第13話
深夜。
私はふと目が覚め、水を飲むために部屋を出た。
廊下は静まり返っているが、どこか空気がざわついているような気がした。
胸騒ぎがする。
私は無意識のうちに、あの日――初めてシルヴィス陛下に力を認めてもらった、中庭の温室へと足を向けていた。
ガラス張りの温室は、月明かりを浴びて青白く光っている。
中に入ると、精霊樹の優しい香りが私を迎えてくれた。
満開の花を咲かせたその木の下に立つと、心が落ち着く。
「……やはり、気のせいだったのかしら」
私が安堵のため息をついた、その瞬間だった。
ガシャンッ!!
鋭い音と共に、温室のガラスが砕け散った。
冷たい夜風と共に、数人の黒装束の男たちが飛び込んでくる。
「だ、誰!?」
私が身構えるより早く、一人の男がフードを脱ぎ捨てた。
月光に照らされたその顔は、昼間よりもさらに憔悴し、狂気に満ちていた。
「見つけたぞ……エリアナ!」
「ギルバート殿下……!?」
まさか。
帝国の城に、しかもこんな深夜に侵入してくるなんて。
正気の沙汰ではない。
「迎えに来たぞ、我が愛しの婚約者よ! さあ、帰ろう。あの冷たい皇帝の元から、僕の腕の中へ!」
ギルバート殿下が、両手を広げて近づいてくる。
その目は焦点が定まっておらず、口元には歪んだ笑みが張り付いている。
恐怖よりも先に、生理的な嫌悪感が背筋を走った。
「……来ないでください」
私は一歩後退り、冷たく言い放った。
「不法侵入です。衛兵を呼びますわよ」
「呼べるものか! ここは結界で遮断した。誰も気づかないさ!」
殿下は勝ち誇ったように笑い、懐から魔道具を取り出した。
それは拘束用の魔法の鎖だった。
「手荒な真似はしたくないんだ。……大人しくしていれば、悪いようにはしない。国に帰ったら、一番いい部屋を用意してやる。ティナの呪いを全部吸い取って、またあの醜い顔に戻っても、僕だけは愛してやるから!」
「……ッ!」
その言葉に、私は吐き気を覚えた。
結局、彼は私を見ていない。
私を「呪いのゴミ箱」として、そして自分の所有欲を満たす道具としてしか見ていないのだ。
「……断ります」
「あ?」
「私は帰りません。あの国にも、貴方の元にも。……私の居場所はここです。シルヴィス様の隣です」
私がきっぱりと告げると、ギルバート殿下の顔が一瞬で怒鬼のように歪んだ。
「シルヴィス、シルヴィスと……! どいつもこいつもあの皇帝か! そんなにあの男がいいのか!?」
「ええ、愛していますわ。……貴方のような、自分勝手な男とは違って」
「黙れぇぇぇ!! この売女がぁ!!」
理性が弾け飛んだ殿下が、鎖を振り上げて襲いかかってきた。
護衛の騎士たちも剣を抜き、私を取り囲む。
――殺される。
昔の私なら、そう思って蹲っていただろう。
けれど、今は違う。
(……精霊樹よ。私に力を貸して)
私は目を閉じず、真っ直ぐに彼らを見据えた。
背後の精霊樹が、私の呼びかけに応えるようにザワザワと枝を揺らす。
へその下にある魔力の泉が沸騰する。
「光輝・縛鎖!」
私が叫び、手をかざした瞬間。
私の体から、そして精霊樹から、眩い黄金の光が放たれた。
光は無数の鎖の形を成し、襲いかかる男たちへと殺到する。
「な、なんだこれは!?」
「光の魔法だと!? ぐあっ!?」
騎士たちが次々と光の鎖に絡め取られ、床に縫い付けられる。
ギルバート殿下もまた、手首と足首を光に拘束され、無様に転倒した。
「ぐぅっ……! 離せ! なんだこの魔法は! 貴様、魔力がないはずじゃ……!」
「言ったでしょう? 私はもう、昔の私ではないと」
私は彼を見下ろした。
黄金の光を背負ったその姿は、彼にとって恐怖の対象でしかなかっただろう。
「くそっ、くそっ……! 覚えてろ! 僕は王太子だぞ! こんなことが許されると……!」
彼がまだ喚き散らそうとした、その時。
温室の入り口から、絶対零度の冷気が流れ込んできた。
「――ほう。私の大切な花園に、随分と汚い害虫が入り込んだものだ」
ヒュオオォォォ……!
吹雪と共に現れたのは、シルヴィス陛下だった。
彼は純白の寝間着の上に、蒼いガウンを羽織り、その手には氷の魔剣が握られている。
怒りなどという生温かいものではない。
そこにあるのは、無慈悲な処刑人の瞳だった。
「シ、シルヴィス……!」
「私の結界を破るとは褒めてやる。……だが、私の妻に刃を向けた罪は、万死に値する」
カキンッ。
彼が一歩踏み出すたびに、床が凍りついていく。
縛られた男たちの悲鳴ごと、氷が彼らを飲み込んでいく。
「ひ、ひぃぃぃ! 助けてくれ! 命令されただけなんだ!」
「足が! 足がなくなるぅぅ!」
護衛たちは一瞬で氷像と化した。
残されたのは、腰を抜かして震えるギルバートだけ。
「エ、エリアナ! 助けてくれ! 婚約者だろう!? 愛していたんだろう!?」
見苦しく命乞いをする彼に、私は冷めた目を向けた。
「さようなら、殿下。……二度と私の前に現れないで」
それが、私からの最後の言葉だった。
「終わりだ」
陛下が剣を振るう。
氷の刃が閃き、ギルバートの悲鳴と共に、彼の下半身が分厚い氷塊の中に封じ込められた。
死んではいない。だが、一生解けない氷の牢獄だ。
「……怖かったか、エリアナ」
全てが終わると、陛下は剣を消し、私を抱きしめた。
その体温に触れて初めて、自分が緊張していたことに気づいた。
「いいえ。……信じていましたから。貴方が来てくれると」
「……遅くなってすまない。だが、見事な魔法だった」
彼は私の額にキスをした。
砕け散ったガラスの破片が、月光を反射して雪のように輝いていた。
こうして、愚かな元婚約者の暴走は、あっけなく幕を閉じたのだった。




