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ドアの開く音が聞こえて、テーブルを拭いていたチロは直ぐ様振り向いた。
そして、店内に入って来た中年の男性に頭を下げる。
「い、いらっしゃいませっ!」
声が若干裏返ってしまい、チロは内心で慌てた。
開店して数時間。既に何人か接客したが、当然まだまだ慣れていない。
緊張気味に男性を席まで案内すると、水差しから水を注いだコップをテーブルに置いた。
「メニューはある?」
「あ、す、すみません! 当店は今の時間はランチセットだけでして……」
「そうなの? ランチって何食べられるのかな?」
「今日は、えっと……く、胡桃パンとポテト……マッシュポテト入りのチーズオムレツと、ミネストローネとなってます!」
所々つっかえながらも何とか言い切れた、とこっそりと安堵の溜息を漏らす。
説明を聞いた男性は「じゃあそれで」と言うと水を飲み始めたので、チロは了承の返事をすると厨房へと向かった。
「ファズさん、ランチ一つです!」
「はい、……まだ大丈夫そうですね。夜の方が忙しいので、昼の内に出来るだけ慣れておいて下さいね」
「うぐ……が、頑張ります!」
チロは両手をグッと握って気合を見せる。
そんな反応にファズは少しだけ眦を緩めては、手際良くランチセットを用意していった。
「はい、ではこれをお願いします」
「はーいっ」
元気に返事をしたチロは、完成したランチセットを持って男性の下へと向かう。
(それにしても……)
香ばしさの中にふんわりと素朴な甘さを含んだ匂いを漂わせる胡桃パン。
柔らかな半円型のオムレツを割り開けば、舌触りがクリームのように滑らかなマッシュポテトとコクのあるチーズが中からとろりと出てくる事だろう。
じっくりと煮込んだミネストローネの、強くなりがちなトマトの酸味を抑えるのはたっぷりの野菜と豆、ベーコンの旨み。そして、隠し味に少しだけ入れる砂糖だと、ファズはこっそりと教えてくれた。
(ほんっとうに美味しそうーっ……!)
このまま見つめているとうっかり涎が垂れてしまいそうだ、とチロは慌てて目を逸らすと、笑顔と共にランチセットを男性のテーブルに届けた。
「お待たせしました、ランチセットです!」
「おお、美味しそうだね。有難う」
「ごゆっくりどうぞー」
自分が作ったわけでは無いが、こうして料理を褒められると嬉しく思う。チロは笑顔で答えると、食事の邪魔にならないように隅へと移動した。
(ふー……どうにか様になってる、かな?)
こっそりと壁に背中を預けて息をつく。
店に立つ前は緊張と不安でいっぱいだったが、実際に働き始めてみればそれどころでは無かった。
けれど、失敗は今のところ想像していたよりも少なくて済んでいるし、失敗しても素直に謝れば客も案外あっさりと許してくれる。そのお蔭であまり落ち込まず、失敗も次の接客に生かす事が出来た。
(この調子で閉店まで頑張れば大丈夫だよね、うん! 頑張ろうっ!)
気合を入れ直して拳をギュッと握る。
と、男性客が何かを言いたげに此方を見ている事に気付き、慌てて傍に向かった。
「失礼しました、何かご用でしょうか?」
「あー……いや、実はね……」
男の歯切れの悪い物言いに、チロは首を傾げる。
もしや料理に問題があったのかと思ったが、テーブルの上の皿は綺麗に空になっていた。オムレツやミネストローネは最後にパンで拭ったようで、一見すると未使用の食器かと勘違いしてしまう程である。
此処まで食べ尽くしてもらえたのなら、料理の事では無いだろう。
(どうしたんだろう……?)
予想が付かないチロが疑問符を浮かべていれば、男性は申し訳なさそうに言った。
「どうやら、財布を忘れてきてしまったみたいでね。仕事が終わったら払いに来るから、待っててもらって良いかな?」
「えっ……」
「名前と住所書いていくからさ、すまないね!」
「あ、あの……」
そう言われても、本当に代金を持って戻ってくる事の証明にはならないし、そもそもファズにも「ツケは受け付けないで下さい」と前以って説明を受けていた。
しかし、男性は答えも待たず、持っていた手帳にさらさらと書き込んで、そのページを破るとチロに押し付けた。
「あっ! お、お客様っ!」
そして、チロが反応する間も無く、男性は店を出て行ってしまった。
あまりの勢いに一瞬出遅れるも、どうにか呼び止めようと急いで玄関を飛び出す。
しかし、辺りを見回しても人気の無い煉瓦道が続くばかりで、既に男の姿は無かった。
(ど、どうしよう、とにかく今の人を探しに行かないと。でもお店を空けるわけには、だけど急がないと──)
あれこれ考えるも、気持ちばかりが先走ってその場に立ち尽くしてしまう。冷や汗が頬を伝い、思考が真っ白になる。
「どうしました?」
「あ……ファ、ファズさん……」
どうやら異変に気付いたらしく、店の中からファズがやって来た。
唯一頼れるその姿を見た途端、呆然としていた意識が徐々に戻ってくる。
そして、込み上げる感情を耐え切れなくなったチロは、くしゃっと泣き出しそうな表情を浮かべた。
「……!?」
表情が悲しげに崩れたのを目の当たりにしたファズは僅かに目を見開く。
小さな肩に片手を添えると、遂に俯いてしまった顔を覗き込んだ。
「……何がありました?」
「あの、お客様が、お金取りに行くって言って、私、引き止められなくて……っ」
ごめんなさい、とチロは震える声で謝る。
ファズは小さな手に握り締められた紙をそっと取ると中を見て、小さく溜息をついた。
「成る程……この住所は近所ですが、確か空き家だった筈です。……恐らくは食い逃げ、でしょうね」
「……っ!!」
薄々察していた最悪の事態に、チロの顔がサッと青ざめる。頭の中が真っ白になり、地面に付きそうな勢いで頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 私がもっと、ちゃんとお客さんを引き止めていたら!」
「いえ、滅多に無い事ですし、上手く対処出来なくても仕方ありません。それに、いきなり一人で立たせた私にも問題があります」
「ファズさん……」
淡々とだが気遣う言葉を掛けられて、頭を上げたチロは瞳を潤ませる。
しかし、その涙が零れる前に拭うと、少し力を取り戻した眼差しでファズを見た。
「……っ、次からは気を付けます! すみませんでした!」
そう言ってもう一度頭を下げる。
すると、その頭を大きな手が撫でた。
驚いて見上げれば、ファズがいつも通りの表情で頭をわしわしと撫で回していく。
「ファズ、さん?」
驚き半分、嬉しさ半分で大人しく撫でられていれば、その手は最後に頭頂をポンポンと叩いて離れていく。
そして、チロが触れられていた箇所を押さえてきょとんとしている間に、ファズは店内へと戻って行ってしまった。
(これって、もしかして……)
今のがファズなりの励ましだと気付くと、自然と口角が持ち上がる。鉛を抱えたようだった胸が少し軽くなった気がした。
(……うん、落ち込んでたって失敗は取り返せないもんね!)
頬をパチンと叩いて気を引き締める。
取り敢えずメモをポケットに入れると、次に来る客の為にまずは片付けだと意気込みながら店内へと戻ったのだった。