残響
空しい行為をするたびに、私は心に残る残響を確かめた。
「この香りが好きなの。甘くなくて上品で」
花瓶に差している花の名前を私は知らない。いつか彼女が買ってきたそれは、今では香りも発さず、ただ空気に水分を奪われて枯れ朽ちている。
いっそ捨ててしまおうと思いはするものの、いつまでも捨てることが出来ずにいる。
花を見るたびに思い出せたからだ。彼女との思い出を。
いつものように朝スーツに着替え、同じバス、同じ電車に乗って会社へと出勤する。
出勤すれば同じような仕事をこなし、同じ仲間たちと接する。
ただ、違うことと言えば仲間たちは以前よりも、接する態度が柔らかくなった。
『佐藤さんの奥様、事故にあったらしいわよ。何でも電車に引かれたとか』
女子社員が話しているのを耳にしたことがある。
私に関する噂話。聞きたくない話を耳にして、私は心底腹が立った。
お前たちに何がわかる。お前たちのクソみたいな会話のネタに、私の無常さを出さないでくれ、と。
またいつものように暗くなった景色を電車の窓越しに見ながら、家路につく。
揺れる電車も、電車に同乗する人たちも、見慣れすぎて何も思わない。
電車を降りたらバスに乗り換えて、そこから毎日歩く道を行く。
途中寄ったコンビニで缶チューハイを二本買う。
一本は私好みのもの、もう一本は亡き妻への手向け。
仕事帰りに酒をかって、家で妻と酒を飲むのが何より楽しかった。
いや、当時は楽しいなんて思いもしなかったが、妻がいなくなってから、あの日々は楽しかったんだと思えた。
失ってから気づく。
よく耳にする言葉が私の心を切り刻む。
こうやって、いなくなった妻のために幾度となく繰り返される空しい行為。
ほんの少し前までは途中で見えるアパートの自室に光が灯っていた。
今はただ暗い闇がそこにいるだけ。
コンビニのビニールを手にした私は暗い部屋へと足を運ぶ。
「ただいま」
聞きなれた「おかえり」は記憶の中にあって、暗い部屋からは聞こえてこない。
自分で電気をつけて、スーツの上着だけを脱いで一人酒を飲む。
テーブルには枯れた花。
それだけではない。妻がきた服も、部屋に干しっぱなしにしていた下着も、編みかけのマフラーも。
妻がいたことを証明出来るように、妻がいた時間のまま止まっている。
妻が好きだったものを買って帰り、妻が好きだった歌を流し。
空しい行為はいつまでも続いた。続けたいと思った。
二人で過ごした日々は残響となっていつまでも私の心の中で響いた。
残響。
あの日、あの時間、あの瞬間。
君が飛び込んだのと同じ時間。
私は妻がいたと思われる駅のホームに立っていた。
『三番線、電車が通過致します。ご注意ください』
妻もこの音声を聞いたのだろうか。
残響よ、あの日の妻はこんな感じだったのだろうか。