4.目覚めたら皇女さまって呼ばれました
「おかーしゃん、お日さまあったかいねえ。」
舌っ足らずな声。膝の上に感じるその重みが愛おしくて。風のない4月の公園は、春の陽気に溢れて暖かい。紗奈は膝の上にちんまりと座る息子の体を抱きしめながら、クンクンと翔太の頬や首の匂いをかぐ。自分でも変態っぽいと思うけれど、翔太からは甘い幸せの匂いがするのだ。
「おかーしゃん、くしゅぐったい」翔太がきゃーっと笑い声をあげた。翔太はよく笑う。翔太には可愛いがたくさん詰まっている。晴れた日にこうして近所の公園で翔太とひなたぼっこをするのが、今の紗奈にとって至福の時間だった。
夫の啓太が家に帰ってこなくなってから、半年が経つ。最初は仕事で忙しいから会社に泊まるとレインがきた。大変だね、頑張ってと返信しても既読はつかなかった。それから何度も会社に泊まるようになり、去年の10月にはついにレインもなく帰ってこなくなった。
それでも夫婦の口座には毎月お金が振り込まれた。ところが年が明け、2月になると振込が途絶えた。レインをしても既読はつかない。啓太の会社に電話をしたら、会議中だから折り返すそうですと事務らしい女性から言われた。その日はずっと待っていたけど、ついに夫から折り返しの電話はなかった。
とりあえず、会社には行っているんだ。妙なところに安心した。電話をかけた次の日、母に翔太を預かってもらい、夜に会社まで啓太に会いに行った。昼間は暖かかったのに、夜は冷たい風が吹いて寒くなっていた。紗奈は会社が入っているビルのエントランスホールの隅のベンチみたいな椅子に座って啓太を待った。
1時間以上待ったころ、啓太らしい男性がエレベーターから降りてきた。声をかけようとして、足が止まった。女性と一緒だったから。会社の人かな。でも、なんとなく声をかけずらい雰囲気だ。紗奈は二人が出ていくのを少し見送ってから、あとを追った。
会社ビルのエレベーターから降りてきてから、ずっと肩を並べて歩いていた二人。それがビルが見えなくなったあたりで、女性が啓太の腕に自分の腕をからめ、甘えるように啓太の顔を見あげた。
紗奈はカッと頭に血が上って叫んだ。「人の夫に何してるの!?」でも、声が出なかった。ただ立ち尽くして、腕を組んだ二人が夜のざわめきに消えていくのを見ているしかできなかった。
実家の母は早く離婚して帰っておいでと言う。でも、紗奈には離婚する気がない。だって啓太が帰ってこなくなった理由をちゃんと知っているから。あの夜見た女性は関係ない。全部自分が悪いと紗奈は思っている。だから悪いところを直せば、啓太は帰ってくる。
家事と育児に没頭し、啓太を男として見ることを忘れた自分が悪いんだ。帰ってきたくなる居心地の良い家庭を作れなかった自分が悪い。片付けても、片付けても子供のおもちゃでゴチャゴチャした部屋。化粧っけのない顔にひっつめ髪で上下スウェットの妻が待つ家になんて、帰りたくないよね。
でも、化粧したくても鏡に向かう時間が惜しい。おしゃれをしたくても、啓太が結婚前にステキだと褒めてくれたワンピースで家事はできない。日中は楽な服を着て、啓太が帰宅する前に着替えることも考えた。でも家事はエンドレスに終わらないし、夕方には疲れて着替える気力もない。
なんでうまく家事ができないんだろう。なんでいつも時間が足りないんだろう。なんで啓太は手伝ってくれないんだろう。なんで啓太は・・・
「おかーしゃん、みてみて。」自分でも気付かない内に、深い物思いに沈んでいたようだ。翔太が注意を引くために紗奈の膝から立ち上がろうとしていた。バランスを崩したら、危ない。慌てて紗奈は翔太の両脇に手を入れて抱き上げ、そっと地面に下ろした。
春の公園はポカポカとして気持ちがいい。まだ帰宅するには早い。「翔太、おかあさんとお散歩しようか。」「うん!」ようやく紗奈の注意が自分に戻って安心したのか、翔太が嬉しそうにうなずいた。「おしゃんぽ、だいしゅき。」
今月もお金が振り込まれなかった。結婚前に貯めていたお金で、あと何ヶ月もつだろう。貯金が無くなる前に、啓太に帰ってきて貰おう。啓太も翔太のお父さんなんだから、もっと家のことを手伝ってくれたらいいのに・・・。ああ、ダメダメ。こんなことを考えるから、啓太は帰って来なくなったんだ。
紗奈の思考はぐるぐると同じところを巡る。紗奈の意識が自分からまたそれたのを敏感に察して、翔太はつないでいた手を離した。
「おかーしゃん、みてみて。」手をつないでいたはずの翔太の声が、少し遠くから聞こえる。どこ?どこ?軽いパニックになってあたりを見渡すと、ジャングルジムの下の段に翔太が足をかけているところだった。あんなに小さい体で補助もなく登るのは無理だ。紗奈は焦って「翔太、そのまま!動かないで!」と叫んでジャングルジムに向かって走り出した。
その時。公園内を猛スピードで走り抜ける迷惑自転車に、気付かなかった。そして。地面にたたきつけられた紗奈が最後に見たのは、自分のもとに駆け寄ってくる誰かのスニーカー。違う、私が見たいのは翔太なのに。翔太・・・
◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇●◇
頭が痛い。背中も痛い。鋭い痛みではなく、鈍い痛み。意識が戻ってきて最初に感じたのはそんな痛みと、なんとも言えない不快感、そして全身のダルさ。ああ、ロキソニンが欲しい。家にまだ残っていたかな。
紗奈はゆっくりと目を開けた。ここはどこだろう。病院?でも病院特有の匂いや音がしない。そうだ、翔太!翔太はどこ?こうしてはいられない、すぐに翔太を探さなきゃ。ベッドから起き上がろうとして、紗奈は愕然とした。自分の体なのに動かない。力が入らないのだ。
体を起こすのはあきらめて、腕だけでも動かそうと試みて気付いた。自分が寝ているのは家のベッドじゃない。家の布団カバーはこんなに上質じゃない。これは肌触りがとてもなめらかだ。やはりここは病院なのだろうか。
紗奈が腕を動かそうとして、布団とシーツがこすれてシュッシュッと音をたてた。それに気付いたのか、頭上から「お目覚めになられたのですね!!」という女性の悲鳴に近い声が降ってきた。
次いで、同じ声が「ミルヤ、皇女様が目を覚まされたと両陛下にただちにお知らせを!早く!」と命じる。すぐにバタバタと誰かが走り出ていく足音が聞こえた。
みるやって、かわった名字ね。それとも下の名前かな。それに皇女さまとか両陛下って・・・りょうへいかって天皇と雅子さま?じゃあ皇女さまって愛子さまなの?え?
混乱している間に女性がベッドの傍らにひざまずいて、紗奈をのぞき込んできた。その外国人みたいな外見に違和感を覚えた。目には涙が浮かび、両手を祈るように胸の前で組んでいる。「ああ、神様。ありがとうございます。本当に、本当にお目覚めになられたのですね、皇女さま。」
だれ?!この人、知らない。外国人に知り合いなんていないもの。それよりも翔太、翔太はどこ?私のことより、翔太は?一人で泣いていないだろうか。
「しょ・・・し・・・」翔太はどこって聞こうとしたが、うまく声が出ない。もどかしい。
と、ドドドドドっと足早に駆けてくる何人かの足音が聞こえてきた。頭に地味に響く。病院であんなに足音高く走るなんて、非常識にもほどがある。と思っていたら、扉が勢いよく開いて、その足音が部屋に飛び込んできた。
「エドウィナ、目が覚めたのか!」
「ああ、私のむすめが、やっと・・・」
室内に駆け込んできた足音や声などが頭に響き、紗奈は顔をしかめた。それに陛下って天皇と雅子様のことじゃないの?どういうこと?ここはどこ・・・?
紗奈は混乱のあまり、再び意識を失った。