第8話
バルコニーの手すりに立ち、私は眼下の泉を見下ろした。
月明かりの下でも分かるほど、その水はどす黒く濁り、腐敗臭がここまで漂ってきている。
あれは単なる汚れではない。
地下水脈に溜まった古い時代の怨念や、行き場を失った魔素が凝り固まった、強力な「呪い」の塊だ。
背後では、ガラス侯爵をはじめとする貴族たちが、固唾を飲んで見守っている。
彼らの視線には、期待よりも「どうせ無理だろう」という諦めや、冷ややかな嘲笑が含まれていた。
(……無理もありません。帝国の優秀な魔術師たちが匙を投げた案件ですもの)
普通の方法では浄化できない。
しかし、私には分かる。
あの呪いは、「穢れ」を引き受ける性質を持っていた私だからこそ、その構造が手に取るように理解できるのだ。
あれは解くものではない。受け入れ、光で包み込み、昇華させるものだ。
私は深く息を吸い込んだ。
へその下にある魔力の源――陛下が「神域」と評してくれた、私の内なる泉をイメージする。
ダムの決壊のように、光の奔流が体中を駆け巡る。
「……綺麗になりなさい」
呪文の詠唱はいらない。
ただ、強く願うだけ。
私が両手をかざした瞬間、体の中から溢れ出した魔力が、視界を白く染め上げた。
「――浄化」
カッ――――!!!!
夜の闇を切り裂く、太陽のような黄金の閃光が放たれた。
それは一直線に泉へと降り注ぎ、黒い水面を激しく叩いた。
ジュワアアアアッ……!!
光と闇が衝突し、激しい蒸気が立ち上る。
黒いヘドロのような呪いが、光の粒子に触れた端からシュワシュワと泡となり、天へと昇っていく。
耳障りな呪いの断末魔が聞こえた気がしたが、それもすぐに心地よい風の音へと変わった。
光の奔流は止まらない。
泉だけでなく、枯れ果てていた周囲の花壇、ひび割れた石畳、そして淀んでいた空気そのものを、圧倒的な「聖なる力」で洗い流していく。
数秒後。
光が収まり、蒸気が晴れた時。
そこに広がっていた光景に、会場中の時が止まった。
「……な、なんだこれは……!」
ガラス侯爵が、信じられないものを見るように叫んだ。
そこには、水晶のように透き通った水を湛える、美しい泉があった。
水底の白いタイルの一枚一枚までがくっきりと見え、水面は月光を反射して宝石のように輝いている。
さらに驚くべきことに、泉の周りには季節外れの薔薇や百合が一斉に咲き乱れ、芳醇な香りを漂わせていた。
ただの浄化ではない。
土地そのものの生命力を強制的に活性化させる、神の御業にも等しい奇跡だった。
「……馬鹿な。我ら宮廷魔術師団が束になっても浄化できなかった呪いを……たった一撃で?」
「しかも、無詠唱だと……?」
「あの方はいったい何者なのだ……精霊の愛し子か、あるいは女神の再来か……」
貴族たちの見る目が劇的に変わった。
疑念は消え失せ、畏怖へ。そして熱狂的な崇拝へ。
魔法を至上とする彼らにとって、これほどの圧倒的な力を見せつけられては、もはやひれ伏すという選択肢しか残されていない。
私はゆっくりと振り返った。
魔力を使いすぎて少し眩暈がしたが、背筋を伸ばして微笑んだ。
「いかがでしょうか、侯爵様。……これでもまだ、力が足りませんか?」
ガラス侯爵は、パクパクと口を開閉させた後、震える足でその場に跪いた。
ガタガタと床に頭を擦り付ける。
「……ひ、非礼をお詫びいたします、エリアナ様!! 私の目は節穴でございました!」
「侯爵様?」
「貴女様こそ、帝国の母となるにふさわしい『真なる聖女』であらせられます! ああ、なんと尊い御力……! どうかこの老骨、生涯をかけて貴女様にお仕えさせてください!」
どうやら、一番の反対派だった頑固な侯爵が、一番の熱狂的な信者になってしまったようだ。
彼につられるように、他の貴族たちも次々と跪き、「エリアナ様万歳!」「聖女様!」と賛美の声を上げ始めた。
陛下が苦笑しながら歩み寄り、私の腰を抱き寄せた。
「やれやれ。私の優秀な宰相まで奪うとは、罪な女性だ」
「あら、陛下。……合格点はいただけますか?」
「合格どころか、満点以上だ。……君の魅力が周りにバレてしまって、私は気が気じゃないがな」
彼は耳元で甘く囁き、独占するように私を強く抱きしめた。
その体温と、周囲からの祝福の拍手が、私の居場所を確かなものにしてくれた。
* * *
晩餐会は大成功に終わった。
興奮冷めやらぬ会場を後にし、私たちは誰もいないバルコニーで夜風に当たっていた。
心地よい疲労感と共に、私はかつてないほどの充実感を味わっていた。
「……夢みたいです」
ほんの十日前までは、泥にまみれて「死にたい」と思っていた私が。
今はこうして、美しいドレスを着て、愛する人の隣で笑っている。
自分の力を認められ、必要とされている。
「夢ではないさ。……これが、君が本来あるべき姿だ」
陛下が優しく私の髪を撫でる。
二人の距離が近づく。
唇が触れ合いそうになった、その時――。
バササッ!!
不吉な羽音と共に、一羽の黒い鳥が夜空を切り裂いて飛んできた。
伝令用の使い魔だ。
鳥は私の目の前の手すりに降り立つと、足に結ばれていた手紙をポロリと落とした。
その封蝋には、見覚えのある紋章が押されている。
――ルーン王国の紋章だ。
「……あ……」
一瞬で血の気が引いた。
忘れようとしていた過去が、冷たい手で足首を掴んできたような感覚。
私が動けずにいると、シルヴィス様がサッとその手紙を拾い上げた。
「見るな、エリアナ」
「で、でも……それは……」
「君を傷つけた者たちからの言葉など、読む価値もない」
彼の目は、先ほどまでの甘い色とは違い、絶対零度の殺気を放っていた。
彼は手紙を開封し、一瞥しただけで、ハッと鼻で嘲笑った。
「……ほう。随分と舐めたことを書いてくる」
「な、何と書いてあるのですか?」
「『我が国の聖女を誘拐した罪で帝国を訴える。直ちにエリアナを返還せよ。さもなくば、相応の賠償金を請求する』……だとさ」
返還。賠償金。
自分たちで「いらない」と捨てておいて。
今さら、私が役に立つと分かった途端に「返せ」だなんて。
あまりの身勝手さに、怒りよりも呆れが込み上げてきた。
だが、私以上に怒っていたのは陛下だった。
「……ゴミ屑どもが」
バリバリバリッ!!
彼が握りしめた手紙が、一瞬で凍りつき、粉々の氷屑となって夜風に散った。
周囲の空気がビリビリと震えるほどの、凄まじい怒気。
「安心しろ、エリアナ。こんな戯言、相手にする必要はない。君をあんな国に返すくらいなら、私がこの手でルーン王国を地図から消してやる」
彼は私を抱き寄せ、ルーン王国のある南の方角を睨みつけた。
「だが、私の大切な婚約者を『モノ』扱いし、侮辱した罪は重い。……どうやら、言葉で言っても分からない愚か者には、少し手荒な『教育』が必要なようだな」
その瞳は、冷徹な皇帝のそれだった。
帝国からの、徹底的な報復が始まる。
遠く離れた祖国で、彼らが犯した罪の代償を支払う時が来たのだ。




