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室内に芥河原男爵と一緒にいた男は、画商だそうである。
「こちら、多気久夢二の作品ですの?!」
「ええ、そうです。五日前にこちらへお持ちしたばかりです」
尾嘉田と名乗った画商は、悲痛な顔をしながら環に訴えた。
ちなみに多気久夢二とは、昨今人気の抒情的な美人画を描く人気作家だ。
「あたしは長く画商をやっておりますが、ずっとずっと、まっとうに商売しておりやす。贋物の絵や、おかしな絵など、売ったことなんかありゃしませんよ!本当です、お嬢様。大体ね、こんな、たった一日で誰も触ってない絵が真っ黒に変色するなど、聞いたこともございやせん」
どうやら先ほど、芥河原男爵から絵が黒くなった件を責められていたらしい。それを環に取り成してもらおうと考えているようだ。
芥河原は「しかし、実際に絵が黒くなったんだ、あんたの方で何か問題が……」と、納得いかない様子で横から言い募る。
杏珠は黒くなった絵に近付いた。
全部が真っ黒という訳ではない。上から黒い何かを塗ったのだろうか?塗りムラがあって、ところどころ薄くなっているように見える。
その薄くなっている部分に目を凝らせば、確かに夢二の作品っぽい女性がほんのり確認できた。
「こちらは夢二の日本画?肉筆ですか、木版ですか?」
いまだ切々と己の正当性を主張している尾嘉田を遮り、杏珠は声を上げた。
驚いたように尾嘉田が黙る。環が、ニッコリと尾嘉田へ問うた。
「どちらですの?」
「あ、はい、肉筆の日本画にございやす」
ハッと我に返り、答えながら入り口右側の壁を指す。
「こちらに、十日前に納品した、まだ無名の画家の作品なんですが……これと合うものを持ってきやした」
尾嘉田の指先には―――黒い絵より一回りか二回りほど大きい絵があった。黒くなった絵の対面側の壁に掛けられている。たおやかな日本髪の女性の絵だ。
夢二の作品に比べると、女性の優美な繊細さが足りず、やや硬い印象である。それに加えて西洋画に使われていそうなやたらと豪奢な額縁に収まっているため、妙にちぐはぐで滑稽な感じだ。
芥河原が「そちらは……」と恐る恐る杏珠のことを環に尋ねる。環は笑みをさらに深くして頷いた。
「ああ、彼女はわたくしの大事な友人ですわ。絵のことに、造詣が深いんですの」
(絵は別に詳しくないけど……)
内心、ひやひやしながら杏珠は頭を下げる。
そしてわざと名乗らず、さっさと気になる点を聞いてしまうことにした。
「こちらに夢二の絵を飾ったのは五日前なんですね?そして、絵が黒くなったのは昨日。黒くなっていたことに最初に気が付かれたのは、どなたで、いつ頃ですか」
「あー……昨日の昼過ぎに私が」
「こちらのお部屋は、どなたでも出入り出来るのですか?」
「いいえ、高価な絵や壺や……蓄音器を置いておりますからな。普段は鍵を掛けております。長年、うちに勤めている信頼出来る女中だけが、朝、掃除に入ります」
「では、朝は問題がなかったと」
「そのはずです。一昨日……二日前の夜も問題ありませんでしたな」
恐らく芥河原は杏珠を何者だろう?と疑問に思っているはずだが、環の手前、おとなしく質問に次々と答える。
杖の柄をトントンと軽く叩きつつ、杏珠はぐるりと室内を見渡した。
窓の近くに、確かに蓄音器がある。朝顔のようなホーンが、ピカピカした輝きを放っていた。
飾り棚には、舶来品の置き物。
どれもが一見して“高そう”なものばかりだ。
芥河原は、先の戦争で成り上がったいわゆる“成金”である。男爵位も買ったばかり。きっとこの屋敷の何もかもが、その男爵位にあわせてきらびやかに揃えている最中なのだろう。
「ちなみに、一昨日、男爵さまと女中さん以外でこの部屋に入った方はどなたでしょう?」
芥河原は眉を寄せた。不機嫌になった訳ではなく、考えているらしい。
うーんと唸り……
「午前中に、こちらの壺を骨董品屋が持ってきましたな。ただし私は立ち会っておりません。午後に蓄音器の使い方を業者から教わりました。それと……ああ、夕方に持って来ると言っておったのに、日が暮れてから額縁屋が額縁を持ってきましたな」
そう言って、黒くなっていない方の絵を振り返る。
「額縁屋?」
「ええ。この屋敷に相応しい額縁に替えようと思いましてね。この額縁がそうなんですよ。見事でしょう。夢二の作品も替える心積もりをしておったんですが」
それを聞いて、環の鼻の頭に皺が寄る。杏珠には環の心境が手に取るように分かった。
“無名の画家の作品”とやらを見た瞬間に思ったことだが。
……明らかに、絵と額縁が合ってない。しかし芥河原にとって、絵も額縁もただただ富の象徴でしかないのだろう。
「それにしても、あの額縁屋。この絵に派手な額縁は似合わないとか、その壁に絵を飾るなとか、五月蝿いものでしてねぇ。まあ、要望通りの額縁を持ってきたから我慢してますが、商売人なら、黙って客の言われた通りにすれば良いものを……」
額縁屋の言い分はもっともなものだと思いつつも、杏珠は神妙な顔をして相槌を打った───。




