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芥河原家の客間に入り、杏珠は改めて装飾品の数々に視線を送った。
見事に高価で豪華な品々ばかりだ。あまり統一性がなく、それぞれの良さが消えてしまっている気がするが。
───黒くなった絵の謎を解くことになって一週間後のことである。
客間には、杏珠の他に芥河原男爵、男爵の娘・佐江、画商の尾嘉田、環、そしてもう一人、体格の良い眼鏡姿の男性がいた。
「それで」
芥河原が最初に口を開いた。
「黒くなった原因は、なんですか?」
「その前にこちらを見ていただけますか」
杏珠は飾り棚から視線を芥河原へ移し、体格の良い男性に向かって合図した。
嶋津森家の運転手をしているという眼鏡に鳥打帽のその男性は頷き、脇に抱えていた紙を広げる。
……和服姿の物憂げな女性の絵が二枚。ポスターだ。どちらも夢二の絵である。
「尾嘉田さまはお答えしないでくださいね。……さて、芥河原男爵。どちらの絵を購入なさいました?」
「え?……こっち…………ですかな」
「本当に?」
「着物の色が確かこの色だったと……」
目をすがめ、ポスターに近寄る。杏珠は、芥河原の横にいる尾嘉田に声を掛けた。
「では、尾嘉田さん。芥河原男爵にお売りになった絵はどちらですか?」
問われて、尾嘉田は困ったように手を揉みしだいた。
「尾嘉田さん?」
「あの……あの、どちらも違います」
「え?」
芥河原が間抜けな顔で傍らを振り返る。
尾嘉田は身を縮めて、もう一度小さな声で「違います」と呟いた。
芥河原が憤然とした様子で杏珠に向き直る。
「どういうことですかな。私をからかっておられるのか?」
「いえいえ。確認をしたかっただけですよ。男爵が絵を覚えておられるかどうか」
「……買う前に、夢二の作品をたくさん見たんですよ。それと勘違いしただけだ」
「なるほど」
芥河原の苦し紛れな言い訳に、至極真面目な顔で頷き、杏珠は北の壁に掛けてある日本画を指した。
「ちなみに、絵が黒くなる前の日の夜も、この部屋には入られていますよね?この、新しい額縁を見るために」
「ええ、まあ……」
また杏珠が何か意地の悪い質問をするのではと用心しているのだろう、芥河原は言葉少なに答える。
「そのとき、夢二の絵は確かに男爵が購入されたものでした?」
「何を……そんな、さっき間違えたからとはいえ、失礼じゃないですか。私が買ったものでしたよ」
「そうですか」
杏珠は頷き、ポスターを広げていた運転手に壁の黒くなった絵を下ろすよう指示する。
運転手はポスターを卓の上に置いて、壁の絵を下ろした。杏珠はそれを受け取り、簡易の額を外す。
「ああ、やっぱり。紙が……和紙じゃないですね」
「それはどういう意味……」
「夢二の肉筆の日本画でしょう?日本画なら、普通は和紙を使用すると思うんですが」
杏珠の台詞に、尾嘉田が顔色を変えた。杏珠の元へ駆け寄り、絵の端を触る。さらには顔を寄せ、血走った目で絵の裏面を凝視した。
「ああ!本当だ。これは……あたしが売ったものじゃないですよ!」
「馬鹿な。入れ替わっていたと言うんですか?では……では、絵が黒くなったのではなく、誰かが絵を盗んだと?!」
芥河原は愕然とした様子で唸り、ハッと顔を上げた。
先ほど杏珠が確認したことの意味に気付いたのだ。
「そうか……前日。前の日に、絵をすり替えたヤツがいるんだな」
「ええ、まあ……そういうことですね」
「どいつですか、それは!」
「待ってください。たとえ前日に絵が入れ替えられていたとしても、翌日に黒くなるなんて……どんなことをすれば、そんな事態になるんですか」
芥河原と尾嘉田が二人揃って杏珠へ迫る。
杏珠は二人の勢いに押されながら、「まあまあ」と宥めた。
「まずは、黒くなった原因を説明しましょうか。───それは、硝酸銀を塗ったからです。いや、もしかすると塩化銀の方かな?」
「ショウサン……エンカ……ギン?」
芥河原がいぶかしげに呟き……尾嘉田を振り返る。視線を向けられて、尾嘉田はぶんぶんと首を振った。
「あ、あたしも知りませんよ!そのナントカ銀を縫ったら……黒くなるんですか??」
杏珠はにっこりと頷いた。
「写真の原理をご存じですか?硝酸銀の感光性―――光が当たると黒くなる性質を利用しているんです」
「えーと、つまりその……」
「光の強弱の変化で像を写しとるということです。でも、そのままでは駄目なのですよ。現像、定着という作業が必要でして。まあ、詳しい仕組みはいいでしょう。ともかく、仏蘭西のニエプスという方が光で黒くなる性質に着目し、塩化銀で処理した紙に画像を映し出す実験に成功しました。ところが、です。そのまま置いておいたら、時間の経過とともに真っ黒になってしまったのですね」
「真っ黒に……!」
男達が顔を見合わせる。
「ええ、そうです。……今回、こちらが黒くなった原因は、それと同じではないかと思われます。硝酸銀が光に当たると黒くなる性質を利用したのでしょう」
ほう!と感心したように相槌を打ったのは、黒い絵のそばに立つ嶋津森家の運転手である。環が慌てて「静かに」というように人差し指を唇に当てた。
芥河原は鼻息荒く頷き、杏珠へ近寄った。
「なるほど、時間が経って黒くなった原因は分かりました。それで……一体、誰なんです、こんな巫山戯た悪戯をしたのは?そして、本物の絵はどこに!?」
「落ち着いてくださいませ」
「落ち着いてなど、いられるか!犯人も分かっているなら、さっさと教えていただけますかな!警察へ突きだしてやる!」
興奮している芥河原に、杏珠は頬に手を当てて困ったように首を傾げた。
「そうですねー……何故、絵が黒くなったかの原因はお教えしましたが。何故、このようなことが起きたのか、その原因を芥河原様がお分かりにならない限り、答えは言えませんね」
「なっ……!」
芥河原は絶句し、立ち尽くした。信じられないという様子で杏珠を見つめる。
しかし、すぐに顔を真っ赤にして眼前のほっそりとした少女の両肩をがっしり掴む。
「あんた!犯人をかばうつもりか?!」
「お父さま!」
「ちょっと、何なさるの!!」
佐江の悲鳴と環の鋭い声。同時に環は芥河原の手首を取って捩じ上げる。
「痛っ……!」
片手を捩じられただけだが、芥河原は驚愕の表情で杏珠の肩から手を離した。
環は男に鋭利な眼差しを向け、厳しく言い立てる。
「紳士としてあるまじき振る舞いですわ。あなた、屋敷を麗々しく飾り立てるより前にご自身を磨いた方がよろしいのではなくて?高価な美術品に釣り合わなくて滑稽ですよわよ」
「あ……いや……つい、カッとなって……」
「言い訳など不要です。たとえカッとなろうと、女子供相手に居丈高になるなんて、いい年をした大人が最低ですわ!」
自分の娘と同じ年頃の少女からきつく叱られ、芥河原は酸欠のように口をぱくぱくさせた。そこへ、笑い含みの声が掛かる。
「ふふふ……環、お説教は構わないが、そろそろ手を離してやりなさい。あまり力を入れ過ぎると折ってしまうぞ」
「あら、失礼。……というより、お父様。口を挟まないという約束ではございませんでしたか」
捩じり上げていた手を離し、環は小さく息を吐いてからゆっくりと振り向いた。
絵のそばにいた鳥打帽の運転手は、帽子を脱ぎながら芥河原の方へ歩を進める。
「うむ。黙っているつもりだったが……いささか力が入り過ぎているようでな。流石に見過ごせなんだ」
「え……?嶋津森……侯爵……??」
すっと顔色を無くして芥河原が呟く。
最近男爵になったばかりでは、近くで嶋津森侯爵と顔を合わせる機会などなかったためだろう。己の記憶を探るようにまじまじと侯爵を見つめたあと、忙しなく環と交互に見比べる。切れ長の一重の目、すっきりした鼻筋……どことなく相似性のある容貌にごくりと喉が大きな音を立てた。
「芥河原男爵」
人を従わせることに慣れた深みのある低い声に、芥河原が無意識に直立する。
「は……はいっ」
「まずもって、婦女子に乱暴な行いや物言いをすることは日本男児たるもの、為すべきではない。恥じなさい。そして……私は武よりで芸術のことは疎いが、美しい物への敬意は持ち合わせている。君は少々、それが足りないのではないかね?」
「……」
「杏珠君。この絵が黒くなった原因は、つまりはそういうことだろう?」
私には分かったぞと満足そうな笑みを浮かべる嶋津森に、杏珠は苦笑して頷いた。
「ええ、そうです。……それ、侯爵がお答えになっては意味がないんですけどね?」




