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女中は“やす”と名乗った。
芥河原に頼んで呼んでもらった、客間に入ることを許された唯一の女中だ。五十代くらいだろうか。白いものが多く混じる髪を綺麗に後ろでまとめているが、顔には疲れが色濃く出ている。
なお、杏珠と環、やすがいるのは女中たちの休憩室である。四畳半の和室には、使い古された座卓があるだけ。
無理を言って芥河原と佐江には席を外してもらっていた。雇い主同席でない方が、使用人は喋りやすい。
「それで……あたしにどのようなことをお聞きになりたいんでしょう?」
おどおどとした様子でやすが聞く。
環は優しく微笑んだ。
「緊張しなくていいわ。あなたを叱ろうとか、そんなことをするつもりじゃないから」
「はあ。でも、あたしは何も知らないですし。気がついたら絵が黒くなっていて……」
「あのね。前日のことを聞きたいの」
身を乗り出して、杏珠がやすの言葉を遮った。
やすがきょとんとした顔で杏珠を見る。
「前日ですか?」
「そう。午前中に骨董品屋、午後に蓄音機商会、日が暮れる頃に額縁屋が来たって聞いたわ」
「……ええ、そうだったと思います」
ほんの少し考え込んで、やすは頷いた。
「あなたは、その全部に立ち会っているのかしら」
「そうですね……あたしが応対して、客間まで案内しました」
ふむふむと杏珠は首を振り、右の人差し指を軽く唇に当てた。
「それで―――あなたが客間から離れて、客人だけになった時間ってあるかしら」
「え?」
「男爵には言わないわ。よく来る業者でしょうし、あなただって仕事で忙しいでしょう?少しくらい客間を離れるのも当然だと思うもの」
にっこりと杏珠が笑えば、やすは頬を染めて俯く。同性から見ても、杏珠は可愛らしい。
しばらくもじもじとしていたが、やがてやすは意を決したように顔を上げて、杏珠に顔を寄せた。
「骨董品屋が来たときは、客間の鍵を開けて、奥の窓際に置いてくれと頼んで他の部屋の掃除に行っておりました……。壺は藁に包んで持ってきていたので、それを解いて窓際に据えるまで、三十~四十分くらいかかっていた気がしますね。ずっと横で見ていた方がいいんでしょうけど……」
「朝は忙しいもの、仕方がないわ!」
「それで……蓄音機の人が来たときは、客間に案内して旦那さまを呼びに行きました。旦那さまは仕事をしていて、三十分は待たせたと思います。あたし、その間、別の用事をしていて……」
「そりゃ、三十分も客間で男の人とただじっと待ってるなんて無理よ、無理。私だって、席を外しちゃう」
杏珠の熱い同意に、やすはホッとしたように肩を下す。
恐らく“別の用事”なんてものはなく、休憩をしていただけなのかも知れない。だけど、杏珠が知りたいのは女中の行動ではない。客間を離れていた時間だ。
「で、最後の額縁屋さんはどう?」
「そうですねぇ……」
愛想良い相槌で、すっかり気が緩んだのだろう。やすはそれまでより滑らかに話し始めた。
「額装するのに、三十分以上かかりそうだと言われたので、その間は離れておりましたねぇ」
「あら、意外と時間のかかるものなんですね。やすさんが客間へ戻ったときには、終わっていました?」
「ちょうど壁に額装した絵をかけているところでしたよ。あたしはぴったり三十分で戻ったんですけどね。ああ、そういえば、まだ終わってないのねと声をかけたせいか、だいぶ慌てて何度も絵を落としそうになりましてねぇ。落として額が欠けたらどうしようかとヒヤヒヤしました」
そのときのことを思い出したのだろう。やすの額に皺が寄る。
杏珠は何度も頷き、「男爵がその様子を見たら、怒りそうですね」と同調した。やすはブルブルと震える。
「旦那さまは厳しくて!あたしが声をかけたせいで額縁が欠けたと知ったら、ぶたれます。……あ、このことは」
「ええ、もちろん、旦那さまには言わないわ。大変ね、厳しい旦那さまで」
「本当にもう。すぐに若い子は辞めてしまって、おかげでいつも人手不足なんです」
余程、不満が溜まっていたらしい。その後しばらくは愚痴が続いた。杏珠はそのすべてに痛々しげな表情で頷く。
ひとしきり話を聞き、さあ、そろそろ終わろうという頃になり。
ふと、杏珠が気付いたように質問を口にした。
「ところでどの業者さんも、帰りは大きな荷物はお持ちではなかったですよね?」
「ええ。持ってきた品を包んでいた藁だの風呂敷だのそういうのを持って帰ったくらいですよ」
「それと……客間は毎日、掃除をしているのかしら?」
「はい。朝、あたしが入って掃除をし、また鍵をかけます」
「カーテンはどうしているの?」
「朝の掃除のときにカーテンと窓を開けて風を通し、窓だけ閉めます。夕方に、カーテンを閉めるついでに中を一通り点検します」
「誰も来なくても、カーテンを開けておくの?」
「旦那さまが突然、お客さまを連れてくることがございますので。いつでも、客間を完璧な状態にしておけと」
「ふうん……」
再び、人差し指で自身の唇をなぞる。やや色の薄い茶色の瞳が中空を見据え、動かなくなる。
「杏珠?」
それまで黙って控えていた環がそっと友人に声を掛ける。
はっと杏珠は瞬き、環に視線を移した。
「何か、分かった?」
「ううん。別に何も」
何も、と言うが、唇が薄っすらと弧を描く。確信した口調で、杏珠はやすに向かって言った。
「……ねえ、やすさん。絵が黒くなった日の朝。実は朝の掃除のときに、絵が少しおかしいなと思いませんでした?」
「!!」
やすが息を飲む。
「それは……」
「どう変だったか、教えてくれないかしら?」
じっと見られて、やすは何度も唾を飲み込みながら「絶対に、旦那さまには言わないでくださいよ」と念を押して呟いた。
「絵が、違うような気がしたんです。それに、掃除をして部屋を出るとき……絵が少し黒っぽくなりかけていて……。部屋へ入ったときは何も問題なかったのに!本当です、でもあたし、手も触れてないし、何もしていませんから!」




