第5章 第2節 揺れる思い ~ だ~れだ!
女性には全く奥手だけど、仕事に一途で一生懸命なヒロトに、明日香は深く恋するようになった。
明日香はヒロトを眺めて思った。
『今、ヒロトに本気で恋している。今までは、お姉さんがなんとかしなければという気持ちの方が強かったかもしれない。今もそれはあるけど、それ以上にヒロトを愛している。ヒロトに会えない日は、胸が苦しくなる...
仕事はできるのに、どこか不器用で世間知らずのところがある。若くして会社を立ち上げたのに、けっして自慢せず、謙虚。
朝は寝ぐせをして通勤することもある。でも照れるとかわいいところがあるし、女性が困ると本当に一緒に悩んでくれる。ヒロトって母性本能をくすぐるところもあるのよね..』
ある日、レストランで食事中のこと。
明日香は、ヒロトに語りかけた。
「ねえ、ところで、ヒロトって女性から頼まれると何でも『はいはい』って引き受けてしまうタイプでしょ」
「そう見えます?」
「見える」
「そうかな~」
「そうよ」
「ヒロトって優しいから、けっこう社内の女性の間でも評判なんですよ」
「そ、そうなんですか?」
ヒロトは、女性からそのように見られていたことに全く気づかなかった。きっと、つまらない奴と思われていたと思っていたが、なんだかんだ言って社会人の女性は最終的には仕事ができるしっかりした男性を恋人に選びたくなるものだった。
「あと、ヒロトってめったに女性に怒ったりしないでしょ」
「そんなことないですよ~」
そのとき、ヒロトはまた脳裏に浮かんだ。
ユカリとの別れのときだ。このときだけは本当に怒ってしまった。過去に一番大切な人に一度だけ怒ったことがあった・・・苦い経験だった。
「明日香、ほんとうにありがとう。俺、本当に感謝しているよ」
「ようやく、自然に明日香って呼んでくれるようになったね」
明日香はにこっと笑った。
・・・
そして、時はすぎ、明日香に初めて食事に誘われてから1年が経とうとしていた。
ヒロトと明日香の交際は順調だった。仕事の都合でなかなか時間がとれない中、定期的に二人は会っていた。ヒロトは明日香を心から信頼し、明日香もヒロトを深く愛していた。
ただ明日香には一つの不安があった。父のことだ。明日香は大企業の社長の一人娘であり、父は厳しい人で、異性との交際についても厳しく注意されていた。
明日香は父にヒロトと交際していることをまだ話せていなかった。
実は、ヒロトと交際を始める数か月前、明日香は父から年商100億円、30代前半の青年実業家を紹介されていた。そのとき、明日香は断ったが、その頃はヒロトを気になりだしていたときでもあった。
『父は、自分の娘と釣り合う相手と結婚させたいと考えている』
明日香は、父の過去の教育や言動から交際相手に相当ハードルの高い条件を求めていることはわかっていた。
でも明日香は、ヒロトに成功してほしいとは、それほど思っていなかった。
理由は「ただ、愛しているから」。明日香がヒロトと交際している理由は、たったそれだけだった。
だから、父に話して駄目だと言われることを恐れていた。
明日香は、いつか父に話せるチャンスは来ると信じ、その時を待っていたのである。
ある秋の日のこと。
「早川さん、今度、美術館に行きませんか?」
明日香はヒロトに声かけた。
「早川さんのつくるデザインって自然の風景を使ったものが多いよね。
けっこう風景画で有名な美術館よ。早川さんは仕事でイラストを作ることがあるから、一流の絵画を見るのもきっと仕事に役立てると思いますよ」
「明日香、それはありがたい。嬉しいよ」
「クス、了解!」
明日香は、常にヒロトに気を遣ってくれる。
ヒロトは明日香と会うと気持ちが安らぎ、仕事がはかどり、デート中に仕事のヒントを得ることも多かった。
そして、明日香と美術館に行くデートの日がやってきた。
明日香と待ち合わせの美術館前の公園。
先にヒロトは着いていて、公園のベンチに座っていた。
今日は珍しく、仕事道具のパソコンは置いてきた。
『今日は、明日香のために、仕事は脇に置こう。俺も明日香の気持ちに答えないといけない』
今日は、明日香と絵を見る約束をしている。
『絵か~』
ヒロトは美術館のパンフレットを眺めていた。
パンフレットで紹介されている絵は、どれも素敵だった。
そして絵の中に風景画のコーナーがあった。その風景画を見ていて、ついユカリのことを思い出した。
『ユカリも絵を描いていたな~。あの頃も、ユカリの絵を見ると、心が落ち着いたな』
ヒロトは、明日香と真剣に付き合っていることから、ユカリのことは思い出すまいと心で強く誓っていた。しかし、この時ばかりは、どうしてもユカリのことが思い浮かんでしまった。
『ユカリ・・・』
ヒロトはパンフレットの風景画を眺めながら、目を潤ませていた。
そのとき、後ろからいきなり視界を、誰かの手でふさがれた。
そして若い女性の声がした。
「だ~れだ!」




