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厠へ行ったあと、受付に寄る。
受付の男性は環と一緒に来た杏珠のことをもちろん覚えていて、「どうしました?」と声を掛けてくれた。
「嶋津森大臣のお嬢さまとは、一緒に帰られなかったんですね」
「ええ、ちょっと事情がありまして。……あの、少しお伺いしたいのですけど。逓信省に来たら、誰が何時にどこへ訪問したか、記録を取っておられますか?」
杏珠の質問に、相手は不思議そうに首を傾けた。
「はあ、訪問者の記録は残していますが……時間までは書いていませんねぇ」
「そうですか……ええと、五日前のことなんです。お昼頃に嶋津森候爵か、布寺枝さんに会いに来られた方って分かります?」
どうしてそんなことを聞くのかと尋ねられたら、なんと返そうか……杏珠は頭の中で急いで適当な理由を探したが、男性は特に聞き返すこともなく「ああ!」と頷いた。
「五日前も、ちょうど自分が受付にいたので調べなくても分かりますよ!実はその日、総理が急に来られることになってバタバタしていたんです。だから、余計によく覚えていますね。昼に嶋津森大臣に会いに来た方はおられません。布寺枝さんの方は、一時から業者の方と会っておられました」
「そうですか。……時間は記録していないのに、よく何時に来られたか、覚えておられますね。すごい!」
杏珠が両手を合わせて褒めたら、男性は照れて頭を掻いた。
「いやいや、総理が来られたのが十二時半を過ぎた辺りだったんです。それがちょうど自分が昼休みを取る時間と重なっていましたね、おかげで受付から離れられなかったんですよ。で、時計と睨めっこしながら、そろそろ昼休憩へ行こうかと思ったときに葉良さん……あ、布寺枝秘書官に呼ばれた業者の方が来ましてねぇ。それで、よく覚えているというか」
「そうですか。……ありがとうございました」
気になった件は確認出来た。
杏珠は丁寧に男性へ頭を下げ、二階の嶋津森への元へと戻ることにした。
大臣室へ戻ると、嶋津森が落ち着かなげに室内をうろうろしていた。
「堪忍、おじ様。戻るのが遅くなってしまって……」
「え?あ、ああ、いや、別に遅くはないよ」
考えごとをしていたらしい嶋津森は、組んでいた手を解いて慌てたように左右に振った。
そんな嶋津森を見ながら、ふと、杏珠は室内に違和感を覚える。
さっき、部屋を出たときと何か違う。
……先ほどまで大きな金庫が半分ほど見えていたが、今は衝立の位置が移動して見えなくなっている。恐らく、常日頃はその位置に置いているのではないだろうか。
(今さら隠さなくてもいいのに)
ちらりとそんなことを考えつつ、嶋津森に勧められたソファに腰を下ろす。
先ほどと同じようにその向かいに座った嶋津森は、眉尻を下げて申し訳なさそうに肩をすくめた。
「それよりも遅いといえば……杏珠君を家まで送るとは言ったものの、いつもより帰宅が遅くなると富久さんが心配するだろう。先ほど、使いの者を出しておいた。そろそろ、葉良君も来るとは思うが……すまんね」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
嶋津森の用で逓信省にいると知ったら、きっと富久はビックリすることだろう。あとで質問攻めにされそうだ。
(せやけどこの件、無事に解決出来たとしても……なんや機密事項っぽいし、富久には話したらアカンのかなぁ?)
あとで、どこまで富久に話して良いか確認せねばなるまい。
富久だけでなく、明日、学校へ行けば必ず環にも聞かれる。嶋津森が全部片付いたあとに家へ帰って、環と話をすることが出来れば問題ないだろうが……はたしてどうなるだろう?
ほどなくして扉を叩く音がし、案内の者と一緒に和服姿の男性が現れた。
年は四十代くらいか。
やや広めの額には汗が光っていて、急いで来たものと思われる。真面目そうな男性だ。
「ああ、またご足労を願って申し訳ないな」
「いえいえ、他所へ出ているときでなくて、ようござんした」
嶋津森は戸口まで行き、葉良を迎えた。そして案内の者を下がらせる。
それまで自分が座っていた杏珠の向かいの席に葉良を座らせ、自分は部屋の隅に置いてあった小さな腰掛けを持ってきて、対角に座った。
男性は嶋津森に頭を下げて座ってから、目の合った杏珠にニコッと笑った。
「可愛らしいお嬢さんですな。……初めまして、葉良商会の葉良栄蔵と申します」
杏珠がどこの誰かは分からなくても、この部屋にいることから丁寧な対応をした方がいいと判断したのだろう。名乗ったあと、もう一度、丁寧に頭を下げる。
杏珠は自分も名乗った方がいいのか、ちらっと嶋津森を見た。
嶋津森は頷き、口を開いた。
「この子は私の縁者でね。いろいろと知識が豊富なので、仕事を手伝ってもらうことがあるんだ。今日も少々、手伝ってもらっている。……それで、また同じことを聞くが、五日前のことについて……」
「不備はないということでしたが、やはり何か問題があるんでしょうか?」
五日前と聞くなり、葉良は不安そうに表情を曇らせた。杏珠が身を取り出す。
「いいえ、嶋津森侯爵が昼間に尋ねた件とは別件です」
名前を名乗らないままだが、葉良が深く聞いてこなかったので杏珠はそのまま要件を話すことにした。
「……実はその日、私は嶋津森侯爵の元へ使いの者をやりまして。でも侯爵は不在だったため、使いの者は秘書官の布寺枝さんに私の伝言を伝えたらしいのです。でも、侯爵は布寺枝さんから何も聞いてないと言うし……布寺枝さんは今日はお休みで確認できないため、葉良さんにこうやって尋ねることになってしまいました。ごめんなさいね。使いの者は一時少し前に来たはずなんですが、顔を合わせませんでした?年配の、真っ白な髪の男性です」
葉良は目を瞬かせた。
杏珠の説明した内容を飲み込むためだろう、しばらく目線を彷徨わせる。そして「うーん……」と呟きながら、顎を撫でた。
「あの日、私が布寺枝さまと会っていたときは誰も来ませんでしたなぁ。……えーと、私がこちらへ伺ったのは十二時四十分頃でした。私は懐中時計は持っていませんが、布寺枝さまが部屋の時計で時間を確かめられたので、確かです。私は一時過ぎだろうと思っていたのに、思っていたより早かったため余計に印象に残っております」
杏珠は片手を頬に添え、ふうと溜め息をつく。
「まあ、そうですか。使いの者はそそっかしいので、間違えたのかしら……。ちなみに布寺枝さんは、一度も部屋を出られなかったんですよね?」
「あ、いや……終わり頃に少し席を外されましたよ。別室の資料を取りに」
「何分ほど席を外したか、分かります?」
何時ではなく何分という質問に、葉良は特に引っ掛かった様子もなく困ったように眉尻を下げた。
「申し訳ない、実はあのとき、急な頭痛で少しぼうっとしていた部分がありましてね。あまりはっきり覚えておらんのです。でも、部屋へ戻ってこられた不寺枝さまが時計を見て、「こんな時間か、次の予定があるから今日はここまでで」と仰って……それがちょうど二時五分でした。「一時間以上、話し込んでしまった」とも仰っていましたし……そうですね、五分も席は外していないと思います。つまり二時頃のことなので、お嬢さまの使いの方とは会っておられない気がしますねぇ」
「そうですね。……それにしても、急な頭痛ですか?大丈夫でしたか?」
「ええ、あのあと、仕事を切り上げて帰って寝たら、すっきりしましたよ!少し睡眠不足だったようですなぁ。不寺枝さまにも心配を掛けてしまったようで、本当に失礼をしました」
ははは、と後頭部に手をやって葉良が笑う。
目尻が下がって、人の好さそうな顔がますます優しげになる。杏珠もにっこりと微笑み、両手を合わせた。
「寝不足が原因だったのなら、良かったです。……あら、そうそう!不寺枝さんのお部屋でお茶は飲まれませんでした?ほら、あの苦いお茶。あれを飲んでいたら、きっと葉良さんも目が覚めましたのに!」
「え?……ああ!そういえば、頂きました。確かに苦いお茶でしたね……いや、しかし、どうやら私には苦みが足りなかったようですな」
「ふふふ。だとしたら、葉良さんはやはり働きすぎですね!……ありがとうございました。使いの者は、間違えて違うところへ行ったのかも知れません。帰って、もう一度話を聞いてみます。わざわざご足労頂いて、本当にごめんなさい」
聞くべきことは聞いたので、杏珠はスッと立ち上がり、葉良に向かって丁寧に頭をさげた。
葉良もホツとしたように立ち上がり、手を振る。きっと、何か問題があって呼ばれたのだと思っていたのだろう。
「いやいや、そんな、このくらいのことで頭を下げて頂く必要もありません。たいしてお役にも立てず……」
「いいえ、布寺枝さんがおられないので、助かりましたわ」




