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窓から射し込む朝日が部屋を照らす。
ベッドで寝ていたチロはその明るさに眉間を顰め、ゆっくりと目を開いた。
木目の天井を見つめて数秒。やがて起き上がると、寝起きで気怠い体をうーんと伸ばして息をついた。
「良かった、夢じゃなかった……」
これで昨日のやり取りが全て夢で、外で行き倒れているのが現実──なんて事があったら、確実に心がぽっきりと折れる。
確かに感じる毛布の柔らかさに安堵しつつ、チロは取り敢えずベッドから出た。それから窓を鏡代わりにして、手櫛で髪を気休め程度に整えていく。
(よし、こんなものかな)
元から多少癖が付いた髪なので、寝癖が残っていても気付かれないだろう。
そう判断したチロはよしと頷くと、部屋から出て階段を下りていく。何やら漂ってくる甘い匂いに頬を緩ませつつ、奥の厨房をそうっと覗き込んだ。
「おはようございまーす……」
調理台に向かう背中に声を掛ける。
おどおどとした挨拶だったが、ファズは気付いて振り返った。その手には既に包丁が握られている。
「おはようございます、チロさん。よく眠れましたか?」
「はい、えっと……私は何をすれば良いですか?」
昨日の話ではウェイトレスとして働くという事だったが、それ以外でも当然何かしらの仕事があるだろうと首を傾げる。
すると、ファズは皿を差し出した。
咄嗟に受け取ったチロはその皿に乗った物を見ると、きょとんとした顔でファズを見上げる。
「あの、これは?」
二つに切られた食パンは程良く焦げ目が付いた卵色を纏っている。ふんわりとした甘い匂いは先程一階に下りてくる時に嗅いだものだった。
突然渡されたフレンチトーストに戸惑っていると、ファズは皿の上で小瓶を傾けた。蜂蜜がとろりと流れ落ちていく。
眠っていた食欲を起こすのには充分過ぎる光景にチロが喉を鳴らせば、ファズは小瓶の端に付いた蜂蜜を指で拭いながら言った。
「朝食です。これを食べたら街に出ますよ」
「買い出しですか?」
いただきます、と言ってチロは早速フレンチトーストを頬張る。表面は香ばしく、しかし噛み締めると、しっとりとした食感と共に優しい甘さがじゅわりと染み出した。
「ん~……美味しいっ!」
チロは今にも頬が蕩けそうな幸せ一杯の表情でフレンチトーストを食べていく。
そんな彼女をファズは横目で見つつ、既に洗い終えたフライパンを片付けながら言った。
「いえ、今日は店は休業です。貴女の生活に必要な物を買いに行きましょう」
「えっ? い、良いんですか?」
「住み込みで、と言ったのは此方ですから当然です。服もそれだけでは不便でしょうし」
そう言われてチロは自分の体を見下ろす。確かにこの白いワンピースでは働きにくい上に悪目立ちしてしまうのが予想出来る。
ひたすら甘えっぱなしで申し訳無さが募る一方だったが、それは今後の働きで返していくことにした。
「ところで、もう一切れ食べます?」
「はいっ」
何にせよ、腹が減っては何とやら。
躊躇い無く頷いたチロは、口端に蜂蜜を付けたまま嬉しそうに皿を差し出した。
***
結局あの後、フレンチトーストを二回お代わりしたチロは食後の紅茶を飲んでいた。
「用意をしてきます」と厨房を出ていったファズを待ちながら何となく辺りを見回す。
調理器具や調理台は年季が入っているものの、どれも綺麗に手入れされている。昨日今日と食べた料理の味とも併せて、ファズは相当な腕前の料理人なのだろうと思えた。
「お待たせしました」
丁度紅茶を飲み終えた頃、ファズが二階から下りてきた。
振り向いたチロはその手にある物を興味深そうに見つめる。
「ファズさん、それは?」
「クローク(外套)ですよ。私が昔使っていた物で恐縮ですが、今日はこれを上から着たら良いと思いまして」
そう言いながらファズは深緑のクロークを広げてみせる。
それを受け取ったチロが身に纏ってみれば、見事に全身がすっぽりと覆い込まれた。これならば目立つことは無いだろう。
「わざわざ有難うございます」
「いえ、では行きましょうか」
「はい! 宜しくお願いします」
ファズの後に続いて玄関へと向かう。
開いたドアの先へと出れば、一気に明るくなった視界に軽く目が眩んだ。やがて、光に慣れた視界に煉瓦道が映り込む。
そして振り返れば、古びた煉瓦造りの小さな建物が建っていた。玄関上から下がる木の看板には「紅灯亭」と書かれている。
店を見上げているチロに気付いたファズは玄関に鍵を掛けて言った。
「小さな店でしょう」
「はい、可愛くって良いお店ですね」
チロが思ったままに答えると、ファズは目をぱちくりとさせる。そして、一度深く頷くと鍵をズボンのポケットにしまった。
「……ええ、私も気に入ってます」
その声はやはり淡々としていたが、何処か嬉しそうな雰囲気を帯びていたような気がした。
しかし、チロがそれを確認する前にファズは背を向けて歩き出してしまう。
「あ、ま、待って下さい、ファズさん!」
この街の事を何も知らないので、ファズがいなくては行動を起こせない。チロは深緑のクロークを翻すと、静かな煉瓦道に足音を響かせて追い掛けた。