二話 森にて 前編
二話 森で材料調達
「はい。日射火傷の呪いですね」
三日後の店内。エルトは客の男から渡された処方せんを手にそう言った。
呪いには二種類ある。一つは幻獣の祟りや人間の魔法によってかけられた呪い。もう一つは医学的に原因や治療法が確立しておらず、魔法によって治療しなければならない病だ。日射火傷は後者の呪いだ。日の光を受けると火で炙られたような酷い火傷を負ってしまう呪いである。それは日焼けとは明らかに別物だ。現に男はこの暑い中全身を黒い布で覆ってやって来た。
「日射火傷の薬は現在置いてないんです。材料でしたらあと少し調達して来れば今日にでも調合して処方出来ますが、いががなさいますか?」
すると男は安堵の表情を浮かべて言った。
「結構です。この呪いは珍しいですからな。調合してくれる魔法薬売りがなかなか見つからないもので。ぜひお願いしたい」
魔法薬の調合はれっきとした魔法である。普通の薬と違って製法と材料さえ揃えばどうにかなるものではなく、調合の時の魔力の注入は誰にでも出来るものではない。だから呪いを治すのは難しいのだ。
「では今日の六時にもう一度店に来てもらえますか?そのころには薬が出来ていますので」
「分かりました。では後程」
そして男は全身を布でくるんで店を出て行った。
エルトは時計を見た。午前十時。まだ時間はある。
エルトは風呂場で洗濯をしていたフィアルを呼んだ。
「はい。何でしょうか?」
廊下に出て来たフィアルのメイド姿もすっかり様になっていた。素朴な服だけに、彼女本来の飾り気の無い美しさが良く映えて見える。
「魔法薬の材料が足りないから森に行く。ついでに調合も済ませる。外出の支度をしてくれ」
すると、フィアルはこくんと首をかしげた。
「私が外出してもよろしいのですか?それに支度と言われましても」
「ああ、いいんだ。たまには森の空気が吸いたいだろう?手伝ってほしいこともある。格好や荷物は基本そのままでいいが、昼食に水とサンドイッチか何かを用意してくれ」
「かしこまりました」
そう言ってフィアルは食事の準備に取り掛かった。その動きは目に見えてきびきびしている。やはり外出、特にハーフエルフにとっては母たる森に行けることはかなり嬉しいのだろう。
フィアルが来てから一週間が経とうとしているが、エルトはようやく冷静で感情表現の薄い彼女の気持ちの読み取り方が分かってきた。
すると、面白いことに、意外とフィアルは感情豊かでそれが素直に行動に出るということだ。ただ言葉や表情にはなかなか現れない。だからフィアルの行動を見るのが一番分かりやすいのだ。
そして、エルトも材料や道具を鞄に詰め込んで用意を整えた。
エルトは魔法薬を作る時、その材料のほとんどをこの街テルペイトの北に広がる森から調達し、材料が植物などであれば新鮮な内に調合するようにしている。
三十分後、二人は大都市テルペイトのはずれに位置する、ツェール魔法薬店がある郊外ティセス区の路上を歩いていた。
エルトはいつぞやの黒い外套に身を包み、鍋やら本やら色々調合に使う物が入った大きなリュックサックを背負っている。フィアルの方は先ほどまでのメイド服に加え、ハーフエルフであることを示してしまう目立つ銀髪をエルトが持っていたこげ茶色の帽子で隠していた。その手には水と手作りのサンドイッチが入ったバケットが提げられていた。
辺りにはレンガ造りの家々が立ち並び、石畳の道路は浮きソリ(屋根が付いていて、魔法で浮き上がり高速で移動するソリ。自動車のようなもの)が走る車道と、二人が歩いている歩道に分かれている。車道では浮きソリが独特の魔法音と風切り音を立てて行き交っている。
「この道を真っ直ぐ行けば街を出て林道になる。ほら、あれだよ」
そう言ってエルトは行く手を指差した。その先には高さ五メートルほどある、テルペイトを取り囲む城壁があり、道の先だけ門の様に途切れている。その向こうには舗装されていない道があり、更に遠くには青々とした山が一つ屏風のようにそびえている。
「今日はありがとうございます。主様」
「いやいや、元より君を閉じ込めておくつもりはない。精霊院にも連れて行こうと思っているし、これはまあ仕事の一つだ。しっかり頼むよ」
「はい。お任せ下さい」
そう言ってフィアルは微笑んだ。その無垢な笑顔にエルトはまぶしそうに目を逸らしてしまった。
「今日も暑いね」
「それならそのような外套脱いだ方がよろしいのでは?」
「いや、これには服の内部を冷やす機能があってむしろ涼しいんだよ。君こそ暑くはないか?」
すると、フィアルは少し悩むような素振りを見せて答えた。
「確かに少し暑いですね。でも私たちは気温変化に強いですから何ともありません」
そう言うフィアルは確かに涼しげだった。
やがて二人は北門から街を出て、更に森を貫く道から逸れて、森の中にいた。
森の中は木の葉が青々と茂っていて、木漏れ日は柔らかく、初夏の暑さなど微塵も感じさせなかった。
小さな泉まで来た所で、二人は足を止めた。
「いい時間だ。この辺りで荷物を置いて昼食にしよう。その前に調合の下準備をするから少し休んでいてくれ」
そう言ってエルトは荷物を広げ始めた。
フィアルはバケットを下ろすと、泉のほとりまでゆっくりと歩いて行った。
「わあ、きれい」
思わず言葉が口からこぼれた。いつも人形のように平坦だった表情をぱっと輝かせ、大きく息を吸った。
それから靴と靴下、そして帽子を脱いだ。銀色のつややかな髪が木々の間を吹き抜ける風に吹かれてたなびく。
更にフィアルはメイド服も脱いでしまうと、肌着のまま泉の中へと歩いて行った。
その時立てた涼やかな水音を聞いて、鍋と調合道具の用意をしていたエルトは初めてフィアルの格好に気が付いた。
いつの間にか、銀髪のハーフエルフの少女が肌着一つで水浴びをしているではないか。
エルトは目の前の光景に驚くよりもまず、その絵画にさえできそうな美しい様に言葉を忘れて見とれてしまった。だが次にようやく言葉が喉元まで上がってきた。
「フィアル!ちょっと、何をしているんだ?」
その言葉はいささか上ずっていた。エルト・ツェール二十四歳、八つも下の少女の裸に取り乱す。情けないと思ったがどうしようもなかった。
一方のフィアルは呼び止められてもさして恥ずかしがる素振りも無く、相変わらず涼しげに、だが幾分楽しそうに答えた。
「水浴びですよ」
「それは見れば分かる!なぜ伴侶でもない男の前で裸になっているのかと聞いているんだ」
するとフィアルは少しの間エルトの言葉の意味が分からずに固まったが、やがて思い出したように言った。
「ああ、ヒトにはこのような習慣は無いのですね。ハーフエルフにとって水浴びは大切な習慣です。急所さえ布で隠していれば恥ずかしいことなどありませんよ。こうして肌着のまま皆で池や泉に入るのは当たり前のことで……」
と、急にフィアルの声が消え入った。表情に影が差すのがはっきりと分かった。
「そう、皆で、当たり前のように……昔は……こうやって……」
すると、今度は突然水を両手ですくってばしゃばしゃと顔を洗い始めた。
「フィアル……?」
「気にしないで下さい。顔を洗ったら食事のご用意をさせていただきます。ですので、どうか、お気になさらないで――」
次の瞬間、フィアルの顔面にタオルが押しつけられていた。
「むぐっ?」
「顔を洗ったら拭くべきだろう。使いなさい」
エルトはそう言ってきびすを返して泉から出ようとした。しかし、その後頭部に突然水がかけられた。
驚いて振り向くと、フィアルが片手でタオルを顔に押し当てたまま、もう片方の手で水をすくっていた。
「ずるいですよ、主様。私が尽くすと決めたのに、こんな慰め方って。私が泣いていたの気付いていたくせに。私、情けないですよ」
そう言ってまたエルトに水をかける。
「えと、すまない。気に障るようなことして」
「そういう意味ではありませんっ」
フィアルはまた水をかけた。
「嬉しくて、甘えたくなってしまったから、こんな弱い私を見せてしまうことが恥ずかしくて。なんか、もうよく分からなくて」
すると、今度はエルトが水をかけ返した。
「きゃっ!」
「フィアル、自分を強く見せようとしなくていい。そんなに僕が頼りないかっ」
そう言って更に水をかける。
「いえ、そう言う訳ではなく……いや、確かに頼りないと思わなくもないですが。そうではなく、私はあなたにとって優秀で、頼れる召使いでなければ……」
「僕はそんなこと一度も指示した覚えはないけど」
その時、初めて両者の動きが止まり、フィアルがタオルから瞳をのぞかせる。翠の瞳は充血で赤くなっていた。
「え?」
「確かに優秀で頼りになるのに越したことはない。でもね、君を買い取った一番の理由は、君を助けたかったからだ。奴隷として若くして迫害の憂き目に遭う君を見て、どうにも放ってはおけなかった。他の者に買い取られて酷い目に遭わされるくらいなら僕が買い取ってしまおうと思ったんだ。それなのに君は常に平然としていて不安だった。何を考えているのか分からなかった。君にはもっと自由にしていて欲しいし、上下関係を必要以上に意識して欲しくない」
「しかし、もっと機械的で手のかからない方がお望みだと思ったのですが」
そう言われて、エルトは思わず口をつぐんでしまった。図星だったからだ。フィアルを助けたかったことに違いは無い。ただ、今までのフィアルの立ち振る舞いは確かに「当初の理想通り」だった。なぜフィアルが感情的になることを求めるのか。なぜさっき彼女を無視しないで、プライドを傷付けないように回りくどく慰めたのか。エルトは自分に問わざるを得なかった。
――だが。
「そんなものは知るかっ」
またエルトは水をかけた。
「君が一人で悲しむのを見ていられなくなっただけだ。人として当然のことをしただけだ。それだけだ!」
すると、フィアルはふと笑った。そして、盛大に水をかけ返した。
「答えになっていません!」
そうして、二人の水かけ合戦は日が空の頂上を通り過ぎるまで続いた。