「フェミニストを前線に送れ」について
フェミニズムが浸透し、男女平等についての議論が進む今日、あらゆる分野において性別の話題がでる。
ロシアの軍事侵攻に抵抗するウクライナのニュースについて、インターネットでこのような意見が出た。(詳細は失念したので主張だけ)
「日本で戦争が起きたら、いつも男女平等を訴えてるフェミニストはちゃんと前線で戦えよ。」(意見①)
少し話が変わる。
先日、3月8日は国際女性デーであった。世界で男女平等について考える日であり、日本でも新聞各社は特集記事を組んで男女平等を訴えた。このような議論において必ず目にする言葉がある。
「○○(政治家や管理職など)における女性の比率が少ない!」(意見②)
フェミニストを小馬鹿にするような意見①とフェミニストを擁護している意見②は全く対極の意見に見えるが、実は根底が同じである。
それは、、
両者とも過程の平等ではなく、結果の平等を見ているということである。
「過程の平等」と「結果の平等」。
分かりやすく言い換えれば「スタートの平等」と「ゴールの平等」である。
(男女に限らず、平等の話をするときには「どちらの平等か」ということを意識するべきである。)
さて、「男女平等」という時の平等はどちらの平等が良いか。
私は「スタートの平等」で考えるべきであると思う。
具体的に言えば
・国会議員の男女比は異なるが、立候補の条件に男女差はない。→男女平等である。
・東大生の男女比は異なるが、受験者の条件に男女差はない。→男女平等である。
・某大学の医学部生の男女比は異なる。女性受験者は5点減点される。→男女平等ではない。
ということである。
では、男女平等が「ゴールの平等」であった場合、どうなるのか。
「先生!なんで成績2位の私が成績優秀者として表彰されないんですか!?」
「成績優秀者は『男女平等』のため女1名男1名が選ばれる。だから、1位の花子と3位の太郎が選ばれた。」
「なんで得票率2位の俺が落選して、得票率3位のあいつが当選しているんだ!」
「政治家女性比率の『平等』のためここの選挙区からは男性1名女性1名が当選するんだ。」
とまあこんな事態になってしまうのである。
自分が「男だから」「女だから」選ばれないのは逆に男女差別であるし、選挙の例に至っては「一票の格差」問題で騒いでいる現在が可愛く見えるほどの完全な憲法違反である。
改めて、以上のことから私は男女平等は「スタートの平等」であるべきだと考える。
しかし、今の社会はどうやら違うらしい。
マスコミやTwitterでは管理職に占める女性の割合が低いことを騒ぎ立て、官僚の会議があると出席者が全員男であることを嘆く。世界の政治家は人気取りのために「女性だから」という理由だけで実績がない女性政治家を大臣に抜擢し、自民党の女性議員は「自民党は古い!党の重役に女性を増やせ!」と言う。
あげくの果てには「20××年までに女性○○の割合を△△%にしよう!」という主張が飛び交っている。
女性の皆さん。これを見て何も思わないか。私が女性だったら激怒する。これはあまりにも女性に失礼ではないか。「実力だと女は男に勝てないから男が下駄履かせてやるよ。」と言っているようなものではないか。
それに、自分が男だからという理由で理不尽な評価を受けてしまういわゆる逆差別も起きてしまうかもしれない。
最後に私の主張をまとめる。
男女平等は結果・ゴールではなく、過程・スタートでなされるべきである。
だが、現在の社会の平等は前者の平等を意識しているように見える。これは私は表面上を取り繕っているようにしか見えない。これは男性への逆差別、性別への意識の逆効果(ex「女性だから」昇格)などを生み出す恐れがある。
今の世の中には様々な「平等」が溢れている。
だが「平等」だから素晴らしい、というわけではない。
その「平等」は妥当なのか?
ここを意識して見るべきであろう。
以上です。
お読みいただきありがとうございました。
※以下補足というか余談というか。
上の私の主張にはこのような反論(というか批判?)が予想される。
→過程が平等なら結果に文句をつけるなってことでしょ?受験が平等なのに女子東大生の割合が少ないのは女性の自業自得で自己責任ということね!そんなこと言っているから女子東大生の割合は少ないままなんだ!
私の意見に従うと受験の条件は男女平等であるので、極端な話東大合格者が全員男になっていても「男女平等」である、となる。
これは男女平等の観点から見て問題はない。
「さすがに東大生全員男だったら、、」と思った方、男女平等の問題にしないで欲しい。
「スタートの平等」にした結果、それでも男女比が明らかにおかしくなってしまう。
これは「男女平等」とは別の問題。社会の問題である。
「女性は専門学校、短大でいい」「専業主婦でいい」「男と違って年収で見られないからいい大学に行かなくてもいい」といった社会通念。(今の若者には古くなってきているが。)
「女性は看護婦や介護士、保母が適職だ。」「一般企業行くの?じゃあ事務職か」といった価値観。
もっと根源的なことを言えば「メスは協調、オスは競争」といった動物的本能。
過程・スタートの平等を批判するならば、
公平に選ばれた上で、それでも政治家や管理職の女性の割合を気にするならば、
上記のような「社会の常識」を根底から作り替えて、「社会」そのものを今一度考えなければならない。そのようなことをせずに、表面上の割合に一喜一憂する。そんなことをしているままでは、この国は10年後も20年後も男女平等の議論をしているだろう。
余談まとめ
男女平等はスタートの平等である。
仮にスタートを平等にした結果、性別で理不尽な差が出てしまった場合、ゴールを平等にして安易に取り繕うのではなく、社会そのものの変革が必要である。
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