14 亡国の歌
ザーガード帝国城塞都市アスロ
アスロは、東にゲルドリッチ王国、北にグリュードベル王国があり両国の抑えとして築かれた城塞都市であった。幾重にも張り巡らされた城壁は高く厚く、複雑な構造をしており、ジパニア大陸においても屈指の堅牢さを誇っていた。最外郭の城壁には無数の大砲が設置され、これを守る領主のオズベルト辺境伯の兵は屈強で、未だ陥落したことのない難攻不落の要塞都市であった。
ザーガード帝国では、極ありふれた小さな事件がこの街中で起こった。
強い日差しの照り付ける昼過ぎのことである。女の子とその母親が笑顔で話をしながら、人通りの多い石畳を歩いていた。女の子の名はリカ、母親もザーガード帝国の準市民のハナである。リカは、今日が7歳の誕生日で、母のハナが貧しい家計をやり繰りしながら貯めた金で、通りの先の屋台で木製の赤い櫛を誕生祝に買ってもらったのだ。そこに2頭立ての豪華な馬車が通りかかった。ハナとリカは道を譲った。
馬車が止まると貴族のクーズハルトと護衛の2人が降りて来た。ハナとリカは道の脇まで下がり平伏していた。クーズハルトはオズベルト辺境伯の甥であった。酒に酔っており、おぼつか無い足取で何かを指さしながら近づいて来た。道行く人々は、巻き込まれては災難だと知らぬ振りをしていた。
ふらつき、奇声を上げながら歩いて来たクーズハルトの膝がリカの肩に当たった。その衝撃で思わずリカは、手に持った赤い櫛を落とした。
「んんん、・・・卑しい身分でありながら、こんなものまで買える金があるのか。まだまだ税をむしり取れるな。がははははは」
などと大声で護衛の2人に向かって叫んだ。
「お許しくださいませ。今日はこの子の誕生日なので、精一杯の祝いの品としてこの櫛を買いました。お見逃しくださいませ」
ハナは石畳に額を付けて申し開きをしていた。
「誰が俺に話しかけてもよいと言った。アァーッ」
クーズハルトは母親の頭をいきなり蹴り上げた。母親はそのまま後ろに跳ね上がり、壁に後頭部を打ち付けた。辺りに低く鈍い音が響いた。母親は、白目を剥き出したまま壁からずり落ちるように崩れる。壁には血の跡がこびりついていた。
「いやー、お母さんしっかりして。お母さん、お母さん」
母親の体を揺すりながら叫ぶリカの声に、道行く人々も集まって来た。1人の男がリカに駆け寄り、
「お嬢ちゃん、母さんの怪我の状態を見せてくれ・・・こ、これは・・・」
取り囲むように集まった人々が騒めく。
「なんだなんだお前たちは。俺はオズベルト辺境伯の甥、貴族のクーズハルト様だ。文句のあるやつは言ってみろ」
集まって来た人々は沈黙したまま、石畳を見た。
「けっ、クズめ。酒が冷める、行くぞ」
クーズハルトはそう言うと、護衛と共に馬車に向かって歩き始めた。
「お母さんが動かないの。その馬車でお医者様のところまで連れて行ってください」
リカが叫んだ。クーズハルトは歩みを止め、1呼吸置いてから振り返った。
「今、何と言った・・・俺に命令をするのか・・・何だその反抗的な眼は」
クーズハルトが準市民である7歳のリカを殴りつけた。
「止めてください」
身を挺して庇う男の子がいた。身なりが粗末で一目で奴隷だと分かった。たまたま一部始終を見ていた奴隷の男の子が、目に涙を浮かべリカを庇ったのだ。
「卑しい身分のくせに俺に命じるとは・・・斬れ」
護衛の兵士2人が剣を抜いた。
「お止めください。まだ幼い子です」
止めに入った中年の男性を護衛が斬りつけた。その中年の男性はその場で血を流し倒れた。
「・・・・」
「・・・・・何てことを」
命を命とも思わぬ、余りにも理不尽な仕打ちに周りにいた人々の拳が震えている。
「・・・・うぁーーー!」
その場にいた1人の男が雄叫び声を上げた。男の声は石畳に木霊した。その男は雄叫びを上げながら護衛に殴りかかった。下を向く傍観者であった人々も叫び声を上げて、次々に護衛に襲い掛かる。2人の護衛はその場で多勢に飲み込まれる。逃げようとしたクーズハルトも捕まり殴り飛ばされた。石畳に倒れたクーズハルトを囲んだ人の群れは、手を止めることなく殴る蹴るを繰り返した。
この騒ぎに駆け付けた警備兵たちが剣を抜き、人々に斬りかかる。日頃から溜まっていた権力者への鬱憤、失われている人権と貧困への怒りが渦巻き、一気に爆発した。怒りが暴力を呼び、激しい雄叫びと共に街は暴徒の渦となった。塞都市アスロの兵士たちが集まり、素手の市民や準市民、奴隷たちを切り倒して行った。2時間後には、屈強な兵士たちによって、暴動は鎮圧された。街中は多数の死体が横たわり、凄惨な事件であったことを物語っていた。暴動を遠巻きに観ていた多くの市民たちは、逮捕された市民を殴りつける兵士たちをじっと見つめていた。
兵士に逮捕された市民と準市民、奴隷たちは合わせて5000人を超えた。逮捕された者たちは、街の中央にある高い城壁に囲まれた広場に集められていた。数日後には、その一族と近隣住民も同罪となり極刑にされるはずである。
城壁に囲まれた広場にロープで拘束されたたまま座る市民と準市民、奴隷たちは、無表情で沈黙したままであった。生きることを諦めた表情に見えた。オズベルト辺境伯が、審議のない形式だけの裁判を開き、
「この者たち全てを国家反逆罪と貴族不敬罪で、有罪。即刻公開処刑と致す」
と、罪状と判決を言い渡した。囚われた市民と準市民、奴隷たちは、この判決を拘束されたまま無表情で聞いていた。城壁外にいる市民も巻き添えを恐れて沈黙を守っていた。
兵士たちが剣を抜いた。その剣は日の光で冷たい銀色に輝いていた。城壁内は、緊張と静寂に包まれた。城壁外にいる市民もこのただならぬ静寂を感じ、息を飲んだ。
オズベルト辺境伯と側近たちは、これから起こる惨劇に笑みを浮かべて眺めていた。
「明快なご採決に感服いたします、今後の見せしめになりますな」
オズベルト辺境伯に側近の一人が耳元で囁いた。
その時、奴隷の1人がよく響く声で歌い始めた。透き通った声は、静寂の城壁内外に響き渡った。その歌は、ザーガード帝国に滅ぼされた祖国の唄を奏でていた。亡き祖国への望郷の念と悲哀を感じる歌は1人、また1人と口々に広がり、ついには、その場で処刑を待つ全ての人々の口が歌った。歌は滅ぼされたいくつもの国の歌を順に歌っていったのだ。祖国の歌を歌う市民に恐怖の色は見えなかった。
剣を構えた兵の歩みが止まった。兵士たちはキョロキョロと辺りを見回す。城壁の外に詰めかけた市民と準市民、奴隷たちが一斉に歌い始めたのだ。城壁が内と外から聞こえる数万人の歌声で揺れた。歌に合わせて踏み鳴らす足音で、地面がズシン、ズシンと地響きを起こす。
これに動揺を隠せないオズベルト辺境伯が兵士に叫ぶ。
「何をしておる。早く首を刎ねろ」
剣を構えた兵士たちは、かつての同郷の囚人たち1人ひとりの顔を見て躊躇う。城門の扉が開き、城門外から祖国の歌と共に市民が雪崩れ込んで来た。祖国を滅ぼされた準市民の兵士が城門の扉を開けたのだ。四方の扉は次々に開けられていく。
「何をもたもたしておる。奴等を切り伏せろ」
オズベルト辺境伯は立ち上がって、悲鳴のように叫んだ。
「・・・今、聴こえている歌が、ザーガード帝国に滅ぼされた我が祖国の歌です」
オズベルト辺境伯が振り向いて、そう言った兵士の顔を見た。兵士の眼は怒りに満ちていた。その兵士の剣が舞い、オズベルト辺境伯の首が飛んだ。
ザーガード帝国の要、城塞都市アスロでの市民蜂起の報は、稲光のように瞬く間に国中に知れ渡ることとなった。貴族と市民、準市民、奴隷たちと、立場でその思惑は異なるものの強烈な衝撃を与えた。
城塞都市アスロから市民、準市民、奴隷、兵士などが、今は無き祖国の歌を高らかに歌いながら、帝都ビューヒルトに向かって行軍していた。その途中、途中の街で更にその数を増していき、大軍が合流し、既に数十万を超えていた。
城塞都市アスロでの市民蜂起の報が、ザーガード帝国帝都ビューヒルトに届いた。
内務大臣ロクデルは、エンペラードⅡ世の寝室に入り、急ぎ報告をした。内務大臣ロクデルはエンペラードⅡ世の側近としてその地位を利用し、貴族たちから莫大な賄賂を受け取り、不正に私腹を肥やしている1人であった。
睡眠を邪魔されたエンペラードⅡ世は、その肥大化した巨体の半身を不機嫌そうにベットから起こし、
「虫けらの蜂起などで、何たる騒ぎだ。朕の安らかな眠りを妨げるなと言っているであろうが、馬鹿者が」
と、一喝した。
「しかし、陛下。蜂起した市民は祖国の歌を歌いながらその数を増しています」
「どこぞの領主の兵を向けろ。皆殺しにすれば済むことだ」
「陛下、もう向かわせる領主の兵がおりません。蜂起はザーガード帝国全ての領を飲み込み、この帝都ビューヒルトに迫っています」
「な、なんだとー。お、お前だ。ロクデル、お前を反乱軍討伐総指揮官に任命する。お前が何とかしろ」
エンペラードⅡ世は狼狽えた。
「この国には、私が指揮する兵はおりません。いえ、陛下がお命じできる兵は、最早おりません」
部屋の窓から群衆の歌声が聞こえてきた。歌声は次第に大きくなり、この宮廷に迫ってきていることが窺えた。エンペラードⅡ世は耳を両手で覆い、その肥大化した巨体は細かく震えていた。
その時、部屋の扉が開いた。投獄していた息子のガブリエルと兵の一団が足音と共に入って来た。
「おぉ、我が息子、ガブリエルよ。何をしておった、遅かったではないか。今、朕は危機にある。父を救うのだ」
エンペラードⅡ世はすがるような眼をしてガブリエルに命じた。
「父上、私が悪法を廃止するように進言したことをお忘れか。そして、父上は、その事で私を投獄していたことをお忘れか」
「・・・そうであった。よう諌言をしてくれた。朕は眼が醒めたぞ。ささ、お前を反乱軍討伐総指揮官に任命する。卑しき奴等を討伐してこい」
「・・・・全てがもう遅いのです。ご自害くだされ」
「朕は皇帝じゃぞ。朕の命を救うのだ。父の命を救え」
エンペラードⅡ世は、わめき散らした。
ガブリエルは抜いていた剣を背中に回し、最後の礼儀をもってエンペラードⅡ世に歩み寄った。ガブリエルが目で合図を送ると、兵士たちはエンペラードⅡ世を押さえつけた。
「な、何をするか、朕は皇帝エンペラードⅡ世であるぞ。その手を放さんか」
ガブリエルはエンペラードⅡ世の手に剣の上に置く。
「なんじゃ、この剣は・・・」
ガブリエルは哀れな皇帝の眼を黙って見る。
「ご自害を」
「嫌じゃー。朕は死にとうないー」
「ご免」
ガブリエルは、エンペラードⅡ世の手を剣の上に乗せると、その手を握って喉を突いた。
「・・・皇帝エンペラードⅡ世はご自害なさった。皇帝らしい誠に立派な最後であらせられた」
ガブリエルはそう厳命した。その場にいた兵士たちは、姿勢を正し、はっ、と声を発した。
ガブリエルは、ゆっくりと内務大臣ロクデルを見た。
「ひぃ・・・お、お助けください。ガブリエル様」
ガブリエルは無慈悲な眼で兵に命じた。剣を手にした兵が近づき、内務大臣ロクデルはその場で斬られた。
ガブリエルは、王宮のテラスに立ち群衆に向かい叫んだ。
「我はエンペラードⅡ世の子、ガブリエル。皆と話がしたい」
群衆が歌う祖国の歌も徐々に途切れ、視線がガブリエルに注がれていく。
「ガブリエル様が、我らと話をしたいとおっしゃっているぞ」
「我らのことを思い、投獄されていたガブリエル様のお言葉だ」
「皆のもの静かにしろー」
群衆の歌が消え、静かな視線がガブリエルに集まった。そこでガブリエルが群衆に語った。
その内容は、
皇帝エンペラードⅡ世の自死。2週間後に帝位をガブリエルが継ぐことを述べた。ガブリエルが正式に皇帝となった際には、厳しい身分制度を改めること、魔族との関係を絶ち、近隣諸国との友好を推進していくこと、それに伴い生贄を根絶することの公約であった。
ガブリエルを見つめる群衆は、手にした農具や剣を地に放した。
ここにリカ親子を発端とした民衆の蜂起は、エンペラードⅡ世の自死と次期皇帝のガブリエルの公約によって収束した。
ガブリエルは、帝位継承前ではあったが、魔族の侵攻の脅威を軽減するために、ローデン王国を初めとする近隣諸国との和平と軍事同盟を推進していくことを急ぎ、準備に奔走した。
厳しい身分制度の改正は、幾つかの障害があった。市民の階級制や奴隷制度によって既得権のある旧体制派の貴族の反対が大きかったのだ。ガブリエルは、味方に付きそうな貴族を説得し支持を固めていった。
同時に、ザーカード帝国への不信を募らせる民には、その身分によらず避難民として国外に出ることを許可したのだ。これによって、市民50万、被征服者の準市民40万、奴隷15万人の内、市民1万、準市民13万、奴隷14.5万人が近隣諸国に流出して行った。現在も、難民の避難はその数を増やしている。ガブリエルは、受け入れた諸国に対し莫大な補償金を支払った。近隣諸国からの非難はあったものの、人権尊重の大義名分と莫大な補償金を手にして、受け入れる諸国は複数に及んだ。
この施策により、既得権益を損なわれた旧体制派の貴族たちからの反対が表面化し、国家を二分する政争へと発展して行った。急進的なガブリエルを支持する勢力は、一部の貴族と熱狂的な民衆の支持に依るものであった。
ガブリエルがガブリエルⅠ世として、ザーガード帝国の皇帝に即位した。
ガブリエルⅠ世は、民衆に歓喜をもって歓迎された。各地の街では祭りが開催され、市民は笑顔を取り戻していた。
皇帝ガブリエルⅠ世自身も、それを支持する一部の貴族も、ガブリエルⅠ世を熱烈に支持する民衆も、この帝国の明るい未来を夢見ていた。新しく生まれ変わるこの国に希望を抱き、共に国を創って行こうとする気概に満ちていた。
即位後3日でガブリエルは崩御した。死因は心臓発作と発表されたが、貴族や民衆の間では、その死への疑惑が囁かれていた。
新皇帝には、旧体制派の貴族の支持によって、エンペラードⅡ世の実弟であり、辺境の片田舎で余生を楽しんでいたウィードⅠ世が即位した




