第4章 お前はクロー
第4章 お前はクロー
腹が満たされれば気力も戻る。黒の神書を手に取って、
「黒の神書。お前、俺の声が聴こえているんだよな。だったら、これからはこの世界で生きる俺のパートナーだ。だから名前で呼ぶ。・・・・名前、そうだな、・・・・クロー。お前はクローだ。いいな。それから俺の目的は変更だ。元の世界に戻れないのだからな。目的 元の生活を取り戻すは取り消しだ。新しい目的は・・・・」
ダイチは目的を考える中で一つのことが引っかかっていた。昨日の「俺の教え子たちは元の世界にいるのかどうかを示せ」という問いに回答のなかったことだ。なぜ回答がなかったのか、問いの仕方に間違いはなかったはずだ。
右に左にうろうろ歩き出した。ダイチが思案しているときの癖だ。立ち止まって突然クローの裏表紙を開いた。
「あ、そうか。クローの裏表紙には、まず目的がある。その下に目標だ。所有者の目的を達成するために目標が存在するんだ。つまり目的を達成するために、目標がいくつか設定できて、その目標を一つひとつ達成していくことによって、目的の達成に近づくという考え方か。そう考えると、『俺の教え子たちは元の世界にいるのかどうかを示せ』は、俺にとっていくら切実な心配事であっても、『目的の元の生活を取り戻す』の達成には無関係だ。だから回答なしということなのか。この推測はかなりいいと思う。となると目的をよく考えなくては目標設定にも大きく影響をする」
また右に左にうろうろ歩き出した。
目的って人生の全てを費やして達成できるような「人としての生き方」、「理想の姿」、「成し遂げたい夢」になるのだろうな。むー。この世界のことは知らないことばかりなので、成し遂げたい夢は難しいな。オーク兵がいて、恐らく魔物もいる弱肉強食の世界で生き抜くこと、今はまだこれを目的でいいかな。
「クロー、待たせたな。俺の目的を変更する」
クロ―に手を置くと、
「この世界で逞しく生きる」
と、高らかに宣言をした。
クロ―のハードカバーの裏には、
目的
この世界で逞しく生きる
目標
1.状況を把握すること
に変わっていた。俺の決意が示された。
俺は、握り拳をつくり、右手を高く挙げていた。
不思議なものだ「この世界で逞しく生きる」と目的を宣言しただけで、生きる勇気が湧いてくる。色のない世界に淡い色が付たように見えた。
その時、ドガガガガーン、バキバキバキ、ドッボーンと、上流の対岸にある河原の近くで大きな音が響いた。その音に驚き本能的にクローを手に持ったまま近くにあった赤い大きな岩陰に身を隠した。
魔物が組み合ったまま森から斜面を滑り落ちてきたようだ。2匹の魔物は睨み合ったまま、少しずつ対岸の河原へと移動していった。1匹は赤い熊に似た魔物だが、遠目からでもサイズが大きい、そして角のようなものが五本、背中に生えていた。もう1匹は鹿のような四足に人のような上半身がついている。その顔は人間のものではなく鹿に似ているが牙のような歯が見えた。まるでミノタウルスだ。体長は3メートルくらいか。手には弓をもっていた。ミノタウルスは既に河原に上がり、熊の魔物は河原近くの水辺にいて、足の半分程が水の中にあった。2匹の魔物は身を低くして睨み合っていた。
熊の魔物が前足をあげて仁王立ち、
グワァァァァァッー
と、森にも響く鳴き声を上げて威嚇する。4メートル近い大きさだ。ミノタウルスは、仁王立ちした熊の魔物に向かって素早く弓を引き、矢を射った。しかも連射だった。矢は熊の魔物の胸と右肩に命中した。悲鳴に近い叫び声を上げたが、牙を剥きながら突進する。ミノタウルスは更に連射した。矢は熊の魔物の左前足に突き刺さった。もう1本の矢は額の横に当たったが、向きを変えて後ろに跳ねて飛んだ。熊の魔物は怯まず突進している。大きな音とともに衝突し、2匹はもつれ合ったまま倒れた。熊の魔物がミノタウルスの上になって牙を剥く。熊の魔物のガル、ガルという唸り声が響く。ミノタウルスは弓を持った左手を熊の魔物の口に当てて牙を避けている。
その弓が折れた瞬間、鋭い牙がミノタウルスの首元に食い込む。熊の魔物はミノタウルスの首をくわえたまま頭を激しく左右に振っている。
ギキュー!
と、ミノタウルスは甲高い断末魔を上げて動かなくなった。熊の魔物は、
グワァァァァァッー
と、勝利の雄叫びを上げた。
ダイチは、50メートル程離れた対岸の河原で繰り広げられた2匹の死闘を、岩陰で息を殺すようにして見ていた。熊の魔物は既に肉塊となったミノタウルスの首をくわえたまま、こちらに顔を向けた。熊の魔物の赤い眼と俺の眼があった。
「俺に気付いている」
と、悟った。全身が凍り付くような恐怖に震える。
「うぐっ」
思わず口を押え、赤い大きな岩に背からもたれかかるように身を潜めた。心臓の鼓動が速くなる。動けない、呼吸すら忘れている。
無力
熊の魔物がミノタウルスを引きずりながら森に続く斜面を登るたびに、ガサガサ、パキパキと小枝を揺らす音がダイチの耳を支配する。この音は永遠に続くかのように感じていた。
森に1匹の魔物と一つの肉塊が消えて、静寂が訪れた瞬間、
「ブハッ」
と、むせるように息を吐き、肺一杯に空気を吸い込んだ。
全身が凍り付くような恐怖の呪縛が、無力感へと変わった。圧倒的な力の前では、ただ恐怖が過ぎるのを祈ることしかできない。
この世界で生き抜くことは厳しい、命は儚い。
「この世界で・・・生きていけるのだろうか」
まだ岩陰で岩に背をもたれたまま、色のない世界で自問した。