儀式の夜 甲
現実逃避しかけた私の意識を引き戻したのは、この場に似つかわしく無い明るい声だった。
軽快に扉を叩く音と、無邪気な声。
「夜半兄様!巫女様が現れたっていうのは本当なの!?」
「ああ。黄昏入りなさい。」
扉が開ききらない間に、黄昏と呼ばれる青年が息を切らして雪崩れ込む。
ふわふわとした灰色の髪に、人懐っこさの象徴のようにまあるい目も同じく灰色だ。背は180センチほどあるだろうか。夜半より、若干背が高い。声のトーンからすると、もう少し幼い男の子をイメージしたが、気のせいだったようだ。夜半に甘える様は、まるで大型犬のようだ。
「兄様、その女の子が巫女様なの。」
「まあまあ、黄昏。そう焦らなくとも、桃さんはどこへも逃げないよ。お前も椅子にかけなさい。」
「だってこれから儀式なんでしょう。それまで、巫女様は忙しくなって、僕の相手なんかしてもらえないでしょう。さっ、巫女様、一緒に鶏鳴のところへ行こう。僕も鶏鳴も、異世界の話を楽しみにしているんだ。」
夜半の父の静止も聞かず、黄昏は私の手を引く。
夜半は涼しい顔をして、ティーカップでお茶を飲んでいる。
「俺と父上は大事な話し合いがある。ちょうどいい、黄昏に城の中を案内してもらおう。」
「そうだな、これからのこともある。黄昏は親切な子だ。わからないことは、なんでも聞くといい。丁寧に教えてくれるだろう。」
「さ、兄様のお許しも出たことだし。行こう。巫女様」
手を引かれるまま、足早に部屋を出る。
確かに彼、黄昏はとても親切そうだ。体全体がやさしさのベールに包まれているというか、明るく穏やかな雰囲気を発している。彼ならこの世界のことを丁寧に教えてくれそうだ。
「黄昏くん。私、桃っていうんだけれど、ここのこととか、元の世界のこととかいろいろ教えてもらえないかな。よろしくね。」
黄昏は部屋を出ると、行き場所を決めているのだろうか、早足で歩みを進める。
私は、若干小走りになりながら、黄昏の襟足を見上げながらそう挨拶をした。すると、急に彼はハタと足を止めた。気のせいだろうか、さっきまで彼を纏っていた雰囲気が変わった、そう思った。私が訝しい目で、黄昏の背中を見つめていることに気づいたのだろうか。彼はゆっくり振り返る。
「桃。そう、よろしくね。これから、長い付き合いになりそうだ。僕は黄昏。兄様の弟だけれど、母様は別だ。いわゆる腹違いの弟だよ。似てないでしょう。」
そう言って振り向いた黄昏の目は、氷のように冷たく光っていた。
「ちょっと、痛い、痛いってば。どうしたの?」
黄昏はもの凄い力で、私の手を引いて走り続ける。私は引きずられるようにしながら、着いて行くのが精一杯だった。それはそうだ、黄昏の長い足での一歩と、私の一歩ではしょうがない。少し悔しい。
「桃、もう少し早く走れないのかな。」
「ちょっと。ねえ、ねえってば。」
何メートル走ったのだろうか。黄昏は、一つの扉の前で止まる。彼が「開け」、そう告げると扉が大きな音を立てて私たちを招き入れた。
そのまま、ベッドまで引きずられる。黄昏は、私の問いには答えない。そのまま押し倒されるような格好で、ベッドに雪崩れ込む。
両腕を顔の横で抑えられ、私は身動きを取ることができない。下から見上げる黄昏の顔は無表情だ。
彼のふわふわの髪が一房私の頰に垂れ、どれほど近くにいるのか実感した。
「桃、君はどうしてこの世界に連れてこられたのか知っている?」
「知ら、ない。」
「そう。なら教えてあげる。何も知らないまま、元の世界に帰れなくなってしまうのはあまりに不憫だ。これまでの巫女と同じように、そんなの失礼じゃないか。ねえ、そう思わない?」
そう言うと、黄昏は不敵に笑い、形のいい唇をゆっくりと近づける。私が焦っているのを楽しむように、口の端はわずかに上がっている。
「んっ」
何が起きているのか、一瞬わからなかった。唇が熱い。そして、彼の長い睫毛を間近で見つめてやっと理解した。私、キスされている。黄昏は、私の腕を離してそのまま起き上がり、ベッドに腰を下ろした。
掴まれていた両手首がジンジンと痛い。
「気が済んだ。」
「は?」
そう来る?なんだかよく分からないけど、兄も兄なら、弟も弟だ。なんて一方的で、失礼で、それに手が早い。特にこの弟は、黄昏は見かけによらず腹の中は真っ黒だ。彼は先ほどまでとは全く異なる鋭い目線で私を見つめる。心臓が射抜かれたように苦しい。その瞳の中に、影が落ちているような気がするのは私の思い過ごしだろうか。
「桃、お前、今から儀式なんだろう。そんなことで顔を赤くしていて、巫女の役目は務まるのかな?僕はずっと、この時を待っていた。兄様よりも先に、巫女を奪うことをずっと、ずっと心待ちにしていたんだ。兄様は、怒るだろうね。あの気取ったポーカーフェイスがどう崩れるのか見てみたいよ。ふふふ、兄様は君のことを長い間待っていたんだ。それを、僕が!先に奪えたんだ!」
一人クククと、黄昏は笑う。好青年だと思っていたが、とんだ勘違いだ。人が変わってしまった、いや本当の黄昏、彼の横顔を見て呆然としてしまう。その笑い声はどこか自嘲的で、寂しい。薄墨のような笑い声はは広い部屋に溶けて跡形もなく消えていく。
「黄昏。」
「何だよ、急に強気だな。僕も十二神将の一人だ。君を殺すくらい赤子の手を捻るくらいに容易い。僕の能力は強力だよ。今は兄様には敵わないけれど、君を手に入れれば、そうはいかない。」
「何よ。私が殺される?言っていることはよく分からないけれど、私は巫女なんでしょう。儀式とやらが済むまでは、勿体なくて殺せないんじゃないの。」
黄昏は今まで見たことのないような心細そうな表情をした。やっぱり、私の言っていることは正しいようだ。この国では、巫女、つまり私を待っていたんだ。長い間。なんのためかはわからないけれど、恐らく儀式が済むと、何かのメリットがあるんだ。それまでは誰も私に手を出すことは出来ないはず。
「あなた達兄弟2人がどんな育ち方をしてきたのか分からないけれど、兄弟喧嘩に私を巻き込まないで!特に、こんなやり方で人に、キ!キスまでしておいて、タダで済むなんて思うんじゃないわよ。」
自分で言っていて恥ずかしい。普段キスなんて言葉を使わないから、変に声が上擦ってしまい、余計に恥ずかしい。
「そうだ黄昏。こんなやり方で巫女様を手に入れようなんて恥ずかしい。」
カチャ、と金属が微かにぶつかり合う音がする。
驚いてベッドから立ち上がると、黄昏の背後から首に短刀を突きつける鶏鳴の姿があった。
黄昏の首に飾られている琥珀のネックレスに、その刃先がぶつかって小さくコツンと音を立てた。
「なんだよ、鶏鳴。お兄様の差し金か。」
「違う。私の勝手でここにいる。だから、今回のことは夜半様には言わずにおいてやる。幼馴染のよしみだよ。次はない。行こう、桃は準備で忙しい。」
「鶏鳴。今までどこにいたの?」
私が鶏鳴に駆け寄ろうとすると、黄昏が私の腕を掴んだ。
「ねえ。それなら、正攻法で桃を手に入れてみせるよ。」
☆
鶏鳴は私に目で付いてくるよう促す。
部屋を出て数歩歩いたところで鶏鳴に切り出す。
「鶏鳴。黄昏って、なんだか危なっかしい子だね。」
「ああ。昔から外面は良いんだけど、何かの拍子にああいう面が顔を出す。二重人格っていうか、こう、突然豹変するんだよな。ところでーー」
私は耳を疑った。
「約束通り、元の世界に帰る方法を調べてきた。行こう、用意をしてある。」