第21章 虫が鳴く
第21章 虫が鳴く
ダイチがまだ時間経過が異なるカミューの洞窟にいた7月8日。
バルが放した伝書鳩がドリアドにいるバイカルの元に帰ってきた。
ペーターが、
「父さん、今、鳩が帰ってきたよ」
ペーターが鍛冶店の奥の部屋でガリムと話をしていたバイカルの元へ走り込んで来た。
「分かった。鳩小屋にすぐに行く」
バイカルはそう言うと、鳩小屋へ急いだ。鳩の脚に付けてある伝文を外し、元の部屋へ戻って行った。
バイカルは伝文を読み、ガリムに見せる。
「やはり、ゴスモーザン帝国のことは噂ではなく本当に起こっていたことのようだな」
「ああ、バルが本人に確かめたんじゃから間違いないのぉ」
「バルは、そのまま船でゴスモーザン帝国近海まで行って確かめるとある。ゴスモーザン帝国のことは事実だったと、カリスローズ侯爵様に伝えて有事に備えてもらう。ローデン国王への報告や各領主たちへの連絡も滞りなくしてくれるはずだ。それにいざという時には、隣国から食料調達などもできるかもしれんしな」
「儂らはバルから次の情報を待とう。今儂らに出来ることは他にない」
「飢饉が現実に起こることや、黒い魔物がその原因になるとは、まだ決まってはいない。カリスローズ侯爵様のこれからの命令に支障をきたす恐れもあるので、街の代表にだけに話しておこう。俺たちも黒い魔物と戦う準備はしておこう」
ゴスモーザン帝国近海へ向かうバルを乗せた船。
「グゲーッ、船酔いはつらいな、ウプゥ」
「この程度の波で船酔いたぁ。軟弱者だな。今日の夕刻には、ゴスモーザン帝国近海に着く。儂が50年前に見た時には、普段はたくさんいるゴスモーザン帝国の漁船が一艘もいなかった。今日の夕方になっても、ゴスモーザン帝国の漁船を見かけなければ、要注意だな」
「バル、飯は食える時に食っとけよ」
ムネキが舵を握り、干した魚を口に頬張りながらバルも勧めると、
「食えん。胃から出すこともできん。俺は、波の音より、鍛冶の音を聞きたい」
船は風に乗り正に順風満帆だった。
間もなく太陽が夕日に変わる頃。
バルを乗せた漁船は西のゴスモーザン帝国近海に迫っていた。まだ西には水平線が見えているが、もう少し進めば地平線が見える距離となっていた。
もうゴスモーザン帝国の漁船に出会ってもよい場所であったが、漁船を見かけなかった。
「これは何かありそうじゃわい。50年前とよく似ておる」
「爺ちゃん、俺も変だと思っていたところだ。いくら何でも船が一艘も見当たらないっておかしいぜ」
バルは船酔いでふらふらしながら船のヘリにつかまり西に沈む夕日を眺めていた。
「気分が悪い、飯もろくに喉を通らない。ん・・・・あ、何だ」
夕日の下の水平線が僅かに厚みを持っているように見える。逆光になって水平線に黒い影だけが見える。
「おい、ジバイさん、夕日の方向に何か見える」
バルが夕日を指さす。
「何じゃ、夕日に目がくらんだか。ん・・・・あ、あれは、あれは黒い魔物じゃ」
「じいちゃん、黒い魔物が来るのか」
ムネキは夕日を手で遮りながら西の空を見た。まだ水平線が太く感じる程だが、大きな黒い物が飛んでいるのが分かった。
「あれが空を覆う黒い魔物か」
「ああ、そうじゃ、奴は東に向かて来ている。東のポポイ、いやローデン王国に来るぞ」
ムネキは慌てて舵を切って、帆を操作し始めた。
「このままポポイに帰るぞ」
「儂らも東へ逃げるぞい」
バルは水平線に広がる黒い魔物が東のローデン王国に向かっていることを紙に走り書きした。日時と現在の位置を添えると、最後の伝書鳩ハヤテの足に括り付け放した。ハヤテはすぐに舞い上がり、船の周りを一周する。
「ハヤテ頼むぞー」
バルの声が夕日の海に響く。
ハヤテは東を目指し一直線に飛んで行った。
夕暮れが迫る中で、伝書鳩ハヤテのことは気にはなったが、一刻の猶予もなかった。無事に情報が届くことを祈るばかりだった。
船は向かい風の中をジグザグに進んでいる。順風でゴスモーザン帝国に向かう船足に比べて、かなり速度が落ちていた。
「なあ、もっとスピードはでないのですか。追いつかれる」
バルは、船酔いのことも忘れ、ムネキに言った。
「これが全速だ。この風向きでは、これがやっとだ」
懸命に操船をするムネキが大声で叫んだ。
ジバイは、夕日が沈みかけている西の海を眺めている。水平線から現れた黒い魔物を見ているのであろう。
「このままじゃ、儂らは追いつかれるのぉ」
「何とかならんのか」
バルも西の水平線を見ながら言った。
「この船足ではどうにもならん」
ジバイの答えに、
「・・・・」
バルは、唇を噛んだ。
「まぁ、儂はもう十分に生きたし、思い残すことはない。最後は賑やかに逝こうではないか」
ジバイは首に下げたほら貝を吹き始めた。
ヴオッホーーー! ヴオッホーーー!
ほら貝の音は夕日に輝く海に響き渡った。
バルは本来、内気な性格で人に気を使ってばかりいるが、危機的な状況に追い込まれ、バルのタガが外れた。
「ジバイさん、あんたはもう十分生きたろうが、俺はまだだ。バイカル親方みたいな逸品をこの手で鍛えてみたいんだ。ほら貝のレクイエムはやめてくれー」
「ほほほほほぉ。まだまだ元気があるのう。若いっていいのうぉ」
ジバイはそう笑うと、半月を眺めてから、またほら貝を鳴らした。
「爺ちゃん、いいぞもっと景気よく吹け。がははははぁ」
ムネキがまくし立てると、
「漁師って肝がす座っているよな。怖ええくらいだ。まあ、俺に出来ることはないか」
バルは半分厭きれ、半分肝が据わった。バルは船の甲板に腰掛けた。
その時、バルは船の甲板で赤黒い何かが動いているのを見つけた。10センチくらいの小さな生き物だった。
「これって麦イナゴか。眼が真っ赤で、体全体が赤黒い、俺が知っている麦イナゴと色が違うな」
麦イナゴは魔物である。草食で人を襲うことはなく、子供でも手で捕まえ足で潰すこともできる。体長は10センチ程度、体色はダークグリーンで焦げ茶色の線が目の下から腹にかけて伸びている。後ろ足は際立って大きい。普段は翅を胸から背の部分に折りたたんでいるが、翅を広げて飛翔することもできる。林や麦畑、トウモロコシ畑でよく見かける。農家は麦イナゴを害虫として嫌い、駆除の対象としている。また、ローデン王国では、塩ゆでしてからハチミツ漬けにすると美味となり、広く知られている食用の魔物であった。
「ん、何かが顔に当たった」
ムネキはそう言って手で顔の辺りを払った。
「じいちゃん、ほら貝を止めて」
ムネキの言葉は、ほら貝の音でジバイには聞こえなかったようなので、バルがジバイの肩を揺すった。
「ジバイさん、一旦やめて」
「何じゃ、いいところなのに」
波の音に混ざり微かだが無数の翅音が聴こえた。暗くなり始めた空でこの船と並走するかのように東へ飛んでいる麦イナゴが見えた。真っ赤な眼と赤黒い体の麦イナゴが、
ギギッ
と、顎を鳴らした。
「ひ、ひょっとして、こ、これが黒い魔物の正体か」
バルは空を飛ぶ麦イナゴを見ながらそう叫んだ。
「そ、そうかもしれんのぉ。今、ギギッって鳴いちょった。儂が見たゴスモーザン帝国を覆い尽くす黒い魔物の正体は、麦イナゴの大群だったようじゃ」
「ここは、まだ数が少ない。黒い魔物に見える本隊はまだまだ西にいる。きっと麦イナゴの極一部が東へ向かって先に飛んでいたんだろう」
ムネキは空を飛ぶ赤黒い麦イナゴを睨みながら言った。
「とにかく、このことを知らせなくては、あれだけの大群の麦イナゴだ。ローデン王国に飢饉が起こる」
バルには伝書鳩がもう残っていなかった。そのことを悔やんでみてもしかたない。黒い魔物が東に迫っていることだけは伝えられたはずだ。とにかく一刻も早くポポイに、ドリアドのバイカルの元に、魔物の正体を伝えなければならないと考えるだけだった。
ジバイは力強くほら貝を吹き始めた。
船の2時の方向に水飛沫が上がった。
「おおぉ、やっと来おった。ムネキ、船を止めろ!」
ジバイは大声で叫んだ。
「なに言ってるんだ、じいちゃん。そんなことしたら麦イナゴの大群に追いつかれる」
「いいから止めるんじゃ」
「しょうがねえな」
ムネキは帆をすべて降ろした。船はゆっくりと減速していく。
ジバイは、
ヴオッホオオオオオォー
と、長くほら貝を吹いた。水面から水の柱が空に向かって立った。30メートル近い水柱だった。
「海から水柱が出たー」
バルもこれには驚いた。
「じいちゃん、何が起こっているんだ!」
「半月が来たのじゃ」
「半月ってなんだ。じいちゃん」
「半月とは儂の古くからの友の鯨じゃ。月が半分欠ける半月の前後1週間だけ奴に会える」
既に辺りは暗くなっていたが、海面から出た岩が船に近づいてくるのが分かる。
「半月、久しぶりじゃのー」
ボオオオオオオオーン
と、重低音が響く。海面から出ていた岩がさらに浮き上がる。もはや小さな島のような大きさの鯨だった。バルも海の男のムネキも、この巨大な鯨の出現に圧倒されていた。
「半月も息災そうでなりよりじゃ。1つ頼みを聞いてくれ。この船をポポイまで引っ張ってほしいのじゃ。それも大急ぎで」
ボッ、バッ、ボオオオオオオオーン
「そうか、ありがとうよ」
ジバイはムネキを見て、
「これを船に結び付けろ、急げ」
「お、おう」
ムネキはロープの端を船首にきつく結び付けた。
ジバイは、ロープを海面に投げた。半月は海面から水中へ一気に潜った。その時、半月の巨大な尾鰭が暗くなった空と重なった。ジャバババーンと白波とうねりが船を揺らす。
「うおお」
と、バルは船板にしがみついた。
投げたロープの辺りから、海面を突き抜け巨大な塊が飛び跳ねてきた。口にはロープをくわえていた。船首に結び付けていたロープがスルスルと伸び、ピーンと張った。船がバラバラになるかと思う程の衝撃の後、船はグングン加速していった。
「なんて速さだ。信じられん」
船の上で倒れながらも舵を握るムネキが叫ぶ。
「う、馬より速いかもしれない。ジバイさん、ほら貝を吹き続けたのは、ただの余興かと思っていた。すまん」
バルはそう叫ぶと、甲板に這いつくばりながら、船から落とされないよう網を掴んだ。
「ヒャッホォー! 景気づけじゃ!」
船尾に座りながら叫ぶジバイ。景気よくほら貝まで吹き始めた。
ヴオォボオオオオーッ
「この爺さんの肝の据わり方は半端じゃない。しかもこんなでかい鯨と知り合い・・・・。海の男って、ぶっ飛んでる」
バルは自分が陸の男でよかったと心から思った。




