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「こっちのテーブル、ディナー三つね!」
「チロちゃん、こっちは葡萄酒とチーズクラッカー!」
「蜂蜜酒と麦酒、あとソーセージ盛り合わせもお願いしまーす」
「は、はいはい! 順番にお伺いしますので少々お待ちくださーい!」
飛び交う声にチロは必死で答える。
夜の「紅灯亭」の賑わいは予想以上だった。この時間帯の常連客も多いらしく、新人のチロにも親しげに接してくれる反面、遠慮が無いので戸惑う場面も多々あった。
しかし、昼に気合を入れ直したチロは盆に載せた料理を落とさないようにしつつ、狭い店内をぱたぱたと駆け回る。
「えっと、すみません! 茸のオイル煮のお客様は……」
「おー! それ、俺達の!」
「次のウイスキーとナッツ、こっちねー」
「わわ、あ、有難うございます!」
気の良い客たちに助けられながら、どうにか注文を捌いていく。
そうして頑張って働くチロの姿を見て、客の一人が麦酒を片手に豪快に笑った。
「いやー! やっぱり女の子がいると良いね! 此処は料理が美味かったけど、華が無くて寂しかったんだよ!」
「店主は料理出したらすぐ引っ込んじまってたからなぁ。女の子に接客して貰えると美味さも倍増ってもんだ」
相席の客も同意するように頷く。
二人はすぐに別の話題に移ったが、聞いたチロは自分の頬が緩んでいるのが分かった。
(良かった!私、ちゃんと役に立ててるみたい!)
嬉しくなって笑顔が零れる。
自分を呼ぶ客の声にチロは元気良く返事をして、ショコラカラーの裾を柔らかく翻した。
***
「有難うございました! またのご来店をお待ちしてます!」
最後の客を見送ったチロはふうと息をつき、夜空に浮かぶ月を見上げた。
火照った頬を撫でていく夜風が心地良い。
「はー……無事に終わった……」
疲れもあるが、それ以上に達成感がチロの胸を満たす。
が、ふと昼間の出来事を思い出してしまい、一気に重くなった肩を落とした。
(……大失敗だったよなぁ)
もっと落ち着いて対応が出来れば。
あの時すぐにファズに確認を取れば。
今更になってあれこれと思い浮かんで、どんどんと気分が落ち込んでいく。深い溜息が零れた。
「チロさん、お疲れ様です」
「あ! ファズさん、お疲れ様です!」
不意に背後から掛けられた声に驚き、丸まっていた背筋が伸びた。
接客のテンションが抜け切らない声量で返してしまうと、ファズは自分の口元に人差し指を立てた。
「もう夜遅いので、静かに」
「……! すみません」
指摘されてチロは慌てて口を塞ぐ。
と、ファズが手招きしている事に気付くと、ドアのプレートを「準備中」に裏返して店内へと戻る。
「少し待ってて下さい」
「え? あの、ファズさん……」
てっきり店内の片付けを始めるとばかり思っていたチロは、再び奥へ引っ込んでしまう背中をぽかんと見送る。
取り敢えず言われた通りに席で待っていれば、やがてファズがマグカップを片手に帰って来た。
「これ、どうぞ」
ファズはそう言ってチロの前にマグカップを置き、向かい側に座った。
マグカップの中を興味深そうに覗き込んだチロは嬉しそうにパッと目を輝かせる。
「ホットミルク!」
「ええ、飲めば気分も少しは落ち着くかと」
「あ……」
その言葉に、自分が失敗を引き摺っている事を見透かされていると気付く。しかし、ファズからそれを責めるような雰囲気は感じられない。
チロはマグカップを手に取ると、ゆっくりと口を付ける。
そして、口内に広がった味に思わず目を見開いた。
「甘くて、美味しい……。……苺?」
温かくまろやかな甘酸っぱさ。
その正体を予想して呟けば、見ていたファズが頷いた。
「はい、木苺のジャムを混ぜています」
「やっぱり! ジャム入りのホットミルクってこんなに美味しいんですね」
「……気に入りましたか?」
ファズは伺うように首を傾げる。
もう一口、と飲んでいたチロはマグカップから口を離すと、ホットミルクの温かさで赤らんだ頬を緩めた。
「はい、何だか優しくて懐かしい味がします。初めて飲んだ気がしないような、安心する味って言うか……」
温かい甘さが心にじんわりと沁み渡る。
まるで遠い昔に何処かで味わったような優しい味。
失敗と疲労で擦り切れていた心が癒されていくのを感じていれば、ふと此方を見つめるファズの瞳が普段と違うことに気付いた。
燃え盛る炎を宿すような鋭い瞳。しかし、今はその勢いを潜めて、暖炉の炎のような柔らかさを浮かべていた。
「ファズさん……?」
チロは目をぱちくりとさせる。
戸惑いの色を含むその声に呼ばれたファズは不思議そうに首を傾げた。
「どうしました?」
「あ……いえ、その……」
──今の優しい眼差しはどういう意味ですか?
なんて、下手をすれば自惚れも良いところの質問を本人にぶつけられる筈も無く、チロは誤魔化すように俯いて口ごもる。
と、不意にドアを叩く音が店内に響いた。
パッと振り返ったチロは怪訝そうに眉間を寄せる。
「……こんな時間に誰でしょう?」
「私が出ますよ。面倒な輩だったら危ないですし」
そう言ってファズは玄関に向かう。その間もノックする音は止まない。
不信感を募らせながら慎重にドアを開けると、そこには女性が一人立っていた。
予想外の来客にファズの反応が一瞬遅れる。
その隙に女性が先に口を開いた。
「ごめんなさいね、こんな遅くに。ウチの亭主がここで食事をしたそうなんだけど、お金を払ってないとか……」
「亭主?」
「あっ! もしかして……」
聞こえてきた会話にチロは自分のポケットを漁る。
例の男性に渡された後、入れっ放しだったメモを取り出すと、席を立って女性に差し出した。
「あの、此方のお客様の……?」
「ん? ああ、そうそう! ……って、あの人ったら住所間違えてるじゃない。ごめんなさいね、迷惑かけて。これでお代、足りると思うんだけど」
メモを見た女性は呆れ顔で溜息をついた。そして、チロの手に何かを握らせる。
硬い感触に掌を開いてみれば、銅貨が数枚。数えるとランチセットの代金分があった。
「だ、大丈夫です。丁度です」
「良かった。あの人ったら、昼休みに此処に食べに来たんでしょう? 仕事に戻ったらすっかり忘れちゃったみたいで……寝る前に言うものだから叱り飛ばしてきたわよ」
本当にごめんなさいね、と女性は数度目の謝罪を口に出して頭を下げる。
代金を握り締めたチロがファズを見上げれば、表情は変わらないものの首を縦に振られた。それを確認したチロは安堵に頬を緩める。
「……こうして代金をお支払いに来て下さったので、もう頭を上げて下さい。ただ、当店はツケはお断りしていますので、次回からはお財布の確認をきちんとお願いします、と旦那様にお伝え頂けますか?」
頭を上げた女性は一度瞬きして、それから微笑を浮かべた。
「ええ、今度は私が財布を持って二人で来るわ。凄く美味しかったって聞いたから」
「……! はい、是非!」
込み上げる嬉しさのままに答えれば、女性は微笑ましげな笑みを見せて帰って行った。
見送った二人は店の中に戻る。
ファズは玄関に鍵を掛けるとチロを振り返った。
「あの、チロさん」
「はい? あ、これ代金です」
「どうも、……ところで貴女、さっきはどうしてあんなに嬉しそうだったんですか?」
「えっ?」
突然の問い掛けにチロはきょとんとする。
しかし、それが今さっきの女性との別れ際の会話の事だと思い当たると「ああ!」と手を打って笑顔を浮かべた。
「だってあれは、料理を褒めて貰えたので」
「貴女が作った物でも無いのに?」
「はい、ファズさんの料理が美味しいのは、この数日間で身を……というか、舌を以て実感しましたから。私が好きなものをお客さんに認めて貰えるのが嬉しいんです!」
答える程にチロの笑顔は輝いていく。
その笑顔と共に答えを受けたファズは僅かに目を見開き、やがて表情を戻すと、微笑むような吐息を漏らした。
「──本当に、貴女は……」
「え?」
「いいえ、有難うございます。……さ、もう遅いですし、掃除は明日の朝にしましょう。また明日も宜しくお願いしますね」
「はい! 此方こそ宜しくお願いします」
チロの言葉に頷き一つで返したファズは「では片付けがあるので」と厨房へと引っ込んでいった。
「ふあ……」
静かになった店内でチロは欠伸を漏らす。気掛かりだった代金の件が片付いた今、安心して眠りに就けそうだった。
気が抜けて目蓋が重たくなる。目を軽く擦りながら、ふとテーブルに置いたままだったマグカップに気付く。
もう随分と冷めてしまっていたが、チロはマグカップを手に取ると口を付けた。
冷たい筈なのに、飲むほどに胸の奥が温まるのは、それはきっと──。
「──……有難うございます、ファズさん」
見かけは無愛想でも、作る料理に込められた思いはこれでもかと分かりやすい。
チロは小さな笑みを零すと、甘酸っぱさが残る唇をぺろりと舐めた。