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1.循環する通貨

「ソーシャル・エコロノミクス」と被っている部分が多いので、もう充分に理解できた、という人は読まなくても良いかもしれません。

「信用創造」を、通貨循環モデルには取り込んでいないって懸念があるのは、作者としてはアピールしたい点ですが。

 人の社会に通貨が生まれたのには、ある種の必然がありました。それは、とあるコンピュータ・シミュレーションの実験結果を観るとよく分かります。

 (複雑系入門 という本に紹介されてあります)

 コンピュータの中の仮想空間に、物々交換で成り立っている世界を作り出します。しかし、その世界では交換は中々行われません。何故なら、物々交換は、それぞれ交換に応じるモノが一致し、しかも価値が等しくなければ取引が成立しないので、とても効率が悪いからです。

 例えば、僕がお米を欲しがっているとしましょう。そして、服が余っているとします。すると、お米を手に入れる為には、服とお米を交換してくれる人を探さなくてはなりません。相手の立場では、お米が余っていて、服を欲しがっていなくてはならない。そんな都合の良い相手を見つけるのは、中々難しいと簡単に分かるでしょう。

 しかし、しばらく放置するとその仮想空間の中に面白い現象が観られるのだそうです。多くの人が欲しがるような人気のあるモノを媒介にして、交換が行われ始める。つまり、通貨のようなものが自然発生するのです(もちろん、そのモノの量も多くなければいけませんが)。これと同様の現象が、実際の人間社会の歴史上でも起こっています。人気のある生産物……、食料や家畜や金属などが、通貨のような媒介物としてまず初めに現れ、機能するようになるのです。

 しかし、これらは現代社会で言われているような通貨と同じものではありません。通貨が機能する為には、そこに価値があるという“信用”が必要です(そうでなければ、誰も生産物と交換したりしないでしょう)。しかし、この当時の媒介物は、生産物の価値そのものがそれを担っていました。つまり、食べ物の価値や、金属の価値が、そのまま通貨の価値だったのです。だから、量も制御できず、価値を安定させるのも難しい。モノの価値の象徴や経済の指標として、用いる事もできません。そして何より、それらはいずれ消費されてしまいます。

 つまり、それらは飽くまで一つの“生産物”だったのです。それが媒介の役目を果たしていただけ。通貨とは呼べません。通貨が誕生する為には、何かしらの“信用”により実際の物の価値と取引に用いられるモノの価値が乖離しなくてはなりませんでした。すなわち、価値の完全な抽象化が起こらなくてはならなかったのです(取引が成立する時点で、“価値の抽象化”は起こっています)。

 (少し難しいかもしれませんが、もう少し読み進めてもらえれば分かると思います)

 しかし、これも歴史の必然からか、通貨の萌芽となるようなものは、徐々に現れ始めます。例えば、大商人が取引を約束した証書が、通貨のように機能したり、金属的な価値の低い鋳貨(硬貨)が、国の信用によって価値が付加され、通貨のように機能したり。

 そしてそれが発展し、やがて国がその価値を認める事で取引に用いられる“通貨”が生まれるのです。

 通貨自体に価値はありません。硬貨はまだしも、お札なんてただの紙切れです。そこに価値がある、という約束事が社会の中で成立しているからこそ、通貨は通貨として機能できるのです。そして、その価値を与えているのは国です。つまり、国の“信用”こそが、通貨の実体なのです。物質的には、それは存在しません。そして、物質的には存在しないからこそ、通貨には他の生産物にはない、“消費されない”という特性が生まれたのです(もちろん、紛失したり、破損したりしてなくなる事はありますが)。

 通貨を消費する事はできません。それは交換に用いられるだけです。だから、それは世の中を循環するのです。

 ただし、通貨は何もない所を循環する訳ではありません。その通貨の循環には、何かしらの生産物が伴います。例えば、お米だとか洋服だとかパソコンだとか。それは、こう表現する事も可能でしょう。お米についての通貨の循環、洋服についての通貨の循環が、それぞれ存在している。逆を言えば、生産物は通貨にとっての循環場所だ、と表現する事が可能なのです。

 当たり前だと思う人もいるかもしれませんが、こういう当たり前の事を前提条件として演繹的に展開すると、直感的には理解できない事が分かったりするのです。

 では、もう少し踏み込んで考えてみましょうか。通貨の循環場所とは、一体どのようにして発生するのでしょうか?


 5人だけの経済社会を考えましょう。もし仮に、ここにAという生産物が一つだけだったのなら、通貨の循環も一つだけです。その生産物Aが10円で、一回に消費される量が1個だけなら、5人×10円で、50円の通貨の循環しかありません。もし通貨の循環を増やしたかったのなら、(生産物Aの単位時間当たりの需要限界が1だとした場合)新たな生産物を誕生させるしかないのですが、5人が全て生産物Aを作っていたのなら、それはできません。つまり、人手を余らせなくてはならないのです。

 その為には生産効率を向上させる必要があります。

 現実世界で考えるのなら、例えば、農業技術の発展によって、多く食料を得られるようになるといったような事ですね。

 さて。では、生産物Aに対する生産効率が向上したとしましょう。1人だけで、Aを5人分生産できるようになったとします。普通の経済で考えるのなら、4人が失業者になった状態ですね。つまり不景気です。放っておけば、1人しか生産物Aを消費できず、経済は萎縮してしまいます。しかし、その余った労働力を、何か別の生産物の生産に使ったのなら、経済は発展をします。そこに新たな通貨循環が生まれるからです。仮にそれを生産物Bとしてみましょう。

 この生産物Bを4人が5人分生産し始めたとします。4人も必要という事は、生産物Aに比べて生産物Bは生産効率は悪い事になります。もし、この社会が平等な社会ならば、生産物Bは生産物Aよりも高くなります。平等な社会を想定すると、価格は40円となります。

 これを現実世界に当て嵌めるのなら、工場などによって大量生産が可能な生産物は価格が安くなるが、手作りで生産しているような少量しか生産できない生産物は、価格が高くなってしまう、という事です。

 さて。生産物A、Bにそれぞれ通貨の循環が存在しているのだから、生産物が増える事で、当然、通貨の循環量は増えます。これは、経済が発展したと表現できます。

 つまり、経済の発展とは、“通貨の循環場所”が増える事だ、と表現できます(もちろん、一つの生産物であったとしても、生産量が増えれば通貨の循環量は増えます。ただし、一つの生産物に対しての需要量には限界があるので、生産物の種類が増えなくては、結局経済は発展しないと言えるでしょう。冷蔵庫を五個も六個も欲しがる人などいないのですから)。

 歴史に照らしても、これは容易に理解できます。工場の登場によって、生産効率が向上すると、それによって、様々な生産物が誕生をし続けてきました。電話、自転車、車、冷蔵庫、洗濯機… と。そして、それに伴い経済は発展をし続けたのです。

 では、この極限はどうなるのでしょうか?

 今まで説明してきたモデルを、自分は通貨循環モデルと呼んでいるのですが、このモデル上で設定できる極限は、2つあります。一つは、生産効率上昇の限界。生産効率が向上しなくなれば、もう労働力を余らせる事はできなくなり、経済成長は止まります。もう一つは、生産物種類増加の限界。新たな生産物が誕生しなくなれば、同じように経済成長は止まってしまいます。いえ、それだけではありません。もし仮に生産効率上昇だけが起こり、新たな生産物の誕生が起こらなかったのなら、失業者は余り続ける事になります。これは言うまでもなく不景気です。

 先のモデルで説明すると、生産物Aの生産が1人で可能になり、4人が失業者になってしまった状態ですね。

 こうなると、当然、通貨の循環量は減ります。それどころか、それは経済の更なる萎縮をもたらします。失業者になってしまった人は、生産物を買えなくなってしまう。するとその事によって、消費量が減るのです。消費量が減ると、また失業者を生みます。これを繰り返せば、経済は萎縮をし続け、やがては恐慌状態に至ります。

 いわゆる、デフレスパイラルという現象ですね。

 さて。

 もちろん完全な極限状態ではありませんが、今(2009年12月)の社会は、この状態に近いと予想できます。

 つまり、生産効率が上昇し、労働力が余っているのにも拘らず、新たな生産物が誕生せず、経済の萎縮が続いている状態です。

 証拠はあります。

 まず、十年以上前から、失業率がずっと高い水準になっている。しかも、これは日本だけでなく、世界中に観られるのです。

 次に、投資先がない。投資は新たな生産物を産み出す際に必要なものですが、その投資先がない為、各金融機関が国債を買うという状態が日本では続いています。また、投資先がないという事は、通貨が余るという事ですが、その余った通貨によって、ギャンブル的な金融経済が膨張してしまいました(それが新たな問題を生んでもいます)。

 更に、ここ数十年で国は、たくさんの公共事業などを行い、民間の需要増加を刺激してきたにも拘らず、景気は回復しませんでした。これは、社会が新たな生産物の誕生が起こり難い状態に至っているから、と考えるのが適切であるように思われます。


 さて。ただし、“新たな生産物の誕生が起こり難い”と言っても、原因は様々でしょう。資源不足、技術の限界、そして需要が飽和状態を迎えている、などといった要因が考えられます。そして恐らく、今回の原因は“需要が飽和状態を迎えている”です。

 言うまでもなく、資源はまだありますし技術力も様々に発展をし続けています。需要さえあれば、流通する商品はたくさんある。

 もちろん、この状態に対して、国は何もしてこなかった訳ではありません。しかし、国の執ってきた対策は、以上の事柄を踏まえると問題点だらけだった事が分かります。

 では、まず、国が執って来た対策から説明しましょう。

 基本的に国が執った方法は、通貨を民間に供給して、民間需要を喚起する、というものです。

 例えば、減税、(借金による)公共事業、(日本銀行による)金融緩和政策。この内、今回は特に代表的な経済政策の、公共事業に注目したいと思います。

 まず、国は国債というものを発行して、民間から借金をする事で、公共事業を行います。その公共事業で仕事を作り、民間に通貨を供給する、のですね。しかし、これは借金によって行われているので、当然、行い続ければ借金は増え続けます。そして、実際に(公共事業だけが原因ではありませんが)今の国は膨大な借金を抱えています。

 問題点は、借金ばかりではありません。

 国が借金をする、という事は、その分だけ金融機関にある通貨が減る、のです。すると、当然、民間が資金を借り難くなる(ただ、前に述べた要因で、良好な投資先があまりない上に、日本銀行が、金融機関に通貨を供給し続けているので、この効果がどれほどなのかは分からないのですが)。また、公共事業には利権が多く絡みます。自己利益の為に官僚や政治家が民間と繋がって、これを利用し、莫大な無駄遣いが行われるようになってしまいました。しかも、それは正のフィードバックによって、酷くなり続けたのです(この点に関しては、次の章でより詳細に述べたいと思います)。

 もしも、需要が飽和状態を迎えているのであれば、いくら通貨をばらまいても、需要が喚起されるはずはありません(充分にインフラが整っている状態では、より顕著です)。それは、一時的な効果で終わってしまいます。不景気を打開するには、“通貨の循環場所”を増やさなくてはならないのですが、しかし、その認識が国にはなかったのです。

 だから、借金をし続け、公共事業を行い続けた。効果がなかったにも拘らず、その事実を無視して。

 この問題には、権力も絡んでいますが、どうすれば良いのか分からなかったというのも事実なのでしょう。

 もしも、景気を回復させたかったのなら、新しい生産物を誕生させ、“通貨の循環場所”を作らなければならない。そして、前述しましたが、それに必要なのは“需要”を創造する事です。

 そして、“需要”はこのようにして、簡単に創造する事ができます。

 新たな公共料金(実は、増税でも良いのですが、問題点が多いので避けるべきでしょう)を作って、それを福祉や環境問題対策などの新たな生産物に当てる。もちろん、その公共料金分の支出が増えますが、収入もその分増えるので、所得格差にだけ配慮すれば大きな問題はありません。

 具体的には、このような事です。


 太陽電池設置に関する料金の支払いを、公共料金として法律で義務付けます。

 初めの一回は、その料金は通貨を発行して賄い(新たに登場する生産物、それによって増える通貨循環分ならば、通貨を発行してもインフレにはなりません)、二回目以降は料金を取ります。

 低所得者には負担が大きくなるので、免除するべきでしょう。

 仮に、1人年に一万円払うとすると、約1兆円、通貨の循環が生まれます。

 (当然、GDPは、その分増加します)。

 個人の支出が増しますが、収入がその分増えるので大きな問題にはなりません。言うまでもなく、“通貨の循環”が生まれているからですね。

 (不景気で、経済が萎縮してしまった状況の場合、収入が増える量の方が多くなるでしょう)。

 1人の平均年収を、500万円にすると、これで20万人分の雇用を創出できます。

 これは直接の効果ですが、波及効果も見込むと更にプラスになります。

 もちろん、大雑把な計算ですが。

 この方法なら、財政悪化させる事なく、景気回復が可能です。もちろん、景気が回復すれば税収も増えるので、それによって財政赤字も改善できます。

 ただし、この方法は通貨の循環がスムーズに行われなければ使えません。つまり、循環が阻害されていた場合、効果が薄いか失敗してしまう可能性もあるのです。例えば、官僚や政治家などの権力者の許に、過剰に通貨が集中したりすれば、循環は阻害されてしまいます。そして今(2009年12月)の世の中には、この懸念が大きいのです。


 さて。

 通貨循環モデルを使って述べてきましたが、実はこの通貨循環モデルには、金融経済を取り込んでいません。基本的には、それでも問題ないと自分は判断しています。これまで出してきた結論は、大きくは揺るがないだろうと考えているのです(と言っても、短期間に注目すると、その影響も無視できないのですが)。しかし、一つだけ懸念があります。

 それは“通貨の信用創造”を、取り込んでいない事です。

 通貨の信用創造とは、誰かが銀行から借りた通貨を、銀行に預ける。すると、銀行はその預かった通貨を、また誰かに貸し出す。すると、またその誰かは銀行に預ける… といったプロセスを経て、通貨が実際の供給量よりも膨らんでいく現象をいいます。

 この効果は、無視する訳にはいきません。致命的な問題にはならないかもしれませんが、考慮しなくてはならないでしょう。

 (因みに、国家破産すると、この信用創造によって膨らんでいた通貨が、収縮してしまいます)


 次は、古くから人間社会に付き纏ってきた問題、“権力の集中”を、複雑系科学の視点から説明したいと思います。

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