第6話
その夜、私は悪夢を見た。
それは、何度も何度も繰り返されてきた、私の人生そのもののような記憶の再生だった。
暗い、湿った地下牢のような場所。
私は冷たい石畳の上に座り込み、ガタガタと震えていた。
目の前には、華やかなドレスを着た妹のティナと、元婚約者のギルバート殿下が立っている。
『汚い。こっちを見るな、穢らわしい』
ギルバート殿下の冷たい声が、氷の刃のように突き刺さる。
私は必死に顔を隠そうとする。右頬にある、醜く脈打つ黒い痣。それは私がベルンシュタイン家に生まれた「罪」の証であり、妹のティナが輝くための「影」だった。
『お姉様、ごめんなさいねぇ。でも、誰かがこの国の穢れを引き受けなくちゃいけないの。お姉様はそのためだけに生まれてきたんだから、感謝してちょうだい?』
ティナが鈴を転がすような声で笑う。その天使のような微笑みの裏で、彼女は私の手から婚約指輪を無理やり引き抜く。
『痛い、やめて……!』
『うるさいわね! この指輪は次期王妃である私のものよ。化け物がつけていていいものじゃないわ』
指から血が滲む。
周りを取り囲む貴族たちが、一斉に私を指差して嘲笑う。
化け物。呪われた子。国の恥さらし。
罵声の雨が降り注ぐ中、私はただ縮こまり、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
誰も助けてくれない。
父も母も、私を見ようともしない。
私は一人だ。世界中の誰からも必要とされていない、ただのゴミ捨て場だ――。
「――っ、はぁっ、はぁっ……!!」
私は弾かれたように目を覚ました。
喉が引きつり、肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。
心臓が早鐘を打ち、全身が冷たい汗でびっしょりと濡れていた。
「ゆ、め……?」
私は震える手でシーツを握りしめた。
絹の滑らかな感触。ふかふかの羽毛布団。
ここはルーン王国の冷たい地下牢ではない。隣国ガルア帝国の、安全な皇帝陛下の城だ。
分かっている。頭では分かっているのだ。
私の呪いは解け、顔の痣も消え、今は絶世の美女と呼ばれる姿になっている。
シルヴィス陛下という、世界で一番強い方が守ってくれている。
けれど、長年染み付いた恐怖は、そう簡単には消えてくれない。
ふと、窓の外で風が鳴った。
その音が、私を罵る人々の声に聞こえて、背筋が凍りついた。
(……怖い)
暗闇が怖い。静寂が怖い。
もし、これが全部夢だったら?
目が覚めたら、またあの醜い顔に戻っていて、雪山に捨てられているんじゃないか?
「うっ……うう……」
恐怖に押しつぶされそうになり、私は膝を抱えてうずくまった。
声を押し殺して泣く。誰にも気づかれないように。迷惑をかけないように。
それが、私が生きていくために身につけた処世術だったから。
その時だった。
バンッ!!
乱暴に扉が開く音が、静寂を切り裂いた。
廊下からの光が差し込み、逆光の中に長身の人影が立つ。
「エリアナ!!」
駆け込んできたのは、シルヴィス陛下だった。
いつもの完璧に整えられた姿ではない。漆黒の髪は乱れ、シルクの寝間着の上にガウンを羽織っただけの無防備な姿だ。
彼は血相を変えてベッドに近づき、震える私を見つけると、迷わず力強く抱きしめた。
「大丈夫か!? ひどくうなされていたが……!」
「へ、陛下……どうして……?」
「私の部屋は隣だ。……君の悲鳴のような魔力の波を感じて、いてもたってもいられなかった」
彼は私の背中を、壊れ物を扱うように優しく撫でた。
その大きな手の温もりが、冷え切った私の背中にじんわりと染み渡っていく。
氷の魔術師と呼ばれる彼なのに、その体温は驚くほど熱い。
「ごめんなさい、陛下……。起こしてしまいましたか……?」
「謝るな。そんなふうに震えて……怖い夢でも見たのか?」
彼の優しい問いかけに、張り詰めていた糸が切れた。
私は彼の胸に顔を埋め、堰を切ったように泣き出した。
「こ、怖かったんです……。また、あの国に捨てられる夢を……みんなに化け物と罵られて、石を投げられる夢を……っ」
「……そうか」
彼は痛ましげに眉を寄せ、抱擁の腕にさらに力を込めた。
私の涙が彼のガウンを濡らしていくが、彼は一向に気に留める様子もない。
「すまない。私がもっと早く君を見つけてやれればよかったのだが……。君が味わった孤独を思うと、胸が張り裂けそうだ」
彼の低い声が、耳元で優しく響く。
それはどんな魔法よりも強力な、安らぎの呪文だった。
「だが、もう大丈夫だ。君はここにいる。私の腕の中にいる。……誰にも君を傷つけさせない。過去の亡霊になど、渡してなるものか」
彼の言葉には、絶対的な自信と、そして深い愛情が込められていた。
その力強さに、私の震えは少しずつ収まっていった。
しばらくして、私が落ち着きを取り戻すと、陛下は少し恥ずかしそうに顔を離した。
月明かりに照らされた彼の端正な顔は、心配と安堵が入り混じった表情をしていた。
「……落ち着いたか?」
「はい……。ありがとうございます、陛下。もう大丈夫です」
私は涙を拭い、無理やり笑顔を作ろうとした。
これ以上、お忙しい陛下に迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思って、私はベッドから降りて礼をしようとした。
けれど、陛下は私の手首を掴んで引き止めた。
「嘘だな」
「え……?」
「君の目はまだ怯えている。……このまま一人にすれば、また悪夢に引きずり込まれるだろう」
彼は真剣な眼差しで私を見つめ、そして、少し躊躇いながら言った。
「……エリアナ。今夜は、私がそばにいよう」
「えっ!? そ、そんな、陛下に添い寝をしていただくなんて……!」
「勘違いするな。やましい気持ちはない。……ただ、君が安眠できるように守っていたいだけだ」
彼は耳を赤くしながらも、強引に私をベッドに戻し、自分もその隣に横たわった。
もちろん、布団の上からだが、背中に彼の体温を感じる距離だ。
「私の氷魔法で、部屋の空気を浄化しておこう。これなら悪い夢も入ってこれないはずだ」
彼が指を鳴らすと、部屋の空気がふわりと澄み渡り、ほのかな冷気と共にミントのような清涼な香りが漂った。
それは不思議と寒くはなく、むしろ精神を落ち着かせてくれる心地よい空間だった。
「……ありがとうございます、シルヴィス様」
私は自然と、彼の名を呼んでいた。
背中合わせの距離。けれど、その温もりは心臓に直接届くようだった。
「……昔、私もよく悪夢を見た」
静寂の中で、彼がポツリと語り始めた。
「幼い頃、魔力が強すぎて制御できず、城の一部を凍らせてしまったことがあってな。周りから『氷の化け物』と恐れられた。……だから、君の孤独が少しだけ分かる気がする」
「陛下にも、そんな過去が……」
「ああ。だが、今は違う。君という太陽を見つけたからな」
彼は振り返り、私の頭をそっと撫でた。
「おやすみ、エリアナ。……明日の朝、目が覚めた時も、私はここにいる。約束する」
その言葉は、何よりの救いだった。
私は彼の服の袖を少しだけ掴み、深い安心感の中で瞼を閉じた。
もう悪夢は見なかった。
ただ、温かくて優しい、銀色の光に包まれる夢を見た。
* * *
一方その頃。
エリアナを追放したルーン王国では、静かに、しかし確実に破滅の足音が近づいていた。
「きゃあああああ!!」
深夜の王宮。
聖女の私室から、絹を引き裂くような悲鳴が響き渡った。
警護の騎士や侍女たちが慌てて駆けつけると、そこには鏡の前で錯乱する聖女ティナの姿があった。
「嘘よ! 嘘よこんなの! 取れない! 洗っても洗っても取れないのよぉぉぉ!」
ティナは狂ったように自分の顔を爪で引っ掻いていた。
その白く美しい頬。
かつて国民から「天使のようだ」と称賛されたその肌に、どす黒い、腐敗したような一点の「シミ」が浮かび上がっていたのだ。
「ひ、姫様!? どうされたのですか!?」
「見ないで! 私を見ないでぇぇぇ! お姉様……そうよ、あの化け物女が呪いを置いていったのよ! 私の美しい顔を妬んで!」
ティナは叫び散らし、手当たり次第に化粧瓶を投げつけた。
彼女は気づいていなかった。
それがエリアナの呪いなどではなく、彼女自身が生まれ持った「穢れを引き寄せる体質」によるものだということを。
今までエリアナという「盾」が防いでいた世界の悪意が、今まさに彼女を蝕み始めているのだということを。
窓の外では、季節外れの嵐が吹き荒れていた。
ルーン王国の守護結界が消滅したことを知らせる、終わりの始まりの風だった。




