一話 奴隷の少女フィアル 前編
始めは、ふとこぼした独り言だった。
「……人手が欲しい」
エルトは個人経営の魔法薬店をやっている薬売りの青年だ。都市テルペイトの名門校で魔法薬を学び、大手の魔法薬店に就職したものの、わずか二年で辞職。それから街の片隅に自身の魔法薬店を開業、という変わった経歴を持つ。
開業してからエルトは懸命に働いた。魔法薬や魔術の知識を寝言でそらんじようと言わんばかりに叩き込み、調合と販売の全てを一人でこなし、わずか一年で経営を軌道に乗せてみせた。だが、ふとした時に、自分が思ったより疲れていることに気付いた。
いくら小さな店でも、エルトは家族の助けもなくたった一人で店を切り盛りし、そして店の建物は一人暮らしの住まいも兼ねている。魔法薬売りとしての仕事以外にも、掃除や炊事などなど、やらなければならないことはたくさんある。それらも込みでやっていくことに、エルトは少し限界を感じつつあった。
そんな訳で、行きつけの喫茶店でコーヒーを飲む昼下がり、初めてエルトは自分の店に誰か労働力となる者をを雇いたいと思ったのだ。
「まあ、今まで考えなかった訳じゃないけど……」
ただ、そこには大きな抵抗があった。
エルトは人間が嫌いである。なんならこの世そのものが嫌いな厭世主義者である。別名ペシミストと言う。だから自分の城に他人を入れるなど煩わしいことだった。
せめて雇うならば口出ししない静かで従順で物分かりの良い人間でなければならない。
「静かで従順……か」
その条件には一つ確実とも言える候補が思い浮かんだ。ただ、それはエルト的には少々受け入れがたいものでもあった。
手元のコーヒーを一口飲む。苦い。その苦みが、ピリリとエルトの脳を刺激して思考を補う。
「……」
十分後、喫茶店を後にしたエルトは一度銀行に立ち寄ったのち、町の中心部から少し外れた薄暗い街頭に向かった。
そこは石畳のちょっとした広場になっていた。
そこでは熊を入れるのに使う大きな檻が三つほど並んでいて、檻の中にはそれぞれ三四人ほどの人々が薄汚れた衣をまとって入れられていた。
彼らは奴隷だ。
ついでに言うと皆ハーフエルフという種族で、エルトなどのヒトとは異なる知的生命体の一種である。
ハーフエルフはヒトに比べて背が低く、力も弱い代わりにそれを補って余りある魔法のセンスとアニマ(魔力の素となり世界に満ちているエネルギー)への感性を持つ種族だ。
なぜ彼らが身売りにかけられているのかはここでは割愛するとして、エルトの目的は彼らを見に来ることだった。
奴隷として売られているハーフエルフを買い取れば、それが一番自分の理想(静かで従順で物分かりの良い)に適っているとエルトは考えたのだ。
檻の中に入っているハーフエルフは皆若い男女だ。男性は力仕事に、女性は召使いや娼婦にするために買われることが多い。
エルトより前から広場に居た高貴な身なりをした中年の男性が売人に声をかけた。
「おい、その三番の女を買おう」
すると売人はノートを手に取り契約の手続きを始めた。
「ありがとうございます。こちらのハーフエルフは二百十万エーカになります。お引き取りはどうなさいますか?」
「明日別の者を遣わす。支払いもその時でいいかね?」
「はい、かしこまりました。それでは予約させていただきます」
まるで犬か浮きソリでも買うかのようなやり取りだ。
一方買い取られることが決まった女はその瞬間だけ動揺したように見えたが、後はずっとうなだれたまま顔を腕の中にうずめ、声を殺してしくしくと泣いていた。
エルトはそれを見てやはり来るべきでなかったと思った。
ばかばかしい。奴隷を雇って都合よく済ませようとした自分が浅ましいと考えながら、エルトは広場を立ち去ろうとした。
しかし、その時視界の隅に一人の少女の姿が映った。彼女はさっき買われることになった女よりも更に若い。まだ十代半ばと言ったところだろう。
きっと彼女もいずれ買われていくのだろう。どこかお金持ちの家でボロぞうきんのように扱われ朽ちていくか、娼館で働かされて自分を殺し、やがて感染症で死ぬか、あるいはもっと酷い環境に放り込まれることになるかもしれない。
でも憐れんだところでどうしようもない。そうエルトは思ったが、次の瞬間気付いた。ならば自分が買い取ってしまえばいい、と。
エルト自身は人身売買なんて非人道的だと嫌っていたし、彼らハーフエルフに対して何らかの嫌悪を持っている訳ではないから、奴隷を雇ったところで普通の人間と同じように働かせる積りでいた。待遇なら他の人間に買われるよりずっと良いはずだ。そして、自分は店に働き手が増える。どこに思い留まる理由があるだろうか。
ふと、少女と目が合った。エルトは思わず固まってしまった。
少女はただ道に生える街路樹を見るような感情の無い目でエルトを見ていた。その時彼女が何を思っていたのか、今でも想像がつかない。
エルトはゆっくり少女に近づいて行った。そして声をかけてみた。
「君、うちの店で働かないか?」
すると、少女は少し困ったような顔をして答えた。
「奴隷に疑問形で話しかける人は初めて見ましたよ」
その時、さっきの売人がこちらにやって来た。
「ちょっとお兄さん、商売の邪魔だからあっち行ってくれ。見世物じゃないんだ」
売人は、エルトが若いのでただ興味本位で近寄って来たのだと勘違いしたらしく不機嫌そうにしていた。
「いえ、買います。この子を」
それを聞いて売人は笑い出した。
「馬鹿言わないでくれ。これはこの中で一番若く見た目も良い。いくらすると思っている?四百五十万エーカだ」
「そうですか。じゃあ払いましょう」
そう言ってエルトは鞄の中から札束を取り出して売人に突き出して見せた。それを見た売人は目を大きく見開いて驚愕した。
「な……、あ、そうですか。確認させてもらいましょう」
そう言って売人は札束を受け取り、枚数を数えた。そして余った札をエルトに返還すると、コホンと咳払いをしてノートに記入を始めた。
「はい。確かに受け取りました。お買い上げありがとうございます」
「どうも。このまま持ち帰っていいですか?」
「え、ああ、どうぞ」
売人は鍵束を手に取ると檻の鍵を開け、少女を外に連れ出した。
少女は外に出てエルトと向かい合った。
黒い外套を身にまとい、素朴だが気高さを感じさせるエルトの格好に対して、少女は薄汚れた粗末な格好、手には枷がはめられ、今売人に首に提げられた番号札を外されたばかり。枷を外す鍵はエルトに手渡された。
相変わらず少女の表情はうかがえない。ただ、少しだけほっとしているようにも見えた。
帰ったら彼女を風呂に入れて、その後で服を買ってあげなければと、エルトは思った。
それがエルトと奴隷の少女の出会いだった。
季節は夏の月に移行しつつあり、木々が青く茂る一方で外の熱い日差しをうっとうしく感じ始める今日この頃。テルペイトの片隅の住宅街に紛れるようにして構えているツェール魔法薬店の調合室で、エルトは魔法薬の調合を行っていた。
その狭い部屋には様々な薬草やら魔石やらが入った瓶が並べられた棚が至る所に置いてあり、中央の机の上には分厚い本が数冊、すり鉢とナイフが一つずつ。窓のある壁際には水瓶とかまどが備えてあり、かまどには鍋が置かれていて、中のドロドロした緑色の液体を煮え立たせていた。
エルトはその鍋の中身を焦がさないように、火の加減をしながら慎重にかき混ぜていた。鍋からはもうもうと蒸気が立ち昇り、野草特有のつんとした匂いが部屋中に広がっている。
「ああ、暑い。これ以上気温が上がったら死んでしまう」
エルトはそうぶつぶつと独り言を言いながら黙々と魔法薬を作っていた。
「主様。お茶をお持ちしました」
突然左から女性の声がする。ふと見てみるといつの間にかフィアルという例の奴隷の少女が冷茶の注がれたコップが入ったおぼんをもって立っていた。
フィアルはあれからすぐに身なりを整えられ、一般的なメイド服(勘違いしている読者のために一応補足しておくと、この時代の一般的なメイド服は茶色を基調とするロングスカートとエプロンの至って地味で簡素な格好である)を身にまとい、肩にかかる透き通った銀髪(銀や薄黄緑といった淡い髪色はハーフエルフの特徴の一つである)も梳かして後ろで縛ってある。
「ああ、ありがとう。それにしても君は気配を感じさせないな」
エルトはコップを受け取りつつ、独り言を聞かれていたことを恥じらった。自分の店を開いてから約二年間ずっと一人暮らしだったのでつい癖が出てしまった。
「静かにしているよう言われましたので。ノックはしたつもりだったのですが」
フィアルは特に表情を変えることもなく淡々と返事をした。
「そうだったか、すまない。気を付けるよ」
「いえ、お気になさらず。では私はお店の掃除に戻ります」
そう言ってフィアルは軽くエルトに会釈をすると部屋を出て行った。
フィアルを買い取ってから三日目。その様子は一貫して冷静沈着そのものだ。
無口で表情が読めない割には、言ったことには素直に応じ、ところどころで気が利く。決して不愛想という訳ではなく、かと言って楽しそうには見えない。
働きぶりも見事なもので、フィアルには店とその二階にある住居空間の掃除、それから炊事洗濯といった家事全般を任せているのだが、どれもそつなくこなしてみせ、料理も至って美味しい。ハーフエルフはヒトと異なる文化を持っているために苦労すると思っていたが、そんな心配も要らなかった。洗濯樽などの魔導家具の使い方も一度説明しただけで覚えてしまった。
まるでずっと前からここで一緒に働いているかのようだ。賢くて順応性の高いハーフエルフで助かった。
エルトが鍋の中の液体を瓶に詰め、それが冷めたころ、部屋に鈴の音が響いた。来客を知らせるチャイムだ。
エルトは薬瓶を手に取り調合室を出て店内に向かった。店内は調合室よりも更に狭い空間で、カウンターの下のショーケースに需要の高い一般的な魔法薬が並べられているだけだ。
店内には一人の老婆が立っていた。この店の常連の人である。
「いらっしゃいませ」
エルトが声をかけると老婆はにっこりと微笑んだ。
「おはよう。今日は暑いねえ」
エルトは持って来た薬瓶をカウンターに置いた。
「こちら、いつもの腰痛の薬です。一カ月分ありますので痛む所に塗ってお使い下さい」
「いつもありがとうね」
老婆はそう言って薬瓶を受け取ると手提げ鞄から財布を取り出した。
「ええと、三千二百エーカでよかったかい?」
「はい、丁度お預かりします」
エルトが老婆から代金を預かった時、奥の廊下からフィアルが顔を出した。
「主様、昼食の準備が出来まし……」
フィアルは老婆を見て固まってしまった。フィアルには接客をさせていない。だからエルト以外の人と出会って驚いてしまったようだ。
フィアルは老婆に会釈すると、逃げるようにその場を去ろうとした。だが、老婆がフィアルを呼び止めた。
「お嬢ちゃん、もしかしてツェール君に買われたっていうハーフエルフの子かい?」
そう言われてどう返事したらいいか迷ったフィアルはエルトに目配せした。そこでエルトが代わりに答えた。
「そうですが、もしかして結構うわさになっていますか?」
エルトは少し気まずそうに問いかけた。自分が奴隷を買ったなどと、あまりよそに知られるのは良い気はしない。
「テルペイトで一番高い奴隷を買い取った青年ってうわさなら町中に広まっているよ。まさかツェール君だとは思ってなかったけどねえ」
「ああ、そうでしたか」
「でもねえ、私はわざわざばらしたりはしないけど、ここら辺に知れ渡るのは時間の問題だと思うよ。変なうわさが立つ前に精霊院に連れて行った方がいいと思うけどねえ」
精霊院とは、精霊教と呼ばれるエルトや一部の国民が信仰している、この地方では古くから伝わる精霊信仰、その教団の建物である。老婆は、エルトにフィアルをそこへ一緒に礼拝などに連れて行ってあげた方が良いと言っているのだ。
ハーフエルフがこの街で奴隷として売られている原因の一つとして、この国で現在最も勢力を持つ一神教「エーデム教」の存在がある。
エーデム教に関わる神話において、ハーフエルフはヒトでもエルフでもない間の存在で、神が唯一創造しなかった種族として語られ、「寄る辺なき民」と呼んでいる。そのためエーデム教信者の中にはハーフエルフを差別視する者が少なからずいて、それが今この国の軍が行っているハーフエルフへの弾圧に繋がっているのだ。元々は隣国との戦争が原因で、この理由は後付けの口実のようなものだが。
しかしエルトが信仰する精霊教ではそのような認識は無く、むしろ自然界と人間界の仲介者として尊重されている。フィアルを一緒に礼拝に連れて行って、一人のハーフエルフとして対等に扱っていることを示せば変な誤解を招くことは少なくなるだろう。
「そうですね。彼女と相談してから考えたいと思います」
「うん、そうしておやり。ツェール君も店が忙しいのは分かるけれどたまには精霊院に顔を出してあげないと。ネリエスちゃんが心配しているよ」
ネリエスの名前を聞いて、エルトは少し苦い顔をしたが、老婆は何も言わずに帰って行った。
「主様、昼食が」
フィアルが控えめに話しかけてきた。
「あ、うん。ありがとう。休憩しようか」
そう言ってエルトはフィアルと一緒に台所に向かった。
食卓にはサンドイッチと玉ねぎのスープが並んでいた。
エルトは席に着くとフィアルに話かけた。
「君はどう思っている?」
「どう、とは。精霊院のことでしょうか?私は主様さえ良ければどちらでも構いません」
フィアルは冷静に答えた。エルトはサンドイッチをかじりながら少しの間考えて、口を開いた。
「僕は君を奴隷として買い取った。だが君には出来るだけ自由に暮らしてほしいと思っている。だから精霊院の人たちくらいには君を紹介しておくべきだと思うが、あまり注目を集めたくはない。だから一度平日の人の少ない時に行くのが適当だと思う」
それを聞いてフィアルは静かにうなずいた。
「ええ。私も賛成です。ただ、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
フィアルは少し質問をためらうような素振りをしたが、やがてまっすぐにエルトの目を見て言った。
「なぜ奴隷の私にここまで自由を許して下さるのですか?この店の働き手や召使いが欲しいだけなら普通に人を雇えばいいと思うのですが」
フィアルの質問はもっともだった。大金をはたいてまで奴隷を買わずとも、人を雇った方が経済的だし、エルトはそれに加えて物置にしていた屋根裏部屋を無理やり整理してまでフィアルに寝床を与え、食べ物も衣服も十分に与えている。何かを強制することもしない。その扱いはとても奴隷に対するそれではない。
「それに答えるのは少し難しいな。僕はヒトを雇いたくなかったんだ。自分の好きなようにやりたかったからね。だから君はハーフエルフであって、あくまで奴隷なんだ。そして君はこの三日間十分よくやってくれている。だからそれに見合う自由を報酬として与えていると思ってくれればいいよ」
そう言うと、フィアルは少し困った顔をした。広場で始めて出会った時と同じ、戸惑うようで少し呆れた表情だ。
「主様はわがままなお方なんですね」
「はは。それは否定できないな。でも不満があるなら遠慮せずに言ってほしい。あまり溜め込まれて寝首を掻かれるのは嫌だからね。君は魔法が使えるみたいだし」
「あ、気付いていましたか?」
「僕も調合以外にも多少は魔法が使えるからね」
フィアルは少し考えると、「では」と前置きをして口を開いた。
「寝室をもう少し整頓して下さい。掃除の妨げになりますから。本はちゃんと本棚にしまって、服も床に放らないで下さい。あともう少し早く寝て下さい。日付が変わってもしばらく本を読んでいらっしゃるようですが、夜更かしは健康を害します。私だけ先に寝るのも申し訳ないですし、何より下から物音がして寝づらいので。あと鍋に火をかけたまま買い物に行くのも危険です。今は私が居ますからまだ何とかなりますが、今までよく事故を起こしませんでしたね。それと調合中はきちんと換気もして下さい。それから主様はキノコがお嫌いなのでしょうか?キノコも買ってきて下さると料理のレパートリーが増やせるので。あともう少し食べないと、そんな細い体で、体力に劣るハーフエルフの私ですら心配になります」
と、ここまでフィアルは若干早口でまくしたてた。それから小さくため息を吐くと、冷茶を一口飲んだ。
エルトはしばらくポカンとして固まっていたが、やがてふっと吹き出して笑った。
「ふははは。なんだ、結構喋るじゃないか!そうか、悪かったね。今度から気を付けるよ」
すると、フィアルもつられたのか少し表情がほころんだ。
「ふふ。まあこれですっきりしたので私は十分です。寝首は掻かないので安心して下さい。ハーフエルフは穏やかで争い事を嫌いますから」
それから間もなくして二人は昼食を終えた。
エルトは二人の間の距離感が、急に縮まったように感じた。元々は他人と関わることのわずらわしさから奴隷を選んだのに、不思議な感覚を覚えた。しかし、悪い気はしなかった。
三十分後、休憩を終えたエルトが店の外に出て札を返そうとした時、外に一人の若い女性が立っているのに気付いた。
女性はエルトの姿を見つけると向こうから話しかけてきた。
「あの、お店ってやっていますか?」
「ええ、今休憩が終ったところです」
どうやら客のようだ。エルトは女性を店内に招き入れた。
「いらっしゃいませ。どのような御用でしょう?」
すると、女性は少し興奮した様子でエルトに言った。
「惚れ薬を、作って下さい」