7.そうして白羽の矢は立てられた
今回は少し長いですが、お付き合いいただけると嬉しいです。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
紗奈が今いる世界には4つの季節と12の月があり、月には呼び名がついている。順に冬月(1月に相当)、晩冬(2月に相当)、早春(3月に以下略)、春月、晩春、初夏、夏月、晩夏、初秋、秋月、晩秋、初冬と呼ぶ。各月には30の日があり、1年は360日だ。紗奈のいた世界より5日短い。
この世界には日本にはなかったものがたくさんある。なかでも驚いたのが魔法と魔法具の存在だ。紗奈は子供の頃から歴史や偉人の伝記が好きで、牛若丸とブッダの伝記はボロボロになるまで読んだ。逆にファンタジーやサイエンスフィクションは現実とかけ離れた世界観が苦手で、ほとんど読んだことがない。
だから1年2か月も昏睡状態にあった自分が、魔法で命を保っていたと聞かされてもピンとこなかった。でも受け入れるしかない。エナ(エドウィナ皇女)には魔力がなかったようで、紗奈も魔法が使えない。だが専属の魔法師コルトがいるので、スニシャいわく不自由はないそうだ。
紗奈が最初に世話になった魔法具は装着用トイレだ。目覚めてしばらくの間、尿意や便意をもよおしても筋肉が衰た紗奈は自力で排泄が出来なかった。それを補助してくれたのが装着用トイレだ。形状は中世史の本の挿絵で見た貞操帯が一番似ている。これを毎晩の入浴後にスニシャとミルヤが取り替えてくれた。
しくみについては、全くわからない。吸い取られた尿や便がどこかに消えるだけ。いつも清潔で臭いもなく、これは寝たきりの身には本当にありがたい魔法具だった。
歩行練習を始めた頃、やっと弟妹たちと対面した。エナは長女、次女はすでに嫁ぎ、次は第一皇子、その下に第三皇女、最後が第二皇子の順番だ。第二皇子で最後だと思ったら、なんと皇后は6番目の子を妊娠したという。なんでも紗奈が目覚めた喜びで、皇帝と久々に盛り上がったらしい。夫婦仲がよくてなによりだ。
弟妹たちと会う前に、スニシャから知っておいた方がよいことを何点か告げられた。なんと私には(正確にはエナには)婚約者がいた!国益のために生れてすぐに決まった婚約で、相手はクライストン帝国の皇太子。18歳になったら輿入れするはずだった。
ところが嫁ぐ直前、エナは事故で昏睡状態に陥った。いつ目覚めるかわからない。そこで皇女が目覚めるまで待つか、代わりに第二皇女が嫁ぐかの2択を提案すると、皇太子は第二皇女との婚姻を選んだ。こうして16歳だった第二皇女は姉の代わりに嫁いだのだ。
生れた時からの婚約者なら、少なくとも1年くらいは義理で待つとか言って欲しかったなあ、皇太子さん。
ちなみに妹と皇太子の夫婦仲は、政略結婚とは思えぬほど円満らしい。すぐに第一子の皇子も誕生したと聞いて、なんだか少し複雑だ。生れてすぐに決まった婚約なら、婚約期間は17年あったわけで。エナと皇太子にはその17年の間に、何の感情も芽生えなかったのだろうか。
紗奈は初めてエナを可哀想だと感じた。
リハビリに励み、この世界のことを知る努力を重ねて3年後。紗奈は日常生活を普通に送れるようになった。王宮を出て、どこかで働きたかったが、皇女という身分が邪魔をしてその希望は叶えられなかった。
紗奈は王宮内にある庭園が美しい離宮を与えられ、そこで静かに暮らすことになった。生きる目的も希望も見いだせない生活は苦痛でしかなかった。気を紛らわせるものがなければ、四六時中、翔太のことを考えてしまう。翔太を思うと胸が苦しい。何年経っても苦しい。感情があるから苦しいんだ。だったら感情を持たなければいい。
紗奈の顔から笑顔が消え、感情が抜け落ちた顔は無表情になった。
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オルドネージュ皇国の皇后アリシアは、北王国の出身だ。北王国の女性は多産系だ。雪に閉ざされる冬は長く、娯楽もないので子だくさんになるのは自然の摂理だ。
北王国は美人の産地でもある。アリシアは100年に1度の美貌と謳われ、オルドネージュ大皇国の皇帝に乞われて皇后として迎えられた。婚礼の儀で初めて巨躯でいかつい顔の皇帝と対面した時は、こんな熊男が夫になるのかと自分が哀れで泣いた。
ところが閨での皇帝はそれはそれはやさしくアリシアの身体を開き、宝物のように扱った。蕩かされたアリシアはすぐに心を開き、夫婦仲はとてもよい。連戦錬磨の血塗られた皇帝アルダールをアディーと呼べるのは皇后だけだ。
「ねえ、アディー。エドウィナが子供を欲しがっているとスニシャから報告があったの。」「子供か。何人、欲しいんだ?」「それは、出来れば出来るだけ欲しいんじゃないかしら。」「ふむ。では目ざわりだった東北の小国を滅ぼして、子供を全員オルドネージュに連行するか。」
アリシアは夫と話が全くかみ合っていないことに気づいた。
「アディーったらもう。エドウィナが子供を生んで育てたがっているという話よ。」
「そそそそそ、それは・・・いや、だめだ。ダメだダメだ、エドウィナはまだ子供だ!!」
皇帝はかなり慌てているようだ。長女のエドウィナの年齢を忘れるほどに。皇后は心配そうに皇帝を見ながら言った。「私たちとっては確かに子供だけど、あの子は25歳の大人の女性なのよ。アディー、そろそろ真剣にエドウィナの女としての幸せを考えてやらないとね。私たちのワガママで、いつまでも離宮に閉じ込めておくわけにはいかないわ。」
「我が大皇国の第一皇女だ。しかるべきところじゃなければ、嫁にはだせん。25歳の皇女に釣りあう独身の王族は、我が国にはいない。クライストン帝国の皇弟大公は大公妃を病気で失くして以来、独身だと聞く。」
「アディー、クライストンの大公はあなたより年上よ。」皇后は首を横に振る。
「クライストンには独身の皇子は残ってないしなあ。お前の実家、北王国の第三皇子はどうだ?確かまだ独身だったろう。」「アディー、あの子はまだ10歳よ。」「子供が欲しいエドウィナにはピッタリじゃないか。とりあえず結婚して、小さいうちは子供がわりにして、大きくなったら夫にすればよい。」
皇帝アルダールは、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。皇后の冷たい視線が怖い。
「ねえ、真面目にエドウィナの幸せを考えて。とにかくオルドネージュの第一皇女としてふさわしい嫁ぎ先を見つけてちょうだい。側室も後妻もダメよ。」アリシアが厳しく注文を付ける。
アルダールは領土拡大のために、中央大陸で滅ぼした国を心の中で数えた。『マズい、滅ぼし過ぎた。娘の嫁ぎ先としていくつか遺しておくんだった・・・』
1人で冷や汗を掻いていると、アリシアが突然「ねえ、北王国の隣国はどうかしら?」
「北王国の隣国といえば、サイラスか?小さい国だぞ。」
「あの国は森林や山があるから、北王国よりは大きいですわ」アリシアがツンとする。
「そうか、サイラスか。では、前向きに考えてみるか。」
「そうしましょう。お父さまにもサイラスの国王やその兄弟のことを調べてもらいます。」
こうしてオルドネージュ大皇国の皇帝夫妻の閨から飛び出した白羽の矢は、サイラスに向かって立てられた。