⑤その後の俺
次の日、島村のいる一学年下のフロアへ行った。島村のいる教室を覗くと、下級生たちが不思議な顔をして俺を見ていた。
教室に女子の姿はなく、島村がいないのを確認し踵を返すと、廊下に彼女はいた。
「あ、島村…」
彼女とは本当は親しい間柄であったが、中学でのことと、高校での野球部の一件で、その関係は壊れていた。
「…何ですか」
島村は小さな声で、俺とは関わりたくない感いっぱいな雰囲気を出していた。
「鯛焼き屋の深谷さんって知ってる?」
俺がそう言うと、島村は怪訝な表情をして言った。
「深谷さんがどうかされたのですか」
「いや昨日、飲んだんだ」
「深谷さんとですか?お酒を?」
「そ、そう」
「深谷さんと…。だいたい高校生なんですから、飲んだ話とかされても困ります」
「いや、俺は酒は飲んでないんだ」
「で、深谷さんの何の話ですか」
「いや、その深谷さんと飲んでね」
「深谷さんはもういませんよ。去年亡くなりました」
「…」
島村とはこれ以上、話し難かった。そんな彼女のいる野球部に戻るなんて、とても考えられなかったし、呼ばれることもないだろうと思っていた。
この高校の野球部は、かつて軟式野球で全国大会出場経験のある強豪校であったが、人が減り弱くなり、今では休部状態で、学校の統廃合から廃部になるとのことであった。しかし、最近では活動を再開しているようであった。
校舎を出てグランドを見ると、数人の野球部員がキャッチボールをしていた。俺には誰も野球部の話をして来ないが、風の噂で今の野球部の姿は聞いていた。最後に一度だけ試合をして終わりたい。しかし、人数が足らず探しているのだとか。
弱い野球部では、ちゃんとやらない奴らに嫌気がさして、厳しさが下手な奴や下の子を虐める結果となり、俺が辞めれば丸く収まる格好となり、俺は辞めていた。
俺にはもう関係なかった。そんな時、岡澤からラインが入った。
「昨日失敗したから、今夜またやろうぜ」
オヤジ狩りのことであった。俺は溜息をついた。
「昨日の未遂で警察が張ってるからマズイよ。一週間はみんなでうろつかない方がいいと思うよ」
毅然と断れず、そんな遠慮がちな返事しかできなかった。
帰り道に商店街の鯛焼き屋へ行くと、シャッターが閉まっていた。隣りの漬物屋のおばさんに鯛焼き屋について聞いた。去年、店主が体調を崩して休業し、そのまま亡くなり閉店したと聞かされた。
俺は宙に浮いたような感覚で帰宅した。かといって、昨日の話をオカルトには思えなかったし、今後は既に話した島村以外の誰にも、家族にも、この話をしないことにした。
数日後、教室の戸が開くと、知らない男性が俺の名前を呼んでいた。
「鈴江くん?」
男性は宮本といい、三十代半ばの野球部の臨時顧問とのことであった。私を近くの喫茶店に連れ出し、ケーキセットを前にして、話は野球部に戻らないかということであった。
この人も何故か俺に野球をやるように言ってきた。もちろん野球部に人が足らず、ピッチャーをやれる人間もいなかったからであろう。最後に試合をするのに俺が必要なだけだろう。
素直になれなかった。俺はこの宮本さんがどうこうより、野球部との確執、いや、どちらかというと、バツの悪さが俺の中で葛藤していた。
おっさんの言葉を思い出した。
「もう一度、今の高校で野球をやりなさい。今後、何かの縁で君に声がかかるから、その声を素直に聞いてくれ。それが君の今後のきっかけだ」
翌日、私は練習着を来て、部員たちの前に立っていた。彼らから許されるまでに時間がかかりそうであったが、気付いたらみんなと走っていた。
一時間後にはバッティングピッチャーをしていた。投げれる人がいなく、バッティング練習ができていなかったという。
翌日には、何人かから挨拶してもらえるようになった。数日後には金属バットを持って岡澤たちがケジメを取りに来て、腕を折られかけたが、宮本さんが盾になってくれ、話はきれいに収まった。
一ヶ月後には、練習試合でピッチャーをしていた。接戦で勝利もした。それから大敗して心が折れかかるが、勝ったり負けたりしながら、ピッチャーをやらせてもらった。何より仲間と親しくなっていくことが嬉しかった。
四ヶ月後には、本大会でピッチャーをしていた。素晴らしい試合をさせていただいた。確執のあった仲間らが本当の仲間になった。俺は野球に満足した。青春は手品師だと教わった。
それから一浪したが大学を出て、大手建設会社へ就職した。人並みになることができた。今、さらに幸せに向かっている。
しかし、仕事はしんどく、人間関係には嫌になることも多い。仕事は残業も多く、終電、いやそれ以上に遅い時間になる時もある。そんな時におっさん…。いや、深谷さんから聞いた鯛焼きの話を今でも思い出す。
深夜まで営業している話である。深谷さんの店は終電から三十分後くらいまでやっていたという。深谷さんはその理由をこう話していた。
「深夜の終電後に俺の店の前を通る人は、サラリーマンが多く、飲んだ帰りか、残業帰りの人がほとんどで、だいたいみんな疲れている」
「『およげ!たいやきくん』って歌は知ってる?昔の子供番組の歌でね。店で焼きながら、ラジオから流れたその歌を聴いていたら、思った事があるの」
「その歌は、店主とケンカした鯛焼きが、自由を求めて海に出るけど、海の中では自由な反面、苦労も多く、そんな葛藤の中で、騙されて釣り上げられ食べられたって話なんだ」
「サラリーマンの歌なのかなと思ってね。夜中の終電後に店の前を歩く人を見てたら、歌のように海に飛び込みたいけど、なかなかね…みたいな」
「そんな中で、疲れた時、嫌なことがあった時、はたまた良い事があった時、甘いものを食べたい時、コンビニには甘いものも売ってるけど、暖かい鯛焼きなんてないよね」
「だから、残り物を売るように見せて、半額にして並べたんだ。みんな匂いに釣られて、何となく立ち寄り、値段見て嬉しそうに買ってくれたんだ」
深夜営業の初日に、嬉しいことがあったから甘いものを食べたいという女子がいて、鯛焼きがあるなんてさらに嬉しいと感激してくれたという。それから深夜営業を続けたということだった。
嬉しそうに話す深谷さんが目の前にいるようである。たった一回、数時間の深谷さんとの時間が、俺の人生のかけがえのない時間となった。
深谷さんは、なぜ俺の前に現れたのだろうか。なんて考えるのは野暮である。
そして、もっともっと前に深谷さんに会いたかった。その巡り合わせも運命なのかな。
深谷さん。
「ありがとうございました」




