酒を呑む約束の日まで
私の兄は七つも歳上で、弟の私から見ても認めたくないが、非常に優秀な人間だった。何をやらしても頭二つ抜ける成績を修め、大学もスカラシップを取れるほど頭もよかったし、英語や中国語の他にも二カ国の言葉が堪能だった。
見た目もよく話も上手いし鋭い洞察力で、相手の懐に飛び込むなんてのはお手のもの。 早くに両親を亡くして経済的にかなり厳しかった家計を、大いに助けてくれていた。
そんな誰がどう見ても絵に描いたような完璧人間の死を、彼の知人は誰もが惜しんだ。
暑い夏の日だった。
当時中学二年生だった私にとって唯一の兄弟の死は、重くのし掛かる、恐らくこれから生きていくなかでもっとも辛い事実だった。死因は車に轢かれての事故死。目立った外傷はなく、死んだのが信じられないくらい兄の遺体は綺麗なままで、思わず『死んでもイケメンなのな』と言ってしまうほどだった。
兄は飛び出したどこぞの飼い犬を庇うと言う、漫画でしか見ないようなヒロイックな最後だったそうだ。
事態が上手く飲み込めず、夕暮れの病室に白いベッドで横たわる兄を横でただ漠然見つめながら座っていた。
――あと十秒もしたらひょっこりと目を覚まして、俺の間抜け面を笑うんじゃないか。
私はそう思わずには居られなかった。意識した訳じゃない、無意識のどこかで兄の死の受け入れを拒否する私がいたのだろう。無理もない話だ、両親と過ごした記憶はなく、頼る親戚も友人も居ない。唯一の肉親で頼みの綱で支えだった兄を、私は学校で馬鹿みたいな授業を受けている間に亡くしてしまったのだ。
だから私は、起きもしない奇跡を願わずには居られなかった。
茫然と何も出来ず過ごしていると病室のドアがノックされた。やっと我に帰った私は短く『どうぞ』とだけ返事した。
入ってきたのは俺と同じ歳位の、クラスにいたら可愛いに確実に部類されるような女の子だった。申し訳なさそうな顔は、座ったまま振り返った五秒後位に泣きそうな顔に変わる。ブラウン系統の髪を後ろで団子にし、成長期真っ盛りでもうそんなに大きいのかと言いたくなるような胸部と、見た感じがバカそうだったのを覚えている。
「本当に……ごめんなさい」
「…………」
「私がちゃんとリード持ってなかったせいで、こんな事なって、本当に……本当にごめんなさい」
喋る間は泣くのを耐えていたのか、話が終わると堰を切ったようにぼろぼろと泣きはじめた。この事故死の原因の一端は自分にあるから、罪悪感を感じてるのだろう。
――そうか、こいつが原因なのか。兄ちゃんが死んだのはこいつのせいなのか。
私はそう思うどこかで、彼女のペットは無事だったのかが気になった。もしこれでペットまで死んでいたら、もはや兄の死は無駄な死になってしまうからだ。
「ペットは助かりましたか?」
「ダメ……でした」
「そうですか……なら兄の事はいいのでそっち行ってあげてください」
いられても迷惑だから、とは続けられなかった。
ここまで機械的に言葉を発したのは初めてだ。兄が死んで、その原因の一端がここに居て、しかも無駄死にが確定したのに、したからこそ私の心と体へのダメージは大きかったのかもしれない。だからこそ、機械的に話していたのだろう。
彼女が泣きながら出ていくと、しばらくしてまた、病室のドアがノックされた。私は今度も機械的に無機質に『どうぞ』とだけ答えた。
「失礼します」
またしても女性の声。兄は死んでも女性にモテるのか。その声の主の顔もよく覚えていない。覚えてるのは、今までみてきたなかで一番綺麗と感じた黒のロングヘアーと起伏の少ないスラリとした体型だけだ。年の頃は自分より一つか二つ上と思わせるほど大人っぽかった。
「ご遺族の方ですか?」
「この人は、俺の兄です」
「……この度は、私どものせいでこのようなことになってしまい、誠に申し訳有りませんでした」
深々と下げられた頭に、ふとテレビの謝罪会見が思い起こされた。話を聞くと彼女は所謂ご令嬢と言う奴で、今回も運転手付きの車に偶々、乗り合わせただけだそうだ。
形式的に差し出されたお見舞い金の入った分厚い茶封筒には、思わずにはそれを窓から投げ捨てそうになった。私の兄の命は、そんな端金には変えれないから。しかし、家計を救うためにずっと働いてきた兄の事を思うと、こんな金でも受け取ってやるべきなのだと勝手に思い込んでしまった。
投げ捨てることも突き返すことも出来ず、行き場のない感情が封筒を握り潰させた。
「もう帰ってください」
「…………」
「俺の兄はもう……いくら泣いて喚いてすがって願っても! 帰ってこないんです。こんな紙切れを貰ったところで、兄が死んだことに変わり無いんです。だからもうお抱えの弁護士にでも任せて貴方は帰ってください。いられても迷惑だから」
振り返ることは出来なかった、私のちっぽけなプライドがこんな時でも泣き顔を見せることを拒んだのだ。だから振り返って彼女の表情を確認できなかった。
部屋のドアの音が二度なり、足音が遠退いていく。とたんに病室の冷房が寒く感じるようになった。兄の手を握ると冷たいことに変わりはなく、この時やっと私は認識したのだ。
――兄ちゃん、死んだのか。
重要で重大な事実は案外シンプルで、でもすぐには理解できない。単純に辛い事実なんて誰も信じたくはないだろ。
あと数十分もすれば兄の遺体は安置所に移されるだろう。そしたら後は、線路の上を通る列車のごとくお決まりの手順を踏んで、兄は灰になる。こんなテンプレでシンプルなことだからこそ、理解するのに時間がかかった。
一度腰を落ち着けるともうたてる気がしない、だからあの時の私は立ったまま兄の亡骸を眺めるしかなかった。
「悠斗!」
兄の前を叫びながら息も絶え絶えに、勢いよく開いたドアにもたれながら崩れ落ちる女性は、兄の所謂婚約者だ。昔から家を守るのに必死できっと何一つ自由のなかった兄にとって、俺の知る限りで唯一、自分だけの意思で結び付いた人間と言える。
松井喜味さん。当時の私にとって彼女は苦手な存在だった。兄ほど完璧ではないけれど出来のいい人で、人あたりもよく、何より読心術に長けていた。彼女と話すと、いまだにすべて見透かされたような気分になる。
きっとそれは透き通ったきれいな瞳も関係してると思う。スーツがとてもよく似合う女性で、仕事がいかにもできますと言った容姿をしている。潔癖かと思うくらい清潔感の溢れるショートヘアーや、シミやシワ一つない肌。とにかく何においても彼女は清潔的な意味でも魅力的な意味でも、綺麗な人だ。
「優希くん。悠斗は本当に……」
「さっき、ペットの飼い主と車に乗ってた人が来ましたよ」
「…………」
きっと頭の中で信じたくない事実や過去の記憶、これからの事等が堂々巡りして、何から言っていいのかわからないのだろう。異常なほど顔が青ざめ、口をパクパクさせている。
「松井さん、兄に何か言いたいことはありますか? あるのなら纏まらなくてもいいから言ってみてください」
「ゆう……と」
いつも明るい彼女からは考えられないほど、絶望に満ちた、無理矢理絞り出したような掠れた声が発せられた。婚約までして、ブライダルプランがどうとか、指輪がどうとか、昨日まで当たり前のように話していた人間が、次の瞬間亡くなっていたのだから、それは仕方ないことだ。
しばらくすると言葉はでなかったが涙がこぼれはじめた。たぶん、実の弟の私よりも泣いている。
私はこの時人が死ぬこととはどういう事か、その答えの切れ端のようなものを知った気がした。
それからと言うもの、辛いのに忙しい日々が続いた。兄の葬儀や未成年後見人の選出、無神経なマスコミに『今の気持ちは』と聞かれた時から、テレビのワイドショーや情報誌が心底嫌いになった。
兄の葬儀は、その親友や松井さんが率先して準備をしてくれたし、後見人は事実婚状態で配偶者じゃなかった松井さんがなってくれた。
とにかく今から三年前の今日、私の独り暮らしは幕を開けたのだ。
今でも大きな病院は兄を思い起こされて苦手だし、犬も苦手だ。そして何より兄のそんな事実があるため、以前からも消極的だった人助けを、よりいっそうしなくなった。高校生になっても学校に友人は居らず、本当に天涯孤独なんだなと認識させられる日々が続いた。
それでも私は自殺だけは考えたことはない。今死んでしまっては兄と一緒にお酒を呑めなくなる。だからせめて、この約束が果たせるまでは生きると決めてる。あと四年もすれば兄と同い年と思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
「はぁ、遅刻だな」
一時間くらい仏壇の前で座っていた。そろそろ学校行くか。
「兄ちゃん、行ってきます」
昔は兄の方が先に家を出ていたが今は違う。私は兄に見送られながら家を出た。
あの日も今日のように真夏日だった。車の鉄板に卵を落とせば目玉焼きが作れそうなくらい暑い日だった。私は自転車を高校に向かわせて、あの日の事を思い出すのをやめた。変わりに今日の晩の献立を考えて走った。
こんな風に私の人生は、少なくともあと四年は続くのだと。
感想くださーい!
この話は連載にしようか迷った話の一話目のつもりです。こんな感じで進んでいく話を、続けてよみたいかどうか教えてくださると幸いです。
さらに我が儘を言うとよみたい理由、読みたくない理由なんかもお聞かせ願いたいです。理由は何となくや雰囲気みたいなのでも構いません。
お願いします。