第18話
ルーン王国の崩壊から、一ヶ月。
私の生活は、目まぐるしく変化していた。
「聖女様! こちらの農地も浄化をお願いします!」
「エリアナ様! 孤児院の子供たちが、貴女様に会いたがっています!」
「聖女様、隣国の使節団が、ぜひ貴女様の祝福を受けたいと……!」
帝国の「真なる聖女」として正式にお披露目されて以来、私のもとには国中から、いや、大陸中から依頼が殺到していた。
私の光魔法は、単なる治療や浄化にとどまらず、土地を肥沃にし、作物の成長を促進する効果があることが判明したからだ。
かつて「無能」と蔑まれていた私が、今や帝国の繁栄を支える象徴となっている。
(……嬉しい悲鳴、というやつね)
私は額の汗を拭いながら、次々と持ち込まれる書類に目を通した。
居場所があること、必要とされること。それは何よりの喜びだ。
けれど、一つだけ大きな悩みがあった。
「……シルヴィス様に、会えない」
そう。ここ数日、私は愛する婚約者の顔を見ていないのだ。
私以上に忙しいのが、他ならぬシルヴィス陛下だった。
崩壊したルーン王国の事後処理、難民の受け入れ態勢の整備、周辺諸国との外交調整……。
皇帝としての激務に加え、私たちの結婚式の準備まで自ら指揮しているらしい。
「寂しい……なんて言っていられないわね」
私は首を振り、自分を奮い立たせた。
彼が頑張っているのだから、私も自分の責務を果たさなければ。
その日の午後。
予定より早く浄化の仕事が終わった私は、少し迷った末に、陛下がいるはずの執務室へ向かうことにした。
邪魔をしてはいけない。でも、一目だけでも顔が見たい。
差し入れのクッキーと紅茶を持って、私は廊下を歩いた。
執務室の前には、近衛騎士が立っていた。
「エリアナ様! お疲れ様です!」
「お勤めご苦労さまです。……あの、陛下はいらっしゃいますか?」
「はっ! 在室しておられますが、今は来客中でして……」
騎士が言いかけた時、中から大きな笑い声が聞こえてきた。
「はっはっは! 相変わらず堅いな、シルヴィスは! もっと人生を楽しめばいいのに!」
聞き覚えのない、若く快活な男の声。
そして、陛下の氷のように冷ややかな声が続く。
「……帰れ、レオン。私は忙しい」
「つれないなぁ。せっかく同盟国のよしみで、結婚祝いを持ってきてやったのに」
レオン?
誰だろうと思っていると、扉がガチャリと開いた。
出てきたのは、燃えるような赤髪と、琥珀色の瞳を持つ派手な美青年だった。
仕立ての良い服に、ジャラジャラとした装飾品。いかにも「遊び人」といった風情だ。
「おや? ……そこにいる美しいお嬢さんは?」
男は私を見つけるなり、目を輝かせて近づいてきた。
「初めまして。……私はエリアナと申します」
「エリアナ……おお! 君が噂の聖女か! 噂以上の美人じゃないか!」
男はいきなり私の手を取り、跪いて手の甲にキスをしようとした。
「初めまして、女神様。俺はレオンハルト。南の火竜公国の第二王子だ。……ねえ、あんな氷みたいな皇帝より、情熱的な俺と遊ばない?」
「は、はあ……?」
あまりの展開に私が固まっていると、執務室の中から絶対零度の冷気が噴出した。
パキパキパキッ……!!
廊下の空気が凍りつき、レオン王子の足元に氷の棘が出現する。
「うおっ!? あぶねぇ!」
王子が飛びのくと、執務室の奥から、鬼のような形相をしたシルヴィス陛下が現れた。
その瞳は据わっており、背後には吹雪のようなオーラが見える。
「……レオン。私の婚約者に触れるなと言ったはずだが?」
「冗談だよ、冗談! ……怖いなぁ、相変わらず」
レオン王子は肩をすくめ、「じゃあまたね、美しいエリアナ嬢!」とウインクを残して去っていった。
嵐のような人だった。
「……エリアナ」
陛下が私を見た。
怒っているのかと思って身構えると、彼はため息をつき、私を執務室の中に引き入れた。
そして、扉を閉めるなり、私を強く抱きしめた。
「へ、陛下……?」
「……不足だ」
彼は私の首筋に顔を埋め、子供のように呟いた。
「エリアナ成分が不足している。……限界だ」
どうやら、怒っていたのではなく、寂しくて拗ねていたらしい。
氷の皇帝ともあろうお方が、こんなに甘えん坊だなんて。
私は愛しさがこみ上げ、彼の背中に腕を回した。
「私もです、シルヴィス様。……会いたくて、来てしまいました」
「そうか。……仕事など放り出してしまいたい」
彼は私を抱き上げたまま、執務机の椅子に座った。
つまり、私は彼の膝の上に座らされている状態だ。
机の上には、山のような書類が積まれている。
「あの、お仕事の邪魔では……」
「邪魔ではない。これが一番効率が良い『充電』だ」
彼は私の腰に手を回したまま、片手で書類にサインをし始めた。
ペンが走る音と、彼の心臓の音だけが聞こえる。
至近距離で見上げる彼の横顔は、真剣で、知的で、息を呑むほど美しい。
「……レオン王子とは、親しいのですか?」
先ほどのやり取りが気になり、私は尋ねてみた。
「腐れ縁だ。学生時代からのな。……あいつは手癖が悪い。君に近づくようなら、氷漬けにするよう忠告しておこう」
「ふふ、また嫉妬ですか?」
「当然だ。君は無自覚すぎる。……自分がどれほど魅力的か、分かっていない」
陛下はペンを置き、私の顎を指で持ち上げた。
紫紺の瞳が、熱っぽく私を捉える。
「エリアナ。……結婚式まであと少しだが、待てそうにない」
「えっ……」
「今ここで、君を食べてしまいたい」
低く甘い声と共に、唇が塞がれた。
久しぶりの口づけは、今までよりも深く、濃厚で、私の思考を一瞬で溶かしてしまった。
書類の山も、国の未来も、今はどうでもいい。
ただ、互いの体温と存在だけを感じ合う時間。
「……ん……シルヴィス、様……」
「……愛している、エリアナ。誰にも渡さない」
しばらくして唇が離れた時、私たちは二人とも顔を赤くし、荒い息を吐いていた。
「……続きは、式の夜までお預けだ」
陛下は苦しげに笑い、再び私を抱きしめた。
その温もりが、多忙な日々の疲れを癒やしてくれる。
「はい。……楽しみにしています」
執務室の窓からは、美しい夕焼けが見えた。
これから始まる結婚式、そしてパレード。
幸せな未来への階段を、私たちは一歩ずつ登っていた。
……その影で、滅びた国の亡霊たちが、最後の悪あがきを企てているとも知らずに。




