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大正ロマネスク事件簿  作者: もののめ明
四、時間稼ぎの侵入者

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19/23

 事の起こりは、ある男を捕らえたことだった。

 その男は、極秘資料の写しとみられるものを持っていた。

「その書類は、とある省庁から私が預かったものだ。私しか持っていない。受け取ったのは、五日前。朝、この部屋でそれを受け取り、その日の夕方から奥の資料室で保管をしている」

 資料室は監視の目があり、保管後、誰も触れていないのは確かだと言う。

 杏珠は不思議そうに尋ねた。

「どうして、書類を受け取ってすぐに資料室へ置かなかったんですか?」

「そうだね、それは私の手落ちだったと思うよ。そもそもその日、私は一日、予定もなくここで仕事をする筈だった」

 だった、という表現に杏珠は眉を上げる。嶋津森は頷いた。

「そう、その書類を受け取ってしばらくしてからかな……午後に客が来ることになったんだ。客というか、総理がね。我が省庁の見学をすることになった。前々から、一度逓信省を見学したいと仰られていたが、なかなか時間が取れず、たまたまあの日、午後から空いているというので、こちらへ来られることになったんだ。ということで、私は総理を案内するために一時間ほどこの部屋を空けた」

 ただし、と嶋津森は続ける。

「預かった書類は、鍵の掛かるあの机の引き出しの中に入れておいたがね」

 彼が指したのは、窓の前の大きな机だ。

「私が部屋に戻ってきたとき……引き出しの中の書類は特に動かされた様子は無いように見えた。ちなみに机の引き出しの鍵は、実はその隣の引き出しの中にある文箱に仕舞っている。それを知っているのは、布寺枝(ふじえだ)君だけだ」

「少し不用心ですね」

「今となってはそう思うよ。で、布寺枝君だが……」

 嶋津森は腕を組み、ソファの背もたれにもたれて上を見た。

「私が部屋を空けた時間は、昼の一時前から二時過ぎまで。そして布寺枝君も……ちょうどその時間帯に客を自分の部屋に迎えていた。彼が会っていたのは、うちの省に書類用紙を納めている業者でね。葉良(はら)商会という業者だ。来年から書式を変更する件で、話し合いをしていたらしい。受付に確認したところ、確かに五日前の午後、葉良商会の葉良君がうちの省に来ていた」

「その話し合いは、以前から予定されていたものですか?それと、葉良さんと秘書官の方は個人的に親しいですか?」

 杏珠の問いに、嶋津森は目を瞬かせる。少し考え込み……首を振った。

「葉良君を呼んで話を聞いたんだが……うん、そういえば、急に呼び出されたと言っていたな。昼過ぎに来てくれと言われたと。それと、葉良商会は今年採用したばかりの業者だ。妻のみさをの伝手だよ。秘書官のために嘘を言うことはないと思う」

「そうですか」

 杏珠は頷き、話の続きを促す。嶋津森は軽く咳払いをして続きを語った。

「ま、後はそんなに話すことは無い。結局、その日、私は書類が盗み見されたとは思わず、夕方に書類を机の引き出しから資料室へ移した。そして、その書類の写しを持った男が捕らえられ、今日、私に知らせが来たという訳だ。そこから犯人探しに奔走している現状だよ」

 最後に両手を広げ、"お手上げだ"というように首をすくめる。

 杏珠は視線を上の方に彷徨わせつつ、「では、いくつか質問をしていいですか?」と尋ねた。嶋津森は「もちろん!」と大きく返す。

 相談した以上、否である訳がない。

「入って書類を見るだけなら、短時間でも出来ますよね?この場で写せなくても、記憶して、後で書き写せば良いのではありませんか?」

「覚えておけるような量ではないのだよ。用紙二枚分、数字や文字の羅列でね。間違えると意味のないものもあるので、原本を見ながら書き写す必要があるだろう。どれだけ早く書き写せたとしても、二、三十分は要すると思われる」

「そうですか……。その書類がおじ様の元にあることを知っているのは、秘書官の方以外には?」

 嶋津森は腕を組んで少し考えた。

「……あの日、下の受付にいた者は知っておるだろうな。書類を持ってきた者が私に面会する手続きをしたはずだから。そこから、伝聞で聞いた者もいそうだ。詳しく調べた方が良いかな?」

「いえ、それは必要ないです。つまり、省内で極秘書類のことを知っている者は、それなりにいたってことですね」

「うむ。ただ、それを資料室へ移すまでどこに置いていたか知っているのは、布寺枝君だけだね」

「なるほど。そこまで状況は揃っているのに……客がいたという一点で、秘書官の方を犯人だと断定出来ないのですね」

 問題点を整理して、杏珠はふむふむと一人納得した。嶋津森は重い息を吐く。

「そうなんだよ。彼は伯爵家の出でね。政界の大物とも繋がりがあるから、捕えて尋問という訳にもいかん」

 困ったことだよと呟きつつ、嶋津森は窓の方を眺めた。

「知らせを受けて帰ってきてから、布寺枝君には"総理が来た日に君は何をしていたのだったか……"と軽く尋ねたが、それ以上は問い詰めておらん。そして今、彼は別件で他省へ使いに行ってもらっている」

「では」

 杏珠は人差し指をふっくらした唇に当て、小首を傾げた。

「もう一度、秘書官の方が会われていた商会の方を呼んで、私から話をさせてもらえませんか」


 葉良商会の葉良を呼んで連れて来るまで、少し時間が開くため、その間に杏珠は(かわや)を借りることにした。

 女性用の厠は一階にしかないというので、階段へ向かう。

 階段を降り始めたところで、下から上がってくるベストを着た洋装の精悍な男に気付いた。

 二十代半ばか後半くらいだろうか……有馬に劣らぬ長身で鍛えられた身体だ。端正な顔立ちをしているが右目の上に傷があり、少しだけ近寄りがたい雰囲気もある。

 スッと彼の視線が杏珠を射抜いた。一瞬で心の底まで見透かしそうな鋭さに、どきっとする。

(軍人さん、かな?)

 彼から感じるピリッと肌を刺すような気配にそんなことを思う。

 そして男を気にして意識が散漫になっていたせいか。急に足元がもつれ、杏珠はバランスを崩した。

「あっ……」

 足の怪我の件もあり、普段、杏珠は階段を下りるときは必ず手摺りを掴むようにしている。

 だが、こんなときに限って手摺りからは離れていた。

(落ちる……!)

 受け身の取り方も分からないので、思わずぎゅっと目を瞑る。

 が。

 ドン!

 硬いけれど、痛くはない何かが杏珠を受け止めた。

「……?」

 恐る恐る目を開くと……目の前に黒い服地があった。

 ゆっくり顔を上げると、先ほどの男と目が合う。彼が杏珠を受け止めてくれたらしい。

 先ほどまでのピリッした気配はなく、心配そうな顔付きで杏珠を見降ろしていた。

「大丈夫か?」

「あ……は、はい。おおきに!よ、良かったぁ、頭から落ちるかと思った……」

 思わず安堵して、後半は溜め息のように呟く。階段から落ちる経験は、一度だけでいい。

 男は杏珠の言葉に、軽く笑った。最初、近寄りがたいと感じたはずなのに、笑うと驚くほど少年っぽい柔らかい印象になった。

「鼻緒が切れたようだね」

「へ?」

 男に言われて、杏珠は足元に視線を向ける。

 片方の草履がどこにも無い。

「そこの手摺りを持って、片足で立っていられるかな?」

「えーと……はい、立てます」

「では、ちょっと待っていてくれ」

 頷いた男は、丁寧な手付きで手摺りのそばまで杏珠を導く。

 そして、さっと階段を下りた。

 踊り場に、杏珠の草履が転がっている。

 男が拾って戻ってきたものを見ると、確かに鼻緒は切れていた。さっき、杏珠は足がもつれたと思ったが、鼻緒が切れたために転げそうになったらしい。

 男は膝を付き草履を脇に置いて、ポケットから白いハンカチを取り出す。

 躊躇いなくハンカチを裂いて捻り、それを横緖に引っ掛けて前壺に通した。手慣れた手付きで草履に応急処置を施した男は……さらに「失礼」と言って、杏珠の足にそれをそっと履かせてくれた。

(ひぇぇ。こ、こんな丁寧な扱いされたん、初めてや……!)

 杏珠の周りにいる男性といえば、父に有馬、嶋津森くらいである。

 父ならばこういうことをしそうな気もするが、有馬や嶋津森は絶対に無理だろう。特に有馬は草履を直すどころか、破壊してしまいそうである。

「痛くないか?」

 まだ膝をついたまま男が尋ねてきたので、杏珠は慌てて首を縦に振った。

「はい、全然きつうないです。ほんま、おおきに!」

「京都出身?」

「え?……あ!」

 東京に来てから、杏珠は親しい人以外にはなるべく関西の訛りを出さないようにしていた。

 だが、それを忘れて素で喋っていたらしい。思わず口元を押さえて、気不味そうに言い直した。

「あの……鼻緒はちょうど良い具合です。どうも、ありがとうございました」

 すると男は目元を緩め、ふいに破顔した。人懐っこい笑顔である。

「はは!言い直さなくても意味は分かるよ。京の言葉は、柔らかい雰囲気で良いな」

「いや……どうやろ、うちのは京言葉やないかも。大阪の言葉も混じってるねん」

 訛りを隠して答えるのも変かと思い、杏珠はいつも通りの口調で返す。

 男は楽しそうに目を煌めかせて「へえ、そうなのか?」と言いながら立ち上がり、「俺には、違いは分からないなぁ」と、手を差し出してきた。

 一段下に立っているのに、それでも杏珠よりかなり高い。

 杏珠は手の意味が分からず、首を傾げた。

「えーと、お代?」

「……なんの?」

「草履修理代」

「あはは!こんな応急処置で金を要求するのか?そうじゃないよ、下まで手を貸すという意味だ」

 合点がいって、杏珠は手を振った。

「おおきに。でも、要らへん。もう、こけへんから」

「そうか?」

 ところが、そう言って踏み出したら、すぐによろけた。

 とはいえ今度は手摺りを持っていたので、転げることはない。どうやら、さっき躓いたせいで元々具合の悪い足の傷に障ったらしい。

 男が再び、手を差し出してきた。

「危なっかしくて見ていられない。こういうときは、遠慮なく甘えたらいい。君みたいな可愛い子に頼られたら、男は誰も断らないよ。……ああ!抱えて降りる方がいいかな?」

「嫌や!……手も、要らへん。こういうときって言うけど、いつでも誰かが助けてくれる訳やないでしょ。せやから、私は他人に頼らへん生き方をしてるの」

 男が親切で手を貸そうとしてくれているのは分かるが、杏珠はムッと口を尖らせた。

 そんな杏珠の態度に気を悪くした風もなく、男はにこにこする。

「そうか。でも意地を張るなら、もう少し体を鍛えた方がいいかな」

「はいはい、これくらいでよろけるなんて軟弱やって思ってるんやね。しゃあないやん。足が悪いんやもん」

 フンッと顔を背け、杏珠は慎重に階段を下りる。

 もちろん、手摺りはしっかりと握って。

 男は、ハッと表情を改めた。

「足が……悪かったのか。失礼した。ではやはり、手を貸すよ。君には不要かも知れないが、俺が気になって仕方がない。ここは、どうか草履の修理代だと思って受け取って欲しい」

「えええ?どんな修理代?!……んもう、うちは自立した女を目指してるのに」

 ブツブツ言いつつ、杏珠は溜め息をついて手摺りを持っていない方の手を男に出した。

 このまま言い争っても無駄な時間を消費するだけだと瞬時に悟ったからだ。こういう紳士的な男は、存外、面倒くさい。

 なので。

 男の手を借りつつ階下まで下りて、下りるなり杏珠は頭を下げた。

「おおきに。……そしたら、これでもう結構やから」

「いや、でも」

「あんまりしつこいと、変な下心があるんかと疑うで?」

「……わかったよ。じゃあ、気をつけて」

「はいはい、了解!ほんなら、さいなら」

 笑顔で手を振り、さっさと杏珠は男と別れた―――。

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