4.異常
夢喰いは焚き火の揺らめきを見つめながら、苛立ちを隠さないまま独り言を呟いていた。
「つまんない奴……ほんと、何考えてんのよ」
その時、ふと背後で何かが弾けるような音がした。
乾いた枝が踏み砕かれた音。
夢喰いがゆっくりと振り返ると、焚き火の向こう側に影が揺れていた。
人の形をしているが、まともに立っている様子ではない。
「……なぁんだ、またアリが湧いたの?」
気だるげに呟きながら、夢喰いは唇をつり上げた。
興味もない相手。けれど、このイライラのはけ口には丁度いい。
指先を軽く振ると、闇が波打つように広がり、男の視界を覆う。
その男——盗賊は、黒い幻影の中に自身の姿を見る。
血まみれの顔、真っ二つになった身体。
刹那、男は自身の「死」を見た。
「っ———!!」
幻影を見た盗賊は、錯乱し、絶叫する——はずだった。
だが、違った。
なんらかの影響で理性を失った盗賊は、幻影の恐怖を「死」だと理解することができなかった。
本能的な恐怖反応ではなく、身体がただ過剰な興奮状態にあった。
次の瞬間——
夢喰いの視界が大きく揺れた。
何かがぶつかった。猛烈な衝撃。
彼女の細い体は無防備なまま吹き飛ばされ、背後の木々へと叩きつけられる。
「ぐ……っ!!」
全身に響く、鈍い痛み。
肺の中の空気が押し出され、息が詰まる。
今、何が——?
理解が追いつかない。
自分が攻撃された? こんな下等な人間に?
「そんな……はず……ない……っ」
視界が揺れる。足元がふらつく。
殴られたことよりも、信じられないという衝撃が大きかった。
——防御魔法が、貫かれた。
生まれて初めての経験。
魔法による障壁は、感情を食べる彼女にとって絶対的な防具だった。
だが、それが破壊された。
冷や汗が滲む。
身体がうまく動かない。
魔力の流れが乱れ、戦闘用の魔法が発動できない。
普段なら指を鳴らせば生まれる闇の刃が、今はまるで機能しなかった。
「……っ」
夢喰いは足元を見た。
そこに、血走った目をした盗賊がいた。
よだれを垂らし、狂ったように笑いながら、また拳を振り上げる。
「……嘘でしょ……?」
次の一撃が、容赦なく彼女の頬を打ち抜いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
夜闇に沈む森の奥、焚き火の残骸のそばで、盗賊は息を荒げていた。
「クソ……クソッ! 何で……何で俺だけ……!」
彼は肩で息をしながら、足元に転がる仲間の骸を睨んでいた。仲間たちは次々と、あの女の前で無様に崩れ落ちた。そして、自分だけが生き残った。
それは幸運か、それとも地獄か。
鉛のように重い身体を引きずり、少しでも離れようとする。
思考がまとまらない。
異常な空腹で全身にまともに力が入らない。
夢喰いの仕業なのか、それとも――
ついに力尽き倒れ伏した視界の端、そこにひときわ黒く異様な影が揺れていた。
狂い葉。
「……こんなモン、食うわけねえだろ……」
親から何度も聞かされてきた。これを口にすれば、まともには生きられない。肉体が、精神が、そして魂すらも蝕まれる。
だが――
(このままじゃ、俺は……)
彼は恐怖に震えた。生きていたくないわけじゃない。死にたくない。何でもいい、どんな手を使ってでも。
「……くそが……っ!!」
震える指で、狂い葉の葉を千切り取る。
噛み千切った瞬間、鉄臭い血の味と青臭さが混ざり合う。
そして、
――世界が、裏返った。
――――――――――――――――――――――――――――――――
痛みと眩暈で意識が揺らぐ中、夢喰いは自身の体を覆うように影を落とすものを見た。
狂気に冒された盗賊の目は、異常な輝きを放っている。
「お前……食えるか?」
ざらついた舌が、血に濡れた歯をなぞる。
——本気で、喰われる。
直感が告げた。
夢喰いはかつて感じたことのない恐怖に全身が凍りつくのを覚えた。
震える体を動かそうとするが、四肢は鉛のように重く、力が入らない。
盗賊はゆっくりと、異様にねじれた指を夢喰いの喉元へと伸ばしていく。
「やだ……やだ……いやだ……っ……!」
声にならない声が、喉の奥からこぼれた。
「助けて……」
それは、今まで一度も口にしたことのない言葉だった。
無意識に、夢喰いは自身の意識の底から絞り出すようにその言葉を紡いでいた。
しかし——
助けなど、来るはずがない。
夢喰いは、いつだって “独り” だった。
何千年もの間、誰にも縛られず、誰にも頼らずに生きてきた。
なのに、今。
なぜ———
その言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
——痛い。
何度も、何度も、拳が振り下ろされる。
砕けた腕の骨が剥き出しになり、血が飛び散る。
それでも殴り続ける盗賊。
「ぐ……っ!」
夢喰いの意識が、薄れていく。
顔が腫れ上がり、口の中に広がる鉄の味。
何より、信じられない。
この私が、こんな奴に——。
「やめ……っ」
掠れた声で呟く。
だが、盗賊の耳には届かない。
殴られるたびに、脳が揺れる。
幻聴が聞こえる。
——「……ま!……様! ありがとうございます!」
——「貴女のおかげで、私たちは……!」
「うるさい……!」
視界が歪む。
恐怖?違う。
こんなものは、私の知る「恐怖」じゃない。
これは——絶望。
もう、終わる。
殴られ続けている自分にすら、違和感を覚えなくなる。
「たす……けて……」
それは、無意識に零れた言葉だった。
自分で言ったことすら気づかないほどに。
――――――――――――――――――――――――――――――――
無機質な巡回を続けていたゴーレム。
夜闇の中、静かに立ち止まる。
——助けて。
その声が、闇に溶け込むように届いた。
それはただの幻聴かもしれない。
いや、そんなはずがない。
感情を持たないはずの体のどこかが、わずかにざわめく。
この声は、確かに聞いたことがある。
「巫女」——
頭の奥底で、その名が浮かび上がる。
同時に、ゴーレムの体の奥に宿る魔力が、わずかに波打った。
そして。
ゴーレムの視界の片隅、遠くに灯る小さな焚き火の光。
立ち込める土埃と、微かに漂う血の匂い。
無機質な体が、まるで意志を持ったかのように 前傾する。
跳ぶ。
ゴーレムの脚部に蓄えられた魔力が、地面を強く圧する。
「……っ!!」
大地が軋み、爆発的な力が生じる。
その衝撃により、周囲の草木が根元から揺さぶられ、枯葉が舞い上がる。
ゴーレムが跳んだ。
その巨体が、まるで質量を持たないかのように宙を舞う。
凄まじい圧力が空気を裂き、
雷鳴のような音が森全体に響き渡る。
獣たちが怯え、夜の森が沈黙する。
——その全てを 意に介さず、ただ一直線に
ゴーレムは、彼女の元へ向かっていた——
――――――――――――――――――――――――――――――――
轟音が響いた。
大気が震えるほどの衝撃音が響く。
それは、大地を抉るような音。
衝撃で土が舞い上がり、木々が震える。
血まみれになり、半ば意識を手放していた夢喰いの瞳が、微かに開いた。
目の前に広がるのは、真っ黒な靄と舞い上がる土埃。
突然、それまで上にのしかかっていた盗賊の重みが、すぅっと消えた。
「……な……に……?」
夢喰いの霞む視界に、巨大な影が映る。
——ゴーレム。
夢喰いは、ぼんやりとその光景を見つめた。
盗賊は、それが何かを理解する前に、身体が宙へと舞った。
何が起きたのかすら分からぬまま、吹き飛ばされたのだ。
ゴーレムの拳が、盗賊の腹部にめり込んでいたのだ。
それは、もはや殴打とは呼べない。
圧倒的な質量の塊が、人の形をした肉を容赦なく押し潰していた。
盗賊の背骨が砕け、体液が飛び散る。
目を見開いたまま、理解の追いつかない表情を浮かべたまま、
盗賊は木々をなぎ倒しながら、はるか遠くへと飛ばされていった。
そして——
二度と、動くことはなかった。
「あ……?」
現実感がない。
あれほどの恐怖を与えた存在が、今、一撃で消え去った。
足元の大地が揺れている。
ゴーレムが、ただそこに立っているだけで、大地が軋む。
「……なんで……助けたの……?」
無意識に零れた言葉。
ゴーレムは答えない。
ただ、無言のまま夢喰いを見下ろし、また歩き出した。
「ちょっと……待ってよ……」
夢喰いは、倒れたまま、手を伸ばした。
指先が震えていた。
今まで、こんなに傷ついたことがあっただろうか?
こんなに無力だったことが?
森の闇の中、夢喰いは息を詰まらせながら、重く沈む身体を引きずるようにしてゴーレムを見上げた。
「ねえ……ゴーレム。あんた……私を助けたんでしょ?」
ゴーレムは何も答えない。
夢喰いは苛立ち、拳を握る。痛みが走る。ボロボロになった身体では、まともに動くことすらままならない。
「じゃあ、責任取りなさいよ……!」
ゴーレムは微動だにしない。
夢喰いは息を荒げながら続けた。
「あんたが助けたせいで、私はこんな状態になったんだから……! だから、面倒見なさいよ!」
しばしの沈黙。
ゴーレムの目に宿る淡い光が、かすかに揺れた。
「……村へ行くわ。」
夢喰いは淡々と告げる。
「食事が必要なの。」
ゴーレムは何も言わない。
夢喰いはニヤリと笑った。
「……人間を食べるのよ?」
ゴーレムの瞳が、微かに動いた。
「死にはしないわ。ただ、少し感情を喰らうだけ……まあ、たぶん……死なないと思うけど?」
ゆっくりと、ゴーレムは顔を向ける。
そして、ただ一言。
「――殺すな。」
夢喰いは目を見開いた。
(……は?)
ゴーレムの声は低く、揺るぎなかった。
「殺すな。」
それだけを告げると、ゴーレムは夢喰いを片手で掴み上げる。
「ちょっと……こんな……」
夢喰いが文句を言い切る前にゴーレムは夜闇の中を歩き出した。