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―――葉良を見送り、杏珠は改めて嶋津森の前に腰を下ろした。
嶋津森は、待ちかねたように身を乗り出す。
「で?さっきの話で何か分かったかね?……その前に、杏珠君はいつ布寺枝君のところでお茶を飲んだのだ?」
不思議そうに問う嶋津森に、杏珠はくすくすと笑う。
「ちゃいますよ!布寺枝さんとは会うてもいないのに。……ちょっと、当てずっぽうで言っただけです」
「当てずっぽう……?」
「葉良さんがぼうっとしていたって言わはったから。もしかしたらと思って」
その言葉に、嶋津森はハッとする。
真面目な顔になって、杏珠を見た。
「何か、原因があると言うのかな?」
「ええ。……たぶん、睡眠薬ですね。バルビツール酸系の睡眠薬って苦みがあるそうですから。それをお茶に混ぜたんでしょう」
「睡眠薬?!なんのために」
「それはもちろん、葉良さんに少し寝てもらうためやと思います」
嶋津森の口がポカンと開いた。しばらくそのまま固まり……やがて、ゆっくりと首を傾げた。
眉が寄り、厳つい顔がますます厳つくなる。
「葉良君が寝ている間に、私の部屋へ行ったと?いや、しかし時間的にそれは難しくないか?」
「そんなことありませんよ。先ほど、下の受付で聞いたんですけど。葉良さんが来られたのは、ちょうど一時頃だったんです」
「ん?葉良君はもっと前に来たと言っていなかったかね?」
途端に、杏珠はにんまり笑んだ。我が意を得たり、といった顔だ。
身を乗り出していた嶋津森に、杏珠もそっと身を寄せて声をひそめる。
「つまりですね。布寺枝さんは時計の針を動かして、時間を操ったんですよ」
―――杏珠が推理した当日の流れは、次のようなものだ。
まず、布寺枝は部屋の時計の針を実際の時刻より手前に……二十分ほど巻き戻した状態で葉良を迎えた。葉良は懐中時計を持っておらず、時間が違うことには気付かなかった。そして、布寺枝は睡眠薬入りのお茶を出し、素知らぬ顔で仕事の話を始める。
やがて……睡眠薬の作用で意識が朦朧としてきた葉良に「書類を取ってくる」と告げて退出。
布寺枝が部屋を出て、恐らく少し緊張が解けた葉良はそのまま眠ってしまう。その隙に布寺枝は嶋津森の部屋へ行って書類を書き写し、終わったら自室に戻って時計の針を正しい時刻に直してから葉良を起こす―――。
以上である。
「うーん……しかし、それだと二人は仕事の話を三十分もしていないんじゃないか?葉良君もおかしいと感じないかね?」
杏珠の推理を最後まで聞いてから、嶋津森は思案顔で尋ねた。
杏珠は、軽く肩をすくめる。
「眠気と戦いながら仕事の話をしていた葉良さんは、あまり時間の感覚はなかったんとちゃうかなぁと思います。布寺枝さんとの話の内容だって、そんなに覚えてないかも。でも、そんなことは嶋津森のおじ様に言えないし。……何度も呼び出されて、葉良さん、内心はビクビクしてはったりして」
「なるほどなぁ。……ふむ、睡眠薬に時計か。これで、布寺枝君に盗み見は出来なかったという仮定は覆るな」
「はい。でも、犯人とも断定出来ませんけどね」
あくまでも状況を踏まえた上での推測だ。
睡眠薬が出てきた訳でもないし、時間も各人の朧げな記憶である。はっきりした証拠は、どこにも無い。
嶋津森は大きく息を吐いて、上を向いた。
「その通りだ。さて……どうするか」
先ほどよりも深い沼にはまったような嶋津森に、杏珠は人差し指を唇に当て、小首を傾げた。
「……秘密厳守しますので。盗み見された書類の原本と、書き写された書類を見せてもらえますか?もしかすると突破口がある、かも?」
一つの可能性を思い付いて、杏珠は提案する。
嶋津森は「うーん」と低く唸った。
「写しの筆跡は、布寺枝君のものではなかったよ。布寺枝君が写し取ったものを、恐らく別の人間が清書したのだと思うんだが」
やはり盗み見された書類は、おいそれと部外者には見せられないのだろう。嶋津森は困った顔をしている。
だが、そこに……
「いいんじゃないですか。彼女に見てもらって、是非、突破口を開いてもらいましょう」
嶋津森ではない別の人間の声が答えた。
声の主は、衝立の後ろから現れた。
青年の手には紙があり、軽く掲げている。
―――先ほど、階段で杏珠を助けてくれた青年だ。
驚く杏珠を見て、嶋津森は眉を寄せた。
「一真君……勝手に出てこないでくれんかね」
「申し訳ない。でも彼女の協力してくれることで、俺が布寺枝さんを厳しく問い詰める必要がなくなるなら……その方が良くないですか?」
青年はにっこりとそう言って、嶋津森と杏珠の元まで来た。そして手にしていた紙を杏珠の前に置く。
びっしりと文字が書かれている。
「これが君の所望した書類だよ。上の二枚が原本、下の二枚が捕まえた男の持っていた写しだ。どうぞ。……ああ、それから今さらわざわざ念を押すことでもないけれど、内容は他言無用でお願いする」
杏珠は受け取った紙に、すぐ目を落とした。
並んでいる文字をざっと上から下まで見る。漢字だけでなく、数字も並んでいるが……これだけたくさん書かれているのならば、杏珠が探しているものは見つかりそうだ。
杏珠は青年を見上げて頷いた。こちらを見ている真面目な眼差しに、軽く頭を下げる。
「では……少しお待ちください」
青年が何者なのかも気になるのだが。
今は、書類の比較が先だろう。
紙に並んでいるのは、数字と漢字である。しかし文章ではなく、意味を成さない文字がただただ羅列しているように見えた。
(なんやろなー、これ)
上から順に目を通しつつ、杏珠は首を捻る。
(暗号……?)
他言無用と言われたが、こんな意味不明なもの、他人に伝えようが無い。
原本と写しを並べて調べる杏珠のすぐ横に、青年が腰を下ろす。
思わずちらっと青年を睨んだが、青年も真剣な顔で紙の文字を見ている。仕方がないので、何も言わずに杏珠も視線を文字に戻した。
―――室内に静寂が広がり、五分ほど過ぎただろうか。
「あった」
小さな杏珠の呟きが響いた。
嶋津森と青年がハッと杏珠を見るが、杏珠はまだ文字に目を向けたままだ。元々大きな目をぐっと見開いて、瞬きもせずに原本と写しを見比べている。
さらに時間が過ぎて……フッと小さく息を吐いた。
目をぱちぱちさせながら、嶋津森に視線を向けた。
「全部で六つありました。これが全て合致するなら、言い逃れは難しいんやないでしょうか」
え?という顔の男を二人に、杏珠はにっこりと笑って、さっそく説明を始めた―――。




