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杏珠は現在、丸ノ内の一丁倫敦に住んでいる。
住んでいるのはアパートメントとして貸し出されたビルヂングなのだが、周囲の多くは商会の事務所などに利用されている。杏珠以外に住居として借りているのは、十人もいないのではないだろうか。
「いいなぁ、杏珠。わたくしも丸ノ内に住みたーい」
「親に頼んでみたらいいやん」
「駄目って言われるに決まってるもの」
「そりゃ、嶋津森の大事なお嬢様やもんねー」
うんうんと頷いていたら、「杏珠もでしょ!」と返された。
杏珠は苦笑する。
「うちは、妾の子やもん」
環とは、立場がまったく違う。
しかし、環は首を振った。
「でも、上壱條侯爵は杏珠のことをとても大事にしていると思うのだけど」
「ん~、そうやとは思うけど。でも、うちの存在は騒動の種なんやもん。東京に呼ばんと放っといてくれた方が良かったかなぁ」
十歳のときに芸者をしていた杏珠の母は亡くなった。なので、伝手で奉公へ出ようと思っていたのだが───父が迎えに来てしまった。
父が母のことを深く愛していて、自分のことも大切に思っているのは知っている。しかし母から、“決して私たちは表に出てはいけない”と言い聞かされて育った身。
本妻とその子供たちと一緒に暮らすつもりは一切なかったのに。
だけども父の涙ながらの懇願に負け、生まれ育った京都から父のいる東京へと居を移し……結局、心配していたごたごたが起きてしまった。そのため、父の采配で半年前から本宅を出て丸ノ内に暮らすようになったのだが……。
経緯を思い出すたびに溜め息が出る。
杖をつきながら階段を上がり、住居に入った。
玄関に漂う珈琲の香り。
「あぁっ!また有馬、来てんの?!」
「遅いじゃないですか杏珠さま。どこへ寄り道してたんですか」
予想通り。
居間には、くつろぐ有馬の姿があった。
有馬は、杏珠と共に入ってきた環を見て急いで立ち上がり、礼をする。
「環さま。お久しぶりです。……なんだ、今日も嶋津森のお嬢様と遊んでいたんですね」
「相変わらず失礼ねぇ、有馬さま。遊んでいたんじゃありません、杏珠は仕事をしていたんです」
「仕事?」
きょとんと有馬は二人の少女を見比べる。環が切れ長の瞳を細め、うふふと笑った。
一方杏珠は鞄を置き、壁際の机の前にある椅子に腰掛けてふうと小さく息をつく。決して口には出さないが、やや足の不自由な杏珠にとって、環の歩く速さは付いて行くのが少し大変なのだ。
富久が黙って置かれた鞄を片付ける。
環は勝手知ったる様子で、有馬の前のソファへ行き、優雅に腰を下ろした。
「杏珠は、探偵をしているのよ」
「タンテイ?……ああ、南陽の『不思議の探偵』や『稀代の探偵』でしたっけ」
「あら、有馬さまでも小説をお読みになるの?」
「杏珠さまが原書を取り寄せて読んでいるから、内容をお聞きしただけです。自分は小説とか、読んでてもサッパリ分かりませんねー」
「……だと思ったわ。というか杏珠、原書を読んでるの?!」
原書は、英語だったはずだ。環も英語で“ハロー”や“サンキュー”などの簡単な挨拶くらいは出来るが、英文は読めない。驚いた顔で友人を振り返れば、杏珠がニッコリと笑った。
「だってうちは、いずれ異国へ行くことが夢やからね。英文くらいは読めないと」
「すごいわ、杏珠……」
知識の幅が広いのは知っていたが、異国の言葉まで習得済みとは。
環の“友人尊敬度”はますます昂ぶるばかりである。
「ところで……杏珠さまは、今日は何に首を突っ込んだんですか?」
手に持っていた珈琲カップをソーサーへ戻し、有馬が質問を口にする。
環は「ああ!」と有馬に視線を移した。
「絵が黒くなったのよ」
「絵が……黒く?」
「壁に飾っていた絵が、勝手に黒くなっちゃったの」
「誰かが黒く塗り潰した訳ではなく?」
「誰もいない鍵の掛けた部屋にあった絵よ」
「へえ……」
有馬も興味を惹かれたらしい。少し身を乗り出す。
富久がそっと環の前に饅頭とお茶を出した。杏珠には、饅頭と珈琲。
環は富久にニコッと笑い、そして居住まいを正して有馬に向き直った。
「芥河原男爵という方の家でね。買ったばかりの絵が突然、黒くなっちゃったの。男爵は絵を売った画商に弁償しろと譲らないし、画商の方は絶対に変な絵は売ってない、何なら警察を呼んでくれって言い出す始末で。それで、杏珠が謎を解けるなら是非、解いて欲しいとお願いされたのよ」
ね、すごいでしょ?これはもう探偵よね?と環は得意満面だ。
そんな環に、有馬は「ん~」と顎に左手を当てる。
「その画商って、信用できる人なんですか?」
「そうねぇ。我が家との取引はないけれど、それなりに手広くやっているのは知っているわ。悪い噂は聞いたことがないわね。ま、二代目に代替わりしてからは、かなり商売の幅を広げていて、野心家だなぁという気はする。大体、あんな芥河原男爵みたいに絵の価値も分からなさそうな人間にひょいひょい絵を売るなんて」
少しだけ軽蔑した口調で有馬の問いに答えてから、環は杏珠に視線を移した。
「それで。杏珠はもう、黒くなった原因は分かっているんでしょう?このあと、どうするの?」
「え?分かってないよ?」
「分かってないの?!最後、女中に自信満々に質問してたじゃない?!」
思わず詰め寄った環に、まあまあと宥めてから杏珠は肩をすくめた。
「思い付いた可能性を聞いただけやもん。ああいうときは、こっちは全部分かってるんですよっていう口調で言った方が向こうもぽろっと本当のこと言うねん。でもまあ、なんとなく輪郭は掴めてきたから……明日、骨董屋と蓄音器商会と額縁屋へ話を聞きに行きたいな」
にこにこと説明され、環は渋々頷いた。
「分かったわ。では、明日は車を用意しておくわね」
「ありがと~」
「待ってください!」
有馬が横で飛び上がる。
「そんなにあちこち、行くんですか?だったら自分も付いていきます!」
「えっ」
杏珠があからさまに嫌な顔になった。
「学校帰りにそのまま行くんやけど……」
「もちろん、自分が学校まで伺いますよ」
「えええ~~~」
有馬は、杏珠の父・上壱條忠誠から、杏珠の安否を毎日確認し、週に一回は杏珠の様子を報告するよう求められている。侯爵自身が頻回に杏珠の様子を見に行けないためだ。
ついでに、もし杏珠が慣れない場所へ行くようなら必ず付いていくよう頼まれていた。
───要は護衛兼お目付け役だと有馬は理解している。よって、杏珠が環と妙な場所へ行くのなら、同行しなければならない。
杏珠もそのことは分かっているのだが……
「有馬、でかいから邪魔やねん。それに、あれこれ聞いてきて煩いし。環がおったら危ないことって何もないから、付いて来んでええって」
「そうよ。杏珠を守るなら私で充分だわ。探偵小説を読んでない、助手にもならない男は不要です」
元がお武家の嶋津森家は、女子でも薙刀など武術を修めている。そこら辺の小悪党など、物ともしない実力だ。環の自信は根拠のないものではない。
少女二人からの反論に、有馬は眉を寄せて腕を組んだ。
「ダメです。だって杏珠さまはすぐ周りが見えなくなって突っ走るじゃないですか。環さまだって同様です。そういうとき、力づくで止められるのは自分くらいしかいません。……というか、一応、お二人とも侯爵家のご令嬢なんですからね?もう少し、お淑やかさがあった方がいいですよ?このままでは嫁に行けないじゃないですか」
「ふっふーん。うちは職業婦人を目指してるもん。結婚なんかしませーん」
「“結婚しない”じゃなく、“出来ない”の方ですね」
「出来ますよーっだ。有馬の方こそ、お馬鹿で筋肉くらいしか自慢するものが無いんやから、結婚なんて無理やね!」
二人がキーキー言い合っていたら、それまで口を挟むことはなかった富久が「はいはい!」と手を打って間に入ってきた。
「もうそれくらいで宜しいんちゃいますか。せっかくの珈琲もお茶も冷めてしまいます。さ、お茶の時間にしまひょ」
もっと言ってやろうと身を乗り出していた杏珠だったが……少しだけ口を尖らせ、大人しく引き下がった。有馬も黙る。なにせ富久は、怒らせると後が大変なのだ。




