タロウの秘密
去年の今ごろ、あじさいの下でびしょぬれになっていた子ネコを見つけたのは、美久だった。
ゼイゼイいって・・・・死にかけていて・・・・。ずうっとかんびょうしたのも美久だった。
元気になった子ネコの目を見た時、美久の頭にピカッと「タロウ」という名前がひらめいた。子ネコは、その名前が気に入ったというように「ニャウ」とこたえ・・・・、その名のとおり子ネコはオスだったし、はい色に黒のしましまが、なんとも名前にぴったりだった。
それなのに・・・・弟の一平ったら、なぜかタロウにモエとよびかけるのだ。
一平なんかまだやっと話ができるようになったばかりで、なんだって美久のまねっこばかり。美久が「タ・ロ・ウ」と教えてやって、やっと「タ・オ・ウ」と言えたばかり。
お母さんだって、友だちだって、知っている人は、みんなわかっていること。タロウはタロウなのに。
どうやら、一平は美久が小学校に行っているあいだに、タロウをかってに「モエ」にしてしまったらしい。
「ちがう! このネコはタロウ!」
美久が声を上げると、
「ちやう! タオウ!」
一平はなぜかよろこんで、そうさけぶ。でも、どうもちゃんとは、わかっていない。
今日も美久が小学校から帰って来ると、
「モエ、モエ」
と一平はタロウのしっぽを追いかけていた。美久は頭にきて、
「もう! 一平ったら! なんど言ってもおぼえないんだから!」
腹いせに図工のバッグを振り回し、それがポコンと一平の頭に命中して、一平は火がついたように泣き出した。
「あああ・・・・、一平がバカだからいけないのに。しかられるのは、あたしなんだからね」
美久はうらめしそうに一平を見つめた。そして、思ったとおり、美久はお母さんにたくさんしかられた。
一平は悪びれたようすもなく、
「こえ、こえ」
と、ニッコニッコわらって、自分のお気に入りの絵本を美久にさしだした。
「ふんだ! だれがそんなもん読んでやるもんか」
ぷいっとふくれた美久に
「タオウね、タオウね」
おせじをつかうみたいに、一平は笑いかける。どうも一平はタロウと言えば美久が喜ぶと思っているふうだ。
どうやったら、一平にネコの名前をわからせることができるだろう。美久はくやしくてしかたがなかった。
一平はもうけろりとして、こんどはタロウを追いかけ回している。
「モエ! こえね。モエのね」
一平が言うと、タロウは振り返って「ニャウ」とごきげんでこたえ・・・・、そしてごろりとお腹を出すと、一平が持っているウルトラマン人形の頭を、ヒョイヒョイと手でからかっている。
一平は喜んで、タロウのとなりに座り込んだ。なんだか言葉にならないような言葉をしゃべって、ときどき
「ね、ね、モエ、ね」
なんて、タロウをのぞき込み、タロウはまんざらでもないふうで、ゴロゴロとのどを鳴らしている。
「まったく! タロウもタロウだわ! モエなんて女の子の名前みたいなのに! なんだっていいんだから!」
美久はぷいっとそっぽを向いた。と同時に「なんでモエなの?」と、とてもふしぎになった。
その説明をしてもらうのは、今の一平にはまだむりのようだ。でも・・・・、もしかしたら美久の頭にピカッと名前がひらめいた時みたいに、一平の頭にも何かひらめいたのかもしれない。
「まったくしょうがないなあ」
美久はあきらめて一人と一ぴきをながめた。特別の言葉でもあるのだろうか。一平はかぎりなくネコに近い人間。タロウはかぎりなく人間に近いネコのように見えてくる。そういえば、生まれてから過ごした時間もちょうど同じくらいだ。美久はおかしくてたまらなくなった。
一平との遊びにあきたタロウが美久の横をすりぬけた。
「いいこと考えた! タロウは二つの名前を持った特別のネコっていうことにしよう!」
タロウは美久にも「ニャウ」とごきげんの返事をした。それから、ひとつ、ぐうっとのびをすると、ぷいっと部屋を出て行ってしまった。
「もしかしたら、タロウは出会う人の数だけ、ちがう名前でよばれるんだわ・・・・」
なんだかタロウの秘密をつきとめたようで、美久は、きゅうにうれしくなった。
「こえね、こえね」
一平がまたお気に入りの絵本を持って美久のところにやってきた。
「まったく、しょうがないなあ」
美久はやれやれと思いながら、その絵本を読みだした。
それは美久がさんざん読んだ絵本だ。タロウとはちょっとちがう白いネコの王子様が出て来る。
美久はちょっといじわるな気もちになって、一平に背を向けて自分だけで絵本を読みだしてみる。
「ね、こえね? こえね?」
一平はそれにかまわず、絵本と美久の間に入ってきて、絵本の中のウサギを指さしてくる。
「ふふふ」
美久はおもしろがって、
「これなに?」
と一平に聞いてみる。一平にだけ見えていて、一平にだけわかっているものなんかあるのかしら?
「こえ、なに?」
ほらずるい。一平は美久に答えをきいてきた。
それともただ美久のまねをしているだけかな?
タロウは部屋から部屋をぐるりとしてきて、毛づくろいを始めた。
「タオウ?」
もうしわけなさそうに、一平が美久のごきげんをとる。 タロウはチラリとこちらを見て、知らんぷり。
「もえ?」
こんどは美久が呼びかけてみる。タロウはやっぱりチラリとこちらを見ただけで、またぷいっとお部屋の散歩に出かけた。
こんなふうに、二人の間で一つずつはっきりなってくる言葉をたどっていく。そんな毎日がふりつもっていく。