第2話
ふわり、と。
まるで雲の上に浮いているような、柔らかな感触に包まれて、私は意識を取り戻した。
(……温かい)
凍えるような寒さも、頬を刺すような雪の冷たさもない。
全身がポカポカとした熱に守られている。
私はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
「……ここは……?」
視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪華な天蓋付きのベッドと、高い天井だった。
壁には精緻な彫刻が施され、暖炉ではパチパチと薪が燃えている。
粗末な馬車とも、雪山とも違う。まるで王族の寝室のような部屋だ。
「気がついたか」
突然、部屋の奥から低い声が響いた。
ビクリと体を震わせて振り向くと、豪奢なソファに腰掛け、優雅に本を読んでいる一人の男性がいた。
息を呑むほどに美しい人だった。
夜空のような漆黒の髪に、氷柱のように鋭く、けれど宝石のように輝く紫紺の瞳。
整いすぎた顔立ちは、まるで神が最高傑作として彫り上げた彫刻のようだ。
全身から放たれる覇気は、彼が只者ではないことを雄弁に物語っている。
(……この方は、まさか)
隣国ガルア帝国の皇帝、シルヴィス・エルグランデ。
冷徹にして最強の魔法使い。「氷の皇帝」と恐れられるその人だ。
「あ、あの……! わ、私は……!」
私は慌てて起き上がろうとしたが、体に力が入らない。
それに、気づいてしまった。
布団から出た自分の腕が、驚くほど白く、そして滑らかであることに。
「……え?」
私は自分の手を見つめた。
いつもなら、寒さと栄養失調で荒れ、そして何より「呪いの穢れ」でどす黒く変色していたはずの肌が、今は白磁のように透き通っている。
「そこの鏡を見てみるといい」
皇帝陛下が顎でしゃくった先には、大きな姿見があった。
私はふらつく足取りでベッドを降り、鏡の前へと歩み寄った。
そこに映っていたのは――見知らぬ「絶世の美女」だった。
「……嘘……これが、私?」
腰まで流れる髪は、かつての泥のような黒色ではなく、月光を織り込んだような銀髪に変わっている。
瞳は、呪いの濁りが消え、深い森の湖のような澄んだ碧色へ。
そして何より――。
「……痣が、ない」
私の顔の半分を覆い、私を「化け物」と定義づけていたあの忌まわしい黒い痣が、綺麗さっぱり消え失せていた。
そこに残っていたのは、何の傷もない、完璧な造形の顔立ちだけ。
「それが君の本来の姿だ」
いつの間にか、シルヴィス陛下が背後に立っていた。
彼は鏡越しに私を見つめ、静かに告げた。
「君にかかっていたのは『呪い』ではない。……あれは『封印』だ。君の体内に眠る、規格外の魔力を無理やり抑え込むためのな」
「封印……? 魔力……?」
「ああ。君の魔力は、一国を支えるほどに強大だ。だが、その器に収まりきらない魔力が溢れ出し、肌を変色させていたのだろう。……愚かな話だ。その強すぎる力を『呪い』と勘違いして捨てるとはな」
彼は冷ややかな笑みを浮かべた後、ふっと表情を和らげ、私の髪に指を通した。
「国境を越えたことで、その封印の術式が切れた。……おかげで私は、雪山でとびきりの『女神』を拾うことができたわけだが」
「め、女神だなんて……!」
私は顔を真っ赤にして俯いた。
今まで「化け物」「醜い」としか言われてこなかった私に、そんな甘い言葉をかけるなんて。
彼は私の顎をそっと持ち上げ、その紫紺の瞳で射抜くように見つめた。
「美しい。……私の宮殿にあるどの美術品よりも、君の輝きは素晴らしい」
ドクン、と心臓が跳ねた。
その瞳には、侮蔑も嫌悪もない。あるのは、純粋な感嘆と、そして熱っぽい独占欲だけだった。
「……さて。話は後だ。まずは腹ごしらえをしよう」
彼が指を鳴らすと、侍女たちがワゴンを押して入ってきた。
そこに乗っていたのは、湯気を立てる温かいスープと、焼きたてのパン。
「『目覚めのスープ』だ。野菜と鶏肉をじっくり煮込み、薬草を少し加えてある。弱った体にはこれが一番だ」
彼は自らスープ皿を手に取り、スプーンで掬って、私の口元へと差し出した。
「さあ、口を開けて」
「えっ!? へ、陛下にそのようなことをさせるわけには……!」
「いいから。君の手はまだ震えているだろう? こぼしたらシーツが汚れる」
強引な理屈だったが、逆らえそうにない。
私は恐る恐る口を開けた。
温かいスープが、口の中に広がる。
野菜の甘みと、鶏の旨味。そして、とろとろに煮込まれた具材が、優しく喉を通っていく。
「……おいしい……」
思わず涙がこぼれた。
祖国では、罪人のような扱いを受け、冷えた残飯しか与えられていなかった。
こんなに温かくて、人の温もりがする料理を食べたのは、いつぶりだろうか。
「……泣くほど美味いか」
陛下は苦笑しながら、私の涙を親指で拭ってくれた。
その指先は、氷の魔術師とは思えないほど温かかった。
「もっと食べろ。君のその細すぎる体を治すのも、私の仕事だ」
「あ、ありがとうございます……」
私は言われるがままに、スープを飲み干した。
体の中から温まり、生きる力が湧いてくるのを感じた。
「君の名を聞いていなかったな」
最後の一口を食べさせた後、陛下が尋ねた。
私は姿勢を正し、かつての名乗りを上げようとして――止めた。
ベルンシュタイン公爵家のエリアナは、もう死んだのだ。
「……エリアナ、です。家名はありません。ただの、エリアナです」
「そうか。良い名だ、エリアナ」
シルヴィス陛下は満足そうに頷き、私の手を取って、その甲に口づけを落とした。
「ようこそ、我がガルア帝国へ。……君の帰る場所は、もうここしかない。私が君を、世界一幸せな女性にしてやろう」
その言葉は、まるで契約のようだった。
私は、彼の瞳から逃れられないことを悟った。
そして同時に――この人の元でなら、新しい人生を歩めるかもしれないと、そう思ったのだった。
* * *
一方その頃。
エリアナを追放したルーン王国では、異変が起き始めていた。
「きゃあああああ!!」
王宮の奥、聖女の部屋から、ティナの悲鳴が響き渡った。
駆けつけた侍女たちは、そこで信じられないものを見た。
「ひ、姫様!? そのお顔は……!?」
「嫌ぁぁぁ! 私の顔に! 私の顔に変なシミが! 取れないの! 洗っても取れないのよぉぉぉ!」
ティナの白く美しい頬に、まるで腐ったような黒い一点のシミが浮かび上がっていた。
それは、かつて姉エリアナが背負っていた「呪い」の始まりだった。




