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親友の嶋津森環から、新しいレコードを買ったので一緒に聴こうと誘われ、上壱條杏珠は学校帰りにそのまま環と共に嶋津森家へ向かった。
そして嶋津森家の応接間でレコードを聴きながら、優雅にお茶やお菓子を頂く。
結局、音楽を聴くよりも環とのお喋りに散々興じ……さて、そろそろ帰ろうかという頃合いに。
環の母みさをが、困った顔で現れた。
「環。ちょっとお使いを頼まれてくれないかしら」
「まあ、お母様。わたくし、杏珠を送ったら、そのあとは薙刀の稽古へ行く予定ですわ。お使いは、他の者に任せてくださいな」
お使いの内容も聞かずに環がにべも無く断る。
途端にみさをは、きゅっと眦をつり上げて娘を睨んだ。みさをは環に似た切れ長の目の美人なので、そんな顔をすると迫力がある。
「薙刀、薙刀と、貴方という子はそんなに強くなってどうするのです。……お父様の仕事場へ届け物をするだけですよ。ちょっと回れば終わる話なのですから、行きなさい」
「まあ、それならなおのこと、わざわざわたくしが行くことでは……」
「お仕事が忙しくて、お父様は今夜は帰れないのですって。頑張ってくださいねと愛娘が顔を出したら、どれほど喜ぶでしょう?……はい、お父様の着替えです。任せましたよ」
「ちょっとお母様!」
環の抗議空しく、みさをは強引に風呂敷包みを押し付けて、さっさと出て行く。
環は憮然とした顔で押し付けられた風呂敷包みを見た。
「んもう!可愛い娘じゃなく、愛する妻が持って行くのでもいいじゃない!どうしてわたくしが……」
「環。薙刀の稽古に間に合わへんのやったら、うちは歩いて帰るから構わへんよ」
まだ、そんなに遅い時間ではない。のんびり歩いて帰っても問題はないと杏珠が横から提案する。
しかし、環は首を振った。
「いいえ、わたくしが杏珠を誘ったのですもの。お家に送るまでがわたくしの務めですわ。薙刀のお稽古まで、まだ時間はあるから気にしないで頂戴な。……というよりね、お母様はわたくしをお父様の職場へ行かせたいのよ」
「そうなん?」
「そう。わたくしが婚約話を蹴ってばかりだから、お父様の職場で、いい方に見初められないかと期待しているの」
そんな都合のいいことなんて、あるはずもないのにと環は笑う。
しかし環は、スッとした一重の整った顔立ちをした日本美人だ。学校近隣の年若い男性達から、注目の的になっていることを杏珠は知っている。父親の職場で、未婚男性が環を見初めるのも有り得ない話ではないと思う。
「まあ、いいわ。杏珠、少し回り道になるけれど、お父様の職場に寄ってから一丁倫敦のアパートメントへ行く形で良いかしら?」
「うん、分かった」
送ってもらう身で否やは無いので、杏珠は素直に頷いた。
木挽町にある逓信省へ。
赤白の煉瓦で造られた立派な建物の前で杏珠と環は馬車を降りた。ここが環の父、嶋津森俊親の職場なのだ。
入ってすぐの受付で環が名乗ると、受付の若い男性は慌てたように直立不動の姿勢になった。
「こ、これはこれは!嶋津森大臣のお嬢様ですか!……大臣は今日は午後から内閣府へ行かれていて……ん?何?違う?」
男性の後ろから、別の年配の男性が彼を引っ張って慌てて「違う、違う」と遮った。
「すぐに内閣府から戻ってこられて、調べ物をなさってるんだ。今はお部屋におられるはずだぞ」
「そうなのか?……あ、す、すみません、大臣は上の階におられるようなので、自分がご案内いたします!」
「ええ……ありがとう」
本当はここで父への荷物を渡して、さっさと帰りたかったのだろう。しかし、男性の勢いに言い出せなかったらしい。環にしては珍しく歯切れの悪い返事をして、そのままちらりと杏珠に視線を送る。
杏珠は小首を傾げて、環を見返した。
「一声掛けてあげた方がおじ様も喜ぶと思うし、行ってきたら?うちはここで待ってるわ」
「いやぁよ。杏珠も付いてきて頂戴」
「……環の大売り出しなんやから、一人の方がええんと違う?」
「ちょっと!わたくしは大売り出しされたくないの!杏珠を盾にするつもりで一緒に来てもらったのよ?」
「えっ、そうやったん?……うちなんか、盾にならへんのに」
環に負けず劣らず周囲の視線を集める可愛らしい容姿をしていることに自覚のない杏珠は、真面目な顔でそう返す。
環は鼻で笑って、杏珠の袖を取った。
「一緒に!行くわよ」
「はぁい」
(まあ、環じゃなくうちを見初める奇特な人なんているはずがないから、えぇか)
心の内でそう呟いて、杏珠は環と一緒に男性の案内で嶋津森侯爵の元へと向かった―――。
二階にある大臣室の辺りは、下の階とは違って静かだった。
しかし扉の前には、警備をしているらしい人間が一人立っている。
案内してくれた男性は、その扉脇に立つ厳つい男性に、「嶋津森大臣のお嬢様が来られました」と小さく告げた。警備の男性は、さっと姿勢を正して環に頭を下げる。
「今、大臣に確認しますので、少しお待ちください」
堅苦しく告げ、中へ。
しばらくして、男性と共に嶋津森も出てきた。普段、嶋津森家で顔を合わすときと違って、やや険しい顔をしている。厳つい顔なので、そんな顔だと小さい子供は怖がりそうだ。
しかし環と杏珠を見て、嶋津森は目元を緩ませた。
「環!わざわざすまないな。おや、杏珠君も一緒か」
「ご機嫌よう、おじ様」
にこっと杏珠が挨拶すると、嶋津森はふと思案顔になり、顎に手を当てた。
「そうか。せっかく杏珠君が来たのなら……ちょっと話を聞いて貰おうかな」
「はい?」
「環。お前は、今日は薙刀の日だな?……杏珠君は私があとで家まで送るから、お前はこのまま稽古へ行きなさい。杏珠君。すまないが、中へ。少し知恵を貸してくれんかね?」
思わぬ事態に、環と杏珠はそっと顔を見合わせた。
部屋の中はやや雑然としていた。
入って正面の窓際に大きな机。
その前には来客用のソファ、横の壁にはたくさんの書類が詰まった棚が並んでいる。片隅には、衝立の陰に大きくて立派な金庫も見えた。
嶋津森に促されて、杏珠は恐る恐るソファに座る。
嶋津森は杏珠を座らせたあと、窓際の机に広げてあった書類を片付けてから、そそくさと杏珠の正面に腰を下ろした。
「済まないね、杏珠君」
「いえ。何かあったようですけど……うちが伺っても構わないような問題ですか?」
なんとなく、嶋津森の空気がいつもよりピリピリしている。居残って仕事をするというのだから、何か大きな問題が起きているはずだ。
嶋津森は苦笑した。
「うん……部外者には話せない件なんだがね。いや、それどころか今は部下にも隠して私一人で調べておるんだ。とりあえず、少しぼかして説明させてもらう。……要は、この部屋は鍵を掛けていたんだが、侵入して書類を盗み見した者がいるらしい。鍵を使わずに簡単に開けられる方法を知っているかね?」
杏珠は目を瞬かせた。
振り返り、扉の鍵を見る。そして、そちらを見たまま質問を口に出した。
「侵入者が入ったあと、鍵は開いたままでした?それとも、鍵は掛け直されていた?」
「鍵は掛かっていた。おかげで私は、侵入した者がいたことに気付かなかったんだよ」
やや苦いその口調に、杏珠は扉から嶋津森へ視線を移す。
「……ちなみに侵入されたのは夜中か、人の多い昼間のどちらか、見当は付いていますか」
「昼間だ」
「じゃあ……おじ様の懸念通り、内部犯の可能性が高いと思いますけど」
あっさりと嶋津森の懸念を見破り、そう告げた杏珠に……嶋津森は目を見張って「そうか」と力無く呟いた。
そのまま顎に手を当てて考え込むが、しばらくしてハッと顔を上げる。
「ああ、すまん。つい考えに耽ってしまった。……私が内部犯を疑っていることは、杏珠君にはお見通しだったようだね」
「人目のあるなかで鍵を使わずに開け閉めするなんて……まあ、出来ない訳やないと思います。けど、やっぱり難しいことでしょう。それより鍵を使ったと考える方が、普通は自然です。でも鍵を持ち出せる人が、限られているんですね?それで、おじ様は外部犯の可能性がないか知りたかった」
「その通りだ」
苦い顔になって、嶋津森は肩を落とした。
「この部屋の鍵は、私と秘書官の布寺枝君が持っている。予備の鍵が階下の守衛室にもあるが、それは鍵の掛かった棚の中だ。誰にも知られず無断で持ち出すことは無理なんだよ」
口髭を無意識に撫でながら、嶋津森は思わしげに扉を見やった。
「つまり、もっとも疑わしいのは秘書官になる訳だ。彼のことは信用していただけに、とても遺憾な話でね……。もしかしたら、違う可能性があるのではと考えていたんだ。それと、彼は私がこの部屋を空けていた時間、他の人間と会っておったようでな。書類を写す時間が無かったはずだから、彼が犯人と断定するのも少し難しくてな……」
「念の為に伺いますけど、おじ様が鍵をどこかへ置いていたということは無いんですね?いつも持ち歩いておられた?」
「ああ、常に身に付けていたよ」
杏珠は右の人差し指を唇に当て、しばらく宙を見つめる。
んー……と呟きながら、改めて嶋津森に視線を向けた。
「でも、おじ様って、秘書官の方が犯人だともう確信してません?」
嶋津森は苦笑した。
「そうだね。九割、彼が犯人だろうと考えている。彼と話をしたとき、いつもと違ってやや落ち着きがなかったからね……ただ証拠もないし、人と会っていたのも事実だ。私の勘だけで、彼を犯人とすることも出来ないだろう?」
ハハハ、杏珠君に隠し事は出来んなぁと笑って、ふと、嶋津森は真剣な顔になった。
身を乗り出し、声をひそめる。
「杏珠君に不要なお願いだと思うが……もう、ここまで話してしまったことだし。他言無用で謎を解いてくれるかね?」
「もちろん、おじ様。おじ様にはお世話になっていますから!」
ポン!と胸を叩いて、杏珠は嶋津森からの頼みを快く引き受けた―――。
第四話は、週1更新予定です




