6
一週お休み、すみません。
翌日、杏珠は学校で環と会ったが、特に前日の件について聞かれることは無かった。嶋津森が何か言い聞かせているのかも知れない。
ちなみに細かいことを気にしない有馬が何も尋ねないのはいつものことだが、アパートメントで杏珠の帰りを首を長くて待っていた富久も何も言わなかった。
富久は出来る女中なので、杏珠が自ら言わないのなら、聞いてはいけないことだと判断したのだろう。
という訳で、誰も何も聞いてこないので……密かに杏珠はもやもやしていた。
謎は解いたが、そもそもの始まりがどうも気になって仕方がないのだ。
夜、布団に入ってからもいろいろと考えてしまい、なかなか眠れなかった。
だから……誰かと話をして頭を整理したい気分なのである。話しているうちに、パッと違う道が見えることもあるのだ。
だが、内容は機密書類だ。みだりに人に話してはいけないということも、もちろん理解していた。
―――結局、その日の授業はほとんど身が入らず、帰りに環から「カフェーに行く?」と誘われたときは一も二もなく頷いた。
昨日の件を話せないとしても、ちょうど良い気分転換になることだろう。
ところが……
門を出たところで、車にもたれて佇む青年に目が行った。
目深に軍帽を被っているが、背が高く均整のとれたあの身体は見覚えがある。
「やあ、杏珠君!」
予想通り。目敏くこちらに気付いたらしい蘭が、帽子を上げてにこっと笑った。
杏珠が答える前に、環が怪訝そうに首を傾げる。
「あら、一真さま。どうしてこんなところに?……というか、杏珠、一真さまと顔見知りなの?」
環は蘭とは親しいらしい。嶋津森も親しげだったので、家族ぐるみで付き合いがあるのだろう。
杏珠は、「んー……」と唸った。そして短く答える。
「昨日、会ったところ?」
「なるほど」
杏珠の返答に、環は小さく呟いた。
その間に、蘭がこちらに来る。
「久しぶりだね、環君。申し訳ないが、君のご友人をお借りしていいかな?」
「良くはないですわ。これから一緒にカフェーへ行く予定でしたのに。……でも、お父様のお仕事の件なんでしょう?仕方ないわね」
先ほどの回答で、環はすべて事情は察したらしい。
ただ、仕方ないという割りに、口は少し尖っていて……環はちらっと杏珠を見た。それから急に杏珠の肩を掴んで、耳元に口を寄せる。
「お父様が、重要な件だから首を突っ込むなと散々念を押すから今は諦めますわ。でも、わたくし、杏珠の親友で助手ですからね?そのうち、ちゃんと教えてくれなくちゃ嫌よ?」
どうやら、環もいろいろと聞きたいのを我慢していたらしい。それを知って、杏珠もホッとする。
環は自分と同じ、知りたがり調べたがり仲間と思っていた。いつもと違うおとなしい環に、拍子抜けしていたのだ。
杏珠はにやっと笑った。
「分かった。だって、助手やもんね?」
「そうよ!」
蘭にどこまで環に話していいか、確認をしなければなるまい。
というより、環は嶋津森の娘で口は堅い。全部話しても良いという言質を取りたいところだ。
蘭の車の助手席に乗り込む。
いつも後部座席ばかりなので、前の席に座れるのは少し嬉しい。
ただ、このことを知ったら有馬は父から叱られるのだろうか?という疑問が湧いた。まあ、この場に有馬はいないし、自分は直接父から何か言われた訳でもない。
気にする必要もないか、と思い直す。
車が走り出した。
蘭の運転は有馬と違って丁寧だ。安心して乗っていられる。
走り始めてしばらくして、杏珠は蘭に質問した。
「それで……昨日の件、片付かへんかったんやろか」
「その結果を聞きたいんじゃないかと思って、君のところへ来たんだ。余計なお世話だったかな?」
前を向いたまま、楽しそうな口調の返事が返る。
その返答から、無事に片付いたのだろうと杏珠は判断した。
蘭が来たので、もしかして推理が間違っていたのかと少々どきどきしていたのだが……違ったようだ。ほっと一安心である。
ということで、素直に頷くのもなんとなく悔しく感じた杏珠はつんと横を向いた。
「どないなったかは、別に蘭さまからではなく、嶋津森のおじ様から聞くから構へん」
蘭は声を出して笑った。
「うわぁ、つれないなぁ!」
「そもそも……」
ちらりと蘭に視線を送る。
「あの書類、逓信省の密偵を炙り出すためのものなんやろ?」
「……何故、そんな風に思う?」
「機密書類を届けに来たことを、わざわざ受付で言うたでしょ。それがもう、変やもん。そしておじ様、書類の扱い方が少し雑やし。大事な書類やのに、すぐそばに鍵を隠してる引き出しの中に入れるなんて!あと、金庫じゃなく保管庫へ置くっていうのも妙やった。ホントは、大臣室より侵入しやすそうな保管庫に、書類を見に来る者がいないか……調べる予定やったんちゃうんかなって」
杏珠が昨夜、眠れずに考えていたことがこれだ。
昨日、嶋津森から話を聞きながら微妙に引っ掛かって仕方がなかった。あのときは他に解かなければならない問題があったから、あえてそこを指摘しなかったが。
つまり今日はこの件が確かめたくて、蘭の誘いに乗ったようなものである。是非とも、答えを教えてもらわなければならない。でないと、今夜ももやもやして眠れない。
蘭は、感心したように呟いた。
「すごいな……本当に名探偵だ」
つまり杏珠の読み通り、ということだろう。
「嶋津森大臣の推薦は間違っていないんだね。……その通りだよ。しばらく前から、幾つかの省庁で機密が漏れているようでね。密偵探しをしていた。という訳で逓信省の密偵は、今回、杏珠君のおかげで無事に捕まえることが出来たよ。助かった」
「じゃあ……あの書類は、写すのに時間が懸かるようにしただけの、意味のない書類やったんですね?」
「うん、そうだね。そのことも見抜いちゃったか。さすがだな」
書類を見比べながら意味不明な内容に少しいらっとしていた杏珠は、蘭の答えにようやくすっきりした。
書類の中身は、とにかくまったく規則性がなかったのだ。どうも自分は無意識に謎を解こうとしてしまう癖があるらしく、ふとした拍子にあの文字の羅列が脳裡に浮かび、そのたびに暗号を読み解こうと何度も考え込んでいた。
「それにしても」
のろのろと前を行く大八車をすっと右にハンドルを切って避けながら、蘭は言葉を続けた。
「書類を写した証拠が、まさか漢字そのものとはね……」
「急いで写さなアカンかったから、つい、書き慣れた漢字の方を使ってしまったんやろね。そのうえ、特徴のある略字を使ってはったから……ほんま、良かったわ」
杏珠が嶋津森たちに示したのは―――原本と写しで異なる漢字だった。
見つけた文字は六つ。
剣、静、満、広、滋、為(ゐ/略字)。
これらを、布寺枝が日常的に使っているかどうか調べ、すべて使っていればそれを理由に問い質せば良いと嶋津森に提案したのである。
「布寺枝さんは、最初は知らぬ存ぜぬで通したけどね。でも、"為"の略字が独特な形をしていたから、言い逃れ出来なくて観念したよ。……清書した人間が正字に直さず、布寺枝さんの手癖まで丁寧に写していたおかげだ。だけど……どうして、そのまま写したんだろう?」
「それは、暗号文書やと思ったからやないですか。布寺枝さんは急いで写す必要があるから略字を使った。清書した人間は、見慣れない略字も暗号の一部かと思ったから、間違いのないよう丁寧に写した」
「なるほど!」
蘭は感心したように頷いた。
杏珠の説明を聞くと単純な理由だと思うが、案外、解けないものだ。
「さすが名探偵」
「まあ、これくらいは簡単やもん」
謙遜せずに杏珠はにこっと胸を張る。
書類を見比べる前から予測していたことなので、杏珠にとっては謎でも何でもない。
「ところで……」
胸を張っておいて何だが―――首を傾げて杏珠は蘭に視線を向けた。
「どこへ向かってるん?」
さっきから外の景色を見て考えていたのだが、どうも逓信省へ向かっているようには思えない。
あまり土地勘が無いのではっきりとは分からないけれども。
すると、蘭は「ああ!」と頷いた。
「特に目的地がある訳じゃないんだ。この話をするのに、車だと人目を気にせず話せるなと思って車で来た。折角だからこのあと、時間があるなら君の行きたいところへ行こうか。どこへ行きたい?カフェー?」
「横濱まで行ける?」
行きたいところへ連れて行くと言われ、途端に杏珠の目が輝いた。
杏珠は以前から一度、横濱へ行ってみたかったのだ。
ちらっと期待に満ちた眼差しを蘭に向けるが、蘭は「うーん」と唸った。
「横濱までだと、二時間は掛かるかな。道も悪いから、もう少し掛かるかも知れない。今から行くには遠い。横濱なら、今度、学校が休みの日に朝から行こう」
「そっか……」
車ならあっという間かと思ったが、そうではなかったらしい。
でも、二時間で行けるなら悪くない。気分を切り替え、次の提案をする。
「残念。そしたら、他に東京でお勧めな場所に連れて行ってくれへん?浅草は行ったことあるんやけど」
「じゃあ……上野にしようか。動物園はどうかな」
「動物園?!うん、行く!」
昨日はあれほど蘭に警戒していたのに、"行きたいところへ連れて行く"という甘い言葉に、もうすっかり警戒を解いている杏珠であった。
夕方になり、倫敦一丁のアパートメント前に一台の車が止まる。
その車から降りてきたのは杏珠だ。杏珠は運転席の蘭に向かって、丁寧に頭を下げる。
「おおきに!うち、初めて動物園へ行けて楽しかったぁ」
「こちらこそ。……今回は本当に助かった、ありがとう。では、また」
蘭もにこやかに言い、すぐに車は発車した。今日は杏珠のために半日空けたが、本当は忙しいらしい。
去って行く車に向かって手を振り、杏珠はご機嫌でアパートメントに入ろうとして……ちょうど出て来た有馬と鉢合わせになった。
「あ、有馬」
「杏珠さま!どーして、蘭さまと帰ってくるんですか?!」
有馬にしては珍しく、怒っているようである。しかし、杏珠はけろりとした顔で答えた。
「どうしてって……一真くんは、昨日の件の結果を教えに来てくれたんやもん」
「一真くん?!」
「蘭って仰々しい名前は好きやないねんて。うちも上壱條は長ったらしくて好きやないから、その気持ち分かるなぁと思て」
「そーいう問題じゃないです!蘭さまと話すのは駄目だと言ったのに、何故、そんなに仲良くなるんですかぁ」
有馬は今にも地団駄を踏みそうな勢いだ。杏珠はふん!と横を向いた。
「なんで有馬の言うこと聞かなアカンの。そもそもうちは、お父さまから何も言われてへん!……というか。お父さまのすぐ囲おうとするところ、嫌やねん。うちは物と違う。どこぞに仕舞い込まれたままやと、朽ちてしまうわ」
杏珠の言い分に、有馬の眉が情けない形に下がる。
上壱條候爵がどれだけ愛娘のことを愛しているか、有馬はよく知っているからだ。
「候爵さまは、杏珠さまのことを大切に思っていて、守ろうとしてですね……」
「余計なお世話。親やったら、自分の身は自分で守れるように導くのが正しい姿やろ」
「でも、杏珠さまは女の子だし……」
「女やから、何?これからの時代、女が家を守るなんて古い考えになるんやない?女も自立していかなアカン」
言うだけ言って、杏珠は有馬の横をすり抜けてアパートメントの中へ入る。
せっかく蘭……一真と動物園に行って楽しかった気分が台無しである。
「杏珠さま、とりあえず、もう蘭さまと会う約束はしてないですよね?!」
有馬が慌てて杏珠に追い縋りながら、確認してきた。
杏珠はひらひらと手を振る。
「有馬には、何も教えへーん」
「杏珠さま~!」
一真とは横濱へ行く約束をしたが……有馬には知られないようにしなければならないだろう。
杏珠はこっそり舌を出した―――。
第四話、完結!
次は一真から依頼の予定です。まだ詳細を詰めてないので……秋頃に書き上げられたらいいな?という感じ(亀の歩み……)。ちなみにまだ、殺人事件には巻き込まれません。
※ なお作中の異体字、略字は下記サイトを参照しています
厚生労働省の異体字検索漢字リスト: https://www.mhlw.go.jp › bunya › iryou › itaiji
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