、今まで何見てたのって言っているみたいだ。
(これは話してもいいものなのか)
何故だか分からないが、この子はアタシの言葉を理解しているような節がある。今正直に言えば、駐車の時の非ではないくらいショックを受けそうだ。だけど、いずれ知ること。それにずっと黙っていたからか、猫から少しだけ圧を感じる。
ため息をついてから体を起こして、猫を胡坐の真ん中に置く。
「君の新しい飼い主を探していたんだ」
「ミィ?」
猫は、何故?という感じで首を傾げた。
「アタシじゃ、君をずっとお世話することができないんだ。だから」
「ナァ〰〰〰ウ」
声からしてとても不服なのが伝わってきた。
「ごめん。君のためなんだ」
猫の喉を撫でる。いつもならゴロゴロと鳴る喉からは一切音が聞こえない。それどころか、そんなことで誤魔化されないぞという視線を感じる。その視線に、思わず苦笑いしてしまった。
折角、別れが辛くならないように名前を付けなかったのにな。
「ごめん」
猫の背中に、自分の顔を押し付けて謝る。猫は鳴くことも振り払う素振りもしない。なんだかそれが少しだけ嬉しくて、苦しくて、その背中に猫のように顔を擦り付けた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「ニャア!」
昨日はそのまま寝てしまったが、猫はいつの間にかアタシの腕から脱出してお腹の上で丸まって寝ていた。アタシは君の布団ではないのだが、まあいいか。
猫は昨日のことなど忘れたかのように元気だ。今朝もご飯をよく食べ、今も見送りの挨拶を元気よくしてくれている。その方がアタシも少しだけ心が軽くなるからいいけど。
少しだけモヤモヤしながらも、職場へ向かった。
「ただいま」
おかしい。声をかけてもいつもの出迎えがない。
ドタンッ
生活スペースの方から、音が聞こえる。その後に明らかに猫よりも大きな、それこそ人間のような足音。
(まさか、泥棒!?)
こんな安アパートに来ても盗む者などないだろうに。
念のため一度外に出て扉を閉める。扉の向こうからドタドタと足音が聞こえる。このまま突進でもしてくるのかと思ったが、それは動きを止めた。
「にゃーお」
……………………は?
いやちょっと待て。何で猫の鳴き声が聞こえる?
まさか今日だけで成長した?そんなはずはない、今朝は普通サイズだった。
え?は?と頭の中にハテナしかないが、この状況を把握するためには確かめる必要がある。
アタシはゆっくりと少しだけ扉を開けて、その隙間から中をのぞく。
「あっ!す」
バタンッ
疲れてるのかな。なんか猫耳が生えた人がいたぞ?
え、何?今の泥棒ってこんなことすんの?何?目的が分からないのが一番怖い。
カリカリカリ
「すず~?」
中からアタシを呼ぶ声がする。しかも爪で扉を搔いている音までしてくる。
やめろ、傷がつくだろ!
「ここ賃貸!!!」
「わっ」
「おっと」
アタシが勢いよく扉を開けると、上にTシャツだけ着た猫耳の子が倒れこんできた。咄嗟の事で避けられずそのまま受け止めてしまった。
受け止めて気づいた。この子尻尾も生えてる。
「すず!」
「え?」
「猫だよ!」
「あ?」
目の前の猫耳女は自分のことを猫と言っている。しかも昨日みたいに、アタシの体に顔を擦り付けてくる。
もしかして、本当に?
混乱する頭でもこの状況を他の人に見られるのはまずいという結論が出たので、一旦二人で家の中に入る。
「それで、君は誰?」
「ねこは猫だよ!」
「答えになってない」
何度聞いても同じ答えで、会話にならない。
このままでは堂々巡りなので、話題を変えることにした。
「君の名前は?」
「なまえ?」
「えーっと、なんて呼ばれてた?」
「皆からは”ねこだ”って呼ばれてた」
名字は猫田か。ここらへんで聞いたことはないな。
「下の名前は?」
「したのなまえ?」
「……………他にはなんて呼ばれてた?」
「他はね、”かわいい”とか”たま”とか”ちび”とか呼ばれてた。あっ!でもね、”おいしい”って呼ばれた後に鳴くとすずが笑うから、多分したのなまえは”おいしい”だよ!」
「……………………」
この子は名前のことを勘違いしている。それにこの子が名前だと思っている言葉は、全部野良猫にかけるような言葉だ。それにアタシはご飯をあげたあと、必ずおいしいかどうか猫に聞いていた気がする。それで猫がニャアと鳴いたとき、なんか嬉しくて自然と笑っていたかもしれない。
本当にこの子はアタシが拾った猫なのか?
「君はどうしてここにいたの?」
「……?すずがここに連れてきてくれたんだよ?ねこにうち来る?って言ってくれた!ねこは嬉しかった!あのままだと、ねこはいなくなっていたから」
アタシと猫が初めて会って、アタシが保護した時のことを覚えていた。動物病院で保護猫であることは話したが、こんな詳細を話したことはない。それどころか友達や同僚にも話していない。
これで確定した。この子はアタシが保護した猫だ。
………………確定したからってな〰〰〰〰!
何も解決してないし、そもそも何で猫から人になったのか全然分からん。
「何で人になったんだ?」
「んー分かんないけど、すずと一緒にいたいって思ったらなってた!」
「アタシと?」
「うん。すず、ねこが猫のままだと一緒にいれないって言った。ねこはすずと離れたくなかった」
胸がキュッとなった。
アタシのせいか。今朝いつも通りだと思っていたけど、猫なりにアタシの言葉を気にしていたんだな。
色々と分からないことはあるが、今はこの子の事だ。とりあえず名前が猫のまま、というか”おいしい”だとさすがに良くないので、名前を決めよう。
「わかった。とりあえずうちに置くから、名前を」
「やったー!」
「ぐぉっ」
途中で言葉が遮られて、猫がアタシのお腹にタックルしてきた。いや抱き着いてきたんだろうけど、勢いが良すぎて何か出るかと思った。
「やったやった!すずと一緒?」
「う、うん、一緒一緒」
「わーい!」
ああ、なんだかこれだけ喜ばれると、急に猫が人間になった事とかどうでもよくなってくるな。
「じゃあ、名前決めような」
「おいしいじゃダメなの?」
「うーん、悪い訳じゃないけど…………アタシが呼びにくいかな?」
「そうなの?じゃあすずが決めて!」
納得してくれたのか、特に分かっていないのか、猫は期待の目をこちらに向けてくる。
そんなキラキラお目目を向けられてもな。名前、名前な~。でもおいしいで嬉しそうにしてたし、理由が理由だから尊重はしたい。
「うん。君の名前はシィ、猫田シィだ」
「シィ?」
「うん。どうかな?」
シィは何度も確かめるように、自分の名前をつぶやいている。
「いい!ねこは今日からシィ!シィは猫田シィ!」
シィはぴょんぴょん飛び跳ねて、名前を連呼していた。
気にいってくれたみたいでよかった。名前も決まったし、住人が一人増えるわけだから大家さんに挨拶をしないと。
「シィ、今から大家さんのとこ行くぞ」
「おおやさん?」
「あー、このお家のボスみたいな人のとこ」
「おお!じゃあ、あいさつしないとだ!」
元が猫だからか、そういうのはしっかり分かるらしい。
おっと、その前に。
「シィ、下も履こうな」
「にゃ?」
アタシのTシャツ一枚だけはさすがにまずいだろ。耳と尻尾も隠さないとな。
「大家さん、暫くうちで預かることになった親戚の」
「猫田シィ!よろしくおねがいします!」
「おやおや、元気にどうも。私は大家の小尾矢だよ、よろしくね」
「おおや?」
「大家さんは名字が小尾矢なんだ」
アタシも最初は驚いた。まるで大家になるのが確定しているかのような名字だ。漢字とイントネーションが微妙に違うが、読みは同じだからややこしいと思ったのは内緒だ。
「おおやさん!」
「はいはい、なんでしょうかシィちゃん?」
「呼んだだけ!」
「はははっ、元気な子だね栗花落さん」
「ハハッ、そうですね」
その後、ここでの注意事項など簡単な説明を受けてから部屋に戻った。とりあえず、何事もなく受け入れられたようでよかった。
「すず、おおやさんいい人だね」
「そうだな。まあ、大らかな人だよ」
風で帽子が飛ばされて耳が見えたときは焦った。小尾矢さんから「若い子のファッションなの?可愛いね~」と流されたのでほっとしたが、これが通じるのはこの人位だろうとも思った。何にせよ今後何か対策をしないといけないな。
「すず」
「ん?」
「お腹すいた」
思い出したかのようにお腹の虫が鳴った。
そうだった、仕事から帰ってきてそのままだったんだ。シィもいるし簡単に何か作るか。
「よし、ご飯にしよう」
「わーい!」
シィは自分のエサ皿の前にスタンバイした。
「シィ、今日からアタシと同じもの食べるぞ」
「え!?」
ガーン!という効果音が聞こえそうなほどショックを受けている。
そんなに旨かったか、キャットフード。もしかして見た目が人間になっただけで、味覚は変わっていないのか?
確認のため、キャットフードを数粒とってシィにあげてみた。相変わらず、カリカリといい音をさせている。
「どうだ?」
「うーん、そんなおいしくないかも………」
どうやら味覚も人間になったらしい。シィの分だけ滅茶苦茶薄味にしなければならないとかではなくて、正直ほっとした。
「でも食べられないことはない」
「………ちゃんとご飯作るから、無理して食べなくていいぞ」
「にゃあ?」
うん、頑張って作るよ。
「ニャア」
仕事の帰り道、雨の中、路地から鳴き声が聞こえた。
反射的に其方に目を向けると、子猫と母猫が仲睦まじく寄り添っていた。母猫は此方の視線に気が付くと。
「ニャア」
と一鳴きして、子猫と共に去っていった。
その後ろ姿を見届けていると、前方から走ってくるうちの猫を見つけた。
「すず~!」
「シィ」
合羽を着て此方に走ってくるシィは、今日も元気いっぱいだ。
「おかえり!何見てたの?」
「ただいま。さっきまでそこに猫の親子がいたんだ。可愛かった~」
「ふーん」
ありゃ、ちょいとご機嫌斜め?
シィの頭を帽子越しに撫でると、ちょっとむくれた顔をこちらに向けてきた。
「シィが一番可愛いよ」
「む~」
いつもならこれで機嫌を直してくれるに、今日はまだご機嫌斜めらしい。
「シィと初めて会ったときの事、思い出してた」
「シィと?」
「うん。今日みたいに雨が降ってて、こんな路地裏だったなって」
あの時は、まさかこんなことになるとは思ってなかったけどな。
「…………そっか。すず、お家帰ろ!今日おおやさんとお菓子作ったんだ!」
「すごいじゃん!じゃあデザートに頂こうかな?」
「にゃあ!」
雨の中、拾った野良猫は機嫌よく「にゃあ」と鳴いた。
雨の日って、なんか不思議な体験ができそうな気がしませんか?




