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④希望

「希望?」

 意味がよくわからず、俺は空の鍋の向こうのおっさんに聞き返した。俺の顔はしかめていたと思う。


 おっさんは焼酎のお湯割りと俺にコーラを注文すると、改めて言った。

「そう。希望。君の希望。やりたいこと。口に出さなくてもいい、それを素直に受け取るんだ」


「人には希望があるが、だいたい叶わない。叶え方もなければ、ほとんどは生まれ持った運勢ともいうし、それはわからないんだ」

 意味がわからないが、おっさんは続けた。


「俺も甲子園に行けるとは思ってなかったし、プロ野球選手になれるとも思ってなかったし、怪我するとも思ってなかったし、最後は鯛焼き屋だなんて夢にも思わなかった」


 おっさんは出てきた焼酎とコーラを受け取り、コーラを俺の前に置いて言った。

「でもね。甲子園は目指したし、その機会があってプロ野球選手を選んだし、プロでスポーツをする以上は怪我も付いてくる。辞めることになり、何かやらなきゃならない中で、鯛焼き屋という場があり、それをやりたくて選んだ。振り返れば、物事はどんな結果でも、こちらが選んだ結果であるんだ」


 俺も小学生で野球を始め、自分の力を知り、中学でそれを活かし、たくさんの選択肢に恵まれた。プレッシャーから休みたくなり、方向を狂わせてしまい、選択肢を失った。そして、高校へ行き野球部に入るも辞めて、今では犯罪までしている。


 おっさんは頷いて俺の話を聞いていた。一通り聞き終えると言った。

「君は一つ一つの場面で、自分に真剣だったはずだ。でも運命の結果が今なんだよ」


 そう言われてしまうと、自分の運命が暗く思えてきた。目の前が暗くなった。おっさんは俺の目を見て言った。


「だから、未来は今なんだということをわかってほしい。未来は変えられるんだ。暗い未来なんて始めっからはないんだ。今、明るい方向へ向ければ、未来はきっと明るくなる。今の行いを意識するんだ」

 さらに、つゆだけで空になった鍋を指差して言った。


「この具のない鍋に、これからお米を入れて雑炊にするように」

 そして、おっさんは雑炊を頼んだ。おっさんのボケなのか、話と関係があるのか、意味がわからなかった。


「君は野球はやりたい。でも、甲子園に行くのも、プロ野球選手になるのも、そこまでやるつもりはなかったのでは?そこまで興味がなく、その方向が不安だったのではないかな」

 おっさんが言った。

 そう言われて考えてみれば、そこにいる自分が描けず、想像できなかったのかもしれない。


「甲子園は場違いであって、プロ野球選手は身の丈に合わないというか、そんな遠慮があったのかな」

 おっさんはそう言うと、焼酎に口を付け続けた。だからといって、あのような結果を選んではいないが、頭に描いたためにそれが選択肢に入り、運命があのような結果とさせたのかもしれない。


 俺は野球が人より長けていたから、素敵に思える未来が映ったけど、どこか素敵すぎる未来に自信がなく、そこから逃れるために道を外したのだろうか。


「たぶんそうだったんだよ。だから今、幸せな未来を想像して、意識してあげてくれ。自分のことを考えてあげなよ」

 おっさんは駄目押しで俺の心の内に触れた。


「君は今の自分が不安だろう。いつまでもオヤジ狩りなんてやってられないだろ。そんな仲間たちといるのも不安だろう」

 おっさんは酒が回ったのか、ズバズバ言ってきた。


「逮捕されたらどうなる?相手を死なせたらどうなる?返討ちにあって、君が片輪になるかもしれないし、死ぬかもしれない」

 おっさんはさらりと言った。


「これらは、今君がやってることで、今描く選択肢の一つでもある。これからは君の未来の一つだ。運命はその中から結果を選択するのだから」

 今の行いで、未来は良くも悪くもいくつも描かれるとして、運命がそのどれかを選択するのだと言う。


 おっさんは頷くと言った。

「自分を知ることだよ。運命を受け入れるんだ。まだ十七歳の君には厳しい言葉だが、今の君にはそれが必要だと思う。とにかく素敵な未来を描くんだ」

 それは夢も希望もないのではなく、幸せになるための言葉だったと、この先大人になって知ることとなる。


 おっさんは焼酎を飲むと、もう一杯注文して言った。

「君に二つの嘘をついているんだ。一つは俺の息子だ」


 俺はおっさんの息子が気になっていた。やはり元プロ野球選手なら、息子には野球をやらせてるのかなと。しかし、嘘とは何だろうか。おっさんの次の言葉を待った。


 おっさんの顔が悲しく曇ったのを感じた。おっさんはさっきまでのトーンとは打って変わり、静かに言った。

「息子はね。中一になる時に亡くなってしまったんだ」

 それを聞いて俺は言葉を失った。


「だから、息子が十四歳は嘘なんだ。今も生きていればの歳なんだ」

 おっさんはそう言うと微笑んだ。それは息子の成長を見つめるような微笑みであった。


「小学生の息子は、少年野球の人気者で中学生では地元で有名なピッチャーの君に憧れていた。君の背中を追いかけていた」


 当然、俺はそんなことは知らなかった。気付いていなかった。俺の背中を追いかけていた少年がいたなんて。


 おっさんは息子の話を楽しそうに話した。息子が初めて自分が焼いた鯛焼きを食べた時のこと、ボールを投げた時のこと、ユニフォームを着た時のことを、楽しそうに話に織り交ぜていた。


 息子の初めてが自分の初めてであり、息子が自分の全てであったという。そんな息子が憧れたお兄ちゃんが俺だったという。


「だからという訳ではないが、君の未来は明るいものであって欲しいんだ」


 俺は微妙な気持ちだった。この深谷というおっさんはどこまで俺を追い込むんだ。と、現実を疑った。夢なのか。俺は回りを見回した。


 しかし、ここは普通の駅前の居酒屋で、来たことのある店であり、目の前にはオヤジ狩りで捕まえたが、実は近所の鯛焼き屋だという禿げた小太りのおっさんがいるだけであった。しかも、声をかけたのは俺の方である。


「島村舞さんは知ってるよね?」

 おっさんは亡くなった息子の話の後に、地元の女子で、高校の後輩でもある野球部のマネージャーの名前を出した。


「二つ目の嘘の話ですか?」

 俺は島村の名前から、今度はどんな嘘だろうかと思った。まさか島村の親父さんとでも言うのであろうか。しかし、二つ目の嘘についてではなかった。


「舞ちゃんはね。うちでバイトしてたんだ。だから、君のことは聞かされていたんだ」

 おっさんは、島村から今の俺のことを聞かされていたことを知った。何故か俺のことをよく知っているなと思っていた。


 おっさんは島村について続けた。

「舞ちゃんはね。息子が亡くなってから、よく声をかけてくれてね。バイトと言ってはよくお手伝いしてくれたんだ。優しい子だよね」


「野球大好きな女子だからこそ。彼女は野球を大事にしてたよ。聞きたくないと思うけど、君のことは残念がっていたよ」

 俺はホントに聞きたくなかった。


 島村に関しては、裏切った感が大きく、今でも学校で会うのが嫌だった。だいたいどうしてわざわざ工業高校なんかに来るんだとも思っていた。


「鈴江くん。だから、今を大切に生きるんだ。やり直すんだ。君の未来は今だ。今をどう生きるかで、君の将来は希望に満ちて幸せになるから」

 おっさんはそう言って、「今なんだよ」と机に指を立てた。


「もう一度、今の高校で野球をやりなさい。今後、何かの縁で君に声がかかるから、その声を素直に聞いてくれ。それが君の今後のきっかけだ」

 おっさんがそう言ってこの場は終わった。


 居酒屋を出ると店先で俺は、おっさんにご馳走になった御礼をした。


 おっさんは気持ちのいい夜だなと深呼吸をした。そして言った。

「あ、もう一つの嘘」


「あ、聞いてませんでした。何です?島村が娘とか?笑」

 俺はふざけて言った。


 おっさんは笑いながら言った。

「俺はもうこの世にいないんだよ」

「怪談話ですか」と俺が笑うと、おっさんも爆笑していた。


 おっさんは、「じゃ、またね。もう襲わないでね。俺はもう一軒行くから」と踵を返した。俺は改めて御礼を言うと、「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。


 頭を上げると、その先におっさんの姿がなかった。走って消えたとも思えなかった。しかし、そこにおっさんはいなかった。

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