フィオナさまは謹慎がお上手
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これを先に読んだほうがわかりやすいです。
「どうしてレナが叱られなければなりませんの?」
「お嬢様ぁ……!」
折檻の最中に乗り込んできたフィオナの背中を見ながら、レナが感動に涙ぐむ。兄は眉尻をつり上げて口を開く。
「当たり前だろう、危険な目に──」
「おかしいわ、わたくしはあんなに楽しかったのに」
「フィオナよく聞きなさい。それは庇えてない」
フィオナの兄にして長男クリスの執務室で、レナは両手に水がたっぷり入ったバケツを持って立っていた。袖からのぞく腕に筋が浮き上がっている。侍女に対してはあるまじき罰であるが、何時間もその姿勢でいて少しの震えもない腕や脚を見るにどちらかというと情状酌量のうちである。
「わかってるんだ、愚妹がきみに迷惑をかけていることはね……。ガラ殿には黙っておくから……」と遠い目をしながら、それでも父が仕事で不在のグランバートン邸を任されている身として、お咎めなしにしておくわけにいかないと彼は泣く泣くこの状態を選んだのだった。
「レナはよくやってくれましたわ」
「ああ。一方でおまえはよくやってくれてないぞ、どうして違法闘技場になんか行ったんだ」
「面白そうだからよ」
「そうだろうよ!」
兄の悲鳴にも似た返答にフィオナはにこにことしている。
「まったく……どこで知るんだろうね」
親指と中指の先で両方のこめかみをおさえて俯く。肘をついた机は紙とペンとインク瓶で散らかっている。「秘密よ」と絵画の中の精霊もかくやという笑顔を見せるフィオナをちらりと一瞥したクリスは深いため息をつき、そこに沈み込んだ。
「女は秘密の数だけ美しくなるそうですわ、お兄様」
「おまえは十分美しいじゃないか。母様にどんどん似ていく」
「あらお上手」
「いいんだそんな話はっ」
ぱっと伏せた顔を上げ、真剣な瞳でクリスは続ける。
「危ないところには行かないでくれ、フィオナ。私は心配なんだ」
ぱち、と大きな目を見開いて一度瞬きをした彼女は「ええ、わかりました」と素直に頷いた。兄が怜悧な目元でじとりと睨みつけ、そう言って何度おまえがとんでもないところに赴いたか……今回は目撃されなかったからよかったものの……とぶつぶつ恨めしげにこぼす。
「わたくしが行くのは危ないところではないもの。面白そうなところよ」
ぱんと胸を張り、堂々と言い切る。クリスにはその言葉がそれぞれ大きな文字になって顔に飛んでくるような幻覚が見え、のけ反った。
「お嬢様、若様が卒倒なさいます!」
さすがにレナも背後から口を挟む。ぴくりとも動かなかった両手のバケツが揺れた。
「あー謹慎、しばらく謹慎だもう。おとなしくしててくれ……」
背もたれにずるずると全体重を預けながら兄が言った。
その、数刻後。
「お待ちくださいお嬢様!」
「なあにレナ」
夜に似た深い青のドレスを纏った令嬢は、馬車のステップに足をかけた。いつもふわふわと揺れている薄紅色の髪はきっちりとまとめられていた。
「何ではございません……今度こそお咎めがあるかもしれませんよ」
「特等席の招待状があるのよ」
「若様が謹慎とおっしゃったではありませんかぁ」
眉を寄せ、目元をうるうるとさせた侍女の両手が宙に彷徨っている。許可なく触れられない立場の彼女の精一杯だったが、フィオナはするりと慣れた動作で乗り込んだ。
「そうよ。だから、つつしんで行動するわ」
黒いベールをふわりと持ち上げ、フィオナはにこやかに告げた。
「ほら、乗って。つまらないでしょ、ずっと部屋にいたって」
☆
始まったのは有名な古典の演目だった。
ある貴婦人に懸想した商家の男が彼女と関係を深め、彼女の結婚の話を耳にして裏切られたと逆上し、逢瀬の際に殺めてしまう悲劇だ。男は貴婦人がその結婚を望んでいなかったことを後で知って終わり、というもの。
淑女の娯楽と縁のない環境で育ち、現在も遊ぶ目的で街へ行くことが少ないレナでさえ聞いたことがあった。
魔道具で音や光の演出もある最新鋭の舞台ではあるが──グランバートンの爆弾が手放しで楽しめる内容かと問われると、レナは頷けないように思えた。
話も終盤にさしかかったころ、そんな心配とは裏腹にフィオナが輝かんばかりの笑顔で上機嫌に振り向いた。
「ねぇレナ、刺激的ねっ」
「刺激……?よくある話の運びです、が──……えっ」
限りなく小声で返事をしながら舞台へ目を向けると、鞘から剣を抜いた男が長台詞を吐いているところだった。いかにも愛憎劇の山場といった場面であったが、レナの目を引いたのは小道具だ。光を反射する銀色の刃である。
「やっぱりあれ、本物よ。すごいわ」
「ええ、それどころか相当しっかり研いであっ……いやま、まずい、っ」
彼女らと客の視線の先では、嫉妬に狂った男が今まさにその剣を振り上げたところだった。斬られるシーンなのだろう、女優は逃げるそぶりがない。レナは咄嗟に「失礼します」とフィオナのベールを丁寧かつ迅速にはぎ取る。それを身に着けながら立ち上がり、身をかがめて通路を音もなく疾走する。
「なんてものをお見せするおつもりですか!?」
──本物の血まみれの劇など、お嬢様の教育上よろしくない!
黒いベールを被ったレナが肩の高さほどの舞台に手をつき、勢いをつけてひらりと上がる。突然の乱入に観衆は目を見張った。
「だ、誰だ!?」
ギンと目つきに熱のこもった俳優がそのまま剣を振り下ろしたが、レナの回し蹴りの踵が横から平たい剣身に当たり弾かれる。一瞬の間があり、観客に少しずつどよめきが広がる。しかし、レナの背後にいる女優がそれを許さなかった。
「来て……くれたのね!アリア!」
舞台は終わらない。幕が下りるまでは、絶対に。予期せぬ事態も、主演女優の矜持と気迫も、特等席のフィオナが女神像さえ逃げ出すようなほほえみで前のめりに鑑賞している。なんと面白いことか、と新緑の瞳を爛々とさせている。遠かろうが暗かろうがレナにはその姿がわかった。
「お逃げください」
そう大声で言うと、レナは何の予兆もなくトンと一歩踏み出した。
睨みつけられた男が痺れた手のまま剣を握り直し、下から切り上げようと動く。それを軽く飛び越えると胸倉へ手を伸ばし、衣装のジャボをひっつかんだ。
「うああっ」
前につんのめった彼の背後へ軽やかに身をひるがえしたレナが、そのまま片手首を握って腰へ固めて乗り上げ、地面に伏せさせた。どんと鈍い音が響く。
思わず指から離れた武器をがしと掴むと先を男の首元に添えた。
「ま、まあっ……」
沈黙。誰もが息をのみ、静けさが首をもたげた。
「…………あ、」
ほろりと母音がこぼれる。一介の侍女は、自らが板の上にいることを思い出した。
ああわたくしは一体なにを。どうしてこんなことに。このままいけば最悪、この首の危機が迫ってくる。目元に血が集まり、薄い布の内側で涙が滲んでいく。
「は、ゃ」
「だいじょうぶよ──」
忍び声でそう聞こえた。ベールが隠した顔が上がる。
女優は信じられないと言いたげに口元をおさえるしぐさをしていたが、客からは見えない側の瞼を器用にぱちぱち、と閉じてみせた。泣きっ面のレナが首をかしげる寸前、幕がざあと音をたてて閉まった。
その瞬間なだれ込んだ裏方の男たちが、呆然とするレナの下にいる男の口をわめく前にふさぎ、連れ去る。
「ありがとう。お嬢ちゃん、お名前は?」
「……アリアです。そうおっしゃったでしょう」
「ブラボー!」
客席のほうで嬉しそうな主人の声がする。レナはぐす、とひとつ洟をすすって踵を返した。心底愉快そうに笑う令嬢の黒いレースの指先から一輪、赤いバラが飛んだ。
☆
震えているレナに手を引かれて馬車を降りると、豪奢な玄関で腕を組んだクリスが待ち構えていた。
「ただいま帰りました、お兄様」
「……おかえり。私は謹慎と言ったはずだが」
とっぷりと暮れた空と同じ色の裾をさばく。悠然と口角を上げて挨拶をすれば、真面目な兄は眉間に指先を添えつつしっかり返事をしてから本題に入った。馬車がそっと離れていく。
「ええ、ですから気をつけて品行をつつしみ、外出してまいりました」
「はあ……どこへ行ってた」
肩を落とし、諦めたのか妹と並んで歩く。
「観劇ですわ。とっても楽しゅうございました」
翌日、とある劇場の話が新聞に取り上げられた。金銭のもめごとを抱えていた男が同じ劇団所属の女優に金を積まれ、上演の最中にライバルの女優を殺害しかけたという話だ。なんと顔を隠した少女が乱入してその男を取り押さえ、礼も受け取らず去ったのだという。
「きのうは観劇したと言ったな。待ちなさいフィオナ、今日という今日は……」
グランバートン邸では、紙束を握りしめたクリスが、きゃらきゃらと無邪気に破顔して逃げる妹を大股で追いかけていた。……胸に花をさした侍女は両手のほか、頭の上にバケツが増えていた。
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