第8章 第5節 赤い糸に導かれて~二人の距離
ヒロトは今、階段を走って降りている。
ヒロトは巫女が最後に言っていた言葉を思い返した。
彼女が待っているだと。
もう、とっくにユカリは帰っているはずだ。階段ですれ違い、別れてから30分は経過しているんだぞ。もうとっくにいないはず。
なのに、なぜ俺は走る。あんな見習いの子供の巫女の言うことなんて、俺は信じているのか。
そう思いながらも、それでもユカリを追いかける。
俺はそんなに信心深くない。永森神社にも『運命の赤い糸伝説』や『恋愛成就の女神伝説』が言い伝えられているが、俺はそんなのは迷信だと思っていた。
もし、神仏がいるなら不幸な俺を助けてくれて、俺はとっくに幸福になれたはずだ。
だけど、今は、その迷信でもなんでもいい。今だけは当たってほしい。今だけは。
ヒロトは、走っているときにも彼女の数年間の気持ちがストレートに伝わってくるようだった。
『俺のために。俺の為に。何もわかっていなかった俺の為に絵を描いてくれ、そして俺のためにずっと祈ってくれてたんだな、ユカリ・・・』
ヒロトは涙を浮かべながら階段を走って降りていった。
『もう、ユカリはとっくに帰っているはずなのに。俺はユカリの実家もおばあちゃんの家も知らない。ユカリの電話もメールもとっくに繋がらなくなった。今しか、この階段でしか、もうチャンスはない。
ひょっとしたら、万が一、あの赤い風船を取ったときのようにユカリがひょこっとあらわれるかもしれない。
あの場所なら...あの場所なら、ユカリが待っているかもしれない』
いつの間にかヒロトは、10年前、ユカリと始めて出会った階段の踊り場に向かうように走っていた。
そんなわずかな可能性を信じて、ヒロトは階段を下りていった。
・・・
彼女は今、踊り場にいる。ユカリはなぜ、まだ、踊り場にいるのか。
今から約30分前、ユカリは、ヒロトと別れた後、そのままおばあちゃんの家に帰ろうと階段を下りていた。中間地点の階段の広い踊り場の近くまで来たときだった。
踊り場の木に何かがひっかかっているのが目に入った。
それを見るとなんと赤い糸だった。
『え?』
ゆかりはびっくりした。赤い糸が木の枝から垂れ下がっていた。
ユカリはその木の真下に辿り着いて、赤い糸が垂れている上の方を見上げた。
それは赤い風船だった。遠くからでは風船は枝や葉で隠れてて見えなかったが、木の真下から見てそれが赤い風船だと気づいた。
「赤い風船、なんでこんなところに」
ユカリは、そこから軽くジャンプして木にひっかかっている風船をキャッチした。
「確か、10年前も赤い風船を拾ったな。あれ、
そういえば、この木って...」
そうだ。10年前、ユカリが風船をひっかけてしまい、ヒロトに風船を取ってもらったあの木だった。
ユカリはキャッチした赤い風船を眺めていた。
『あのとき、どんなに跳ねてもとれなかった風船がとれるようになったんだた。そういえば私も、あれからずいぶん背が伸びたんだっけな』
ユカリは、当時を思い返していた。そして、ヒロトがすぐそばにいて、ヒロトに語りかけるかのように思いのなかで語った。
『ヒロト、私ね、中学1年の時にヒロトとこの階段で初めて出会ってね。そしてヒロトに一目ぼれしたんだ。
それでね、私はヒロトを好きになることで、女らしくなりたいって思った。本気でヒロトに振り向いてもらいたかった。だからおしゃれもして、そして、中学3年のときにね、また神社でヒロトと再会できたね。
でも、ヒロトったら、そのときもまるで私を子供扱いしていたっけな』
『私はヒロトが今でも大好き。でも、それ以上にヒロトに幸せになってほしかった。私以外にヒロトを幸せにできる女性がいるなら、辛いけどそれでもいい。でも・・・ほんとは、また一緒に絵を描きたい。そしてそばにいてほしかった。
でもヒロトは、この赤い風船のように私の届くところにはいない。ヒロトはもう私の届かない遠くに飛んでしまったんだよね・・・』
ユカリは目を潤ませながら、赤い風船を眺めていた。
『ヒロトはもう戻ってこない。でも、万が一、ヒロトがあのときのようにいきなり駆けつけて風船を取ってくれる、いや、私をつかまえてくれるかも・・・。
ひょとしたら・・・ヒロトが追いかけてくる...かな』
ユカリは、そんなかすかな希望を心に抱いて、その踊り場でしばし、たたずんでいた。




